2009年5月26日火曜日

5月24日 罪について (ひねくれ者のための聖書講座 ④ )

 「これが聖書の教えだ」と言われて面食らうことのひとつに、「人は生まれながらに罪人だ」というのがあります。いわゆる「原罪」と言われるものです。今日の講座では、この「原罪」について少しばかり考えてみたいと思います。キリスト教のイメージというと、別に犯罪を犯したわけでもないのに、罪人だの何だの言ってウジウジ懺悔したり、ジメジメ祈ったりしている感じがしませんか。(ちなみに私は今でもそう思っていますが・・・)実際の聖書のメッセージはもっとクールでドライです。ハッキリ、スッキリしています。しかし、この「ウジウジ」「ジメジメ」といった感覚も、ある意味では、犯罪でない罪に対する反応としては、一時的には当然のものです。今日のメッセージでは、できれば、そのあたりの感覚をうまく伝えられたら・・・・と願っています。

 他人様の迷惑になるようなことをせず、自分のことは後回しにして家族を愛し、日々勤勉に仕事をし、慎ましく生きてきた善男善女に、いきなり「あなたは罪人ですよ」と言ってもなかなかピンとこないどころか、反発を買うのが関の山です。黒地に白で、「悔い改めよ」などという広報をしても、世間の感覚ではドン引きです。確かに神の前に悔い改めることは必須事項ではありますが、脈絡もなくみことばの断片を突き付けても、何の意味もありません。
 聖書は、「何かやましいことや隠れた罪があるでしょう」「はたけば埃も出てくるんじゃないの?」みたいなことを言っているわけではないのです。神はそんなイヤミな御方ではありません。
 また、神父さまに懺悔したり、牧師さまに悩みを相談したりなどというキリスト教的な光景も、信仰とは何の関係もないものです。そんなものはセキュラーなカウンセリングや占いやと同じです。私たちがいちいち申告しなければ、私たちの犯した罪や隠れた罪がわからないような神なら、そんなものが存在したとしても、別に役にも立たねば、恐ろしくもないでしょう。また、全知全能の神を紹介しながら、神に何か不自由でもあるかのように、神と人の間に割って入る存在とはいったい何なのでしょうか。このように、多くの場合、キリスト教のやっていることが、罪のイメージを歪め、聖書の教えを曲げて伝えているわけです。

 法に触れる犯罪を犯した人は、裁判にかけられ、有罪となれば、社会から隔離され、処罰されます。しかし、神様など存在していない世界でも、罪を十把一絡げにまとめて断罪したりはしません。例えば、同じ殺人でも、殺意があったのかなかったのか、計画的だったのか、責任を負える能力があるのか、動機に情状酌量の余地があるのかないのかなど、様々な段階をもうけて判断する柔軟な姿勢と慎重さがあります。先週始まった裁判員制度も、さまざまな意見や批判はあるものの、そうしたより公正で合理的な手続きを目指して取り入れられたものです。犯罪に対する社会の対応は決して十分とは言えませんが、法が適応される範囲においては、かなり繊細なものだと言えましょう。そして、罪に対して罰を与える最大の目的は、法によって社会の秩序が可能な限り守られるためです。

 あらゆる種類の法律は、共同体や共同作業が円滑に機能するために作り上げた約束事がベースになっているのですが、裁かれない「罪の意識」や「被害者の感情」というものに対しては、当然のことながら応えきれません。先程申し上げた「犯罪ではない罪の問題」に社会は無力なのです。私たちが深い悩みを抱えたり、時に心を病んだりするのは、法の逸脱にはあたらない、社会的には裁かれない罪が原因です。つまりそれが原罪です。

 するべきことがわかっていて、したいと思っていることがあるのにそれが出来ず、その気がないのに、嘘をついたり、傷つけたりしてしまうのが人間です。そういう人間が抱えている本質的な罪については、法は無力です。宗教は、こうした良心の呵責につけこんで、さまざまな教えを最もらしく語ります。宗教は、犯罪ではなく、原罪を勘定に入れた事業また商売だと言えます。

 では、聖書はこの点について何と言っているのでしょうか?
 「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし、私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。」(ローマ7:19~21)
 これはすごいことばです。私はやりたくて悪を選んでいるわけではない。つまり罪が「原理として」罪を犯していると言っているのです。原理というのは、そうなるべくしてなるという因果関係のことです。つまり人は罪を犯さざるを得ないわけです。

 これは、極めてストイックな生活を自らに強いて生きてきたパウロの告白です。デタラメに欲望に任せて放蕩してきた人の述懐ではありません。理想が高い人は現実がその基準に満たないことをよく知っています。プロ野球楽天の野村監督は、「理想と現実のギャップがボヤキ」なんだと言っています。思い描く理想に現実は遠く及ばないことを大抵の人は知っているはずです。しかし、だからといって、そのことで罪人として生き方を転換するほどの深い悔い改めを強いられることには、抵抗があるはずです。 
 なぜなら、私たちには「罪を犯した」という自覚症状がないからです。「基準に届かない」という認識は「私は罪を犯した」という感覚とは違います。しかし、聖書が私たちの罪を指摘するのは、「私は罪を犯したという感覚」ではなく、「基準に届かないという認識」を持てということなのです。これだと少しわかりやすくないですか。この基準を聖書では「法律」ではなく、「律法」と呼んでいますが、律法を持たない異邦人にも、神がインプットされた「良心」という機能において共有しうる感覚です。

 野球が好きなので、野球の例ばかりで恐縮ですが、4割にも届きそうな驚異的な打率を誇るイチロー選手でも、逆に表現すれば6割以上は凡打だということです。神の基準を言えば全打席ヒットを打たないと失格」つまり罪人というようなものなのです。人間の身体能力と野球というスポーツのルールを考えると、イチローは天才打者であって、人間としての身体機能を野球というスポーツにあわせて鍛え抜き、その可能性を限界まで突き詰めた人だと評してもいいでしょう。
 ですから、私たちの世界で「あの人は立派な人だ」「高僧だ」「聖人だ」などと言っても、所詮は3割打者のレベルだということです。勿論打率が2割台の平均的なプレイヤーと3割バッターは格が違うし、イチローともなれば、さらにその上です。
 しかし、聖書が「義人はいない。ひとりもいない」と言うとき、本当に一人もいないわけだから、神様の眼鏡にかなう「いい人」「立派な人」になってやろうという試みは、全く無駄だとわかります。神の要求する基準を満たすことは、100%不可能だからです。

 私たちは、この世に生を受けたと同時に自動的に罪人となりました。私が男であることも、日本人であることも、20世紀に生まれたことも、私は一切選択していません。それは私ではない何者か・・・私の存在を保障する主権者である神が、ある時代、ある地域に、ある家族の中に、私を男として、私を置いたのです。従って、私には責任がないし、なぜお前は男なんだ。どうして日本人なんだと責められる必要などないのです。
 同様に、罪人が罪を犯してしまうのは当然です。それは、「犬がワンとなくようなもの」です。これをパウロは「原理」だと表現したのです。ですから、神は私たちが罪人として生まれることを許しながら、私たちが罪人であるという理由で罰することは絶対ありません。

 では、神は私たちの何を責められるのでしょう。神は「私たちが罪人であること」を責められるのではなく、私たちがその罪のゆえに「神の存在を否定し、神の呼びかけを無視し、神の救いを受け入れないこと」を責められるのです。
 人間社会の中における法の逸脱行為やそれに対しての懲罰の経験は、罪の赦しの問題とは関係ありません。私たちは犯罪者を指さして、「私はあのような罪人ではない」と言いますが、そのような意識は、自分の罪を神の前に棚上げしているに過ぎません。それは、私たちの中にある原罪が顕在化しただけです。具体的に犯罪を犯していることも、犯していないことも罪人の「ある状態」を示しているに過ぎません。

 こんな譬えはどうでしょう。コップに水と泥が入っています。安定したテーブルの上に一定時間置いておけば、泥は沈殿し、上澄みの水はきれいに見えます。しかし、コップを手に持って揺らせば、とたんに水は濁るでしょう。澄んでいる水も、濁った水も、コップの状態にともなった視覚的な情報であって、コップの中に泥が入っているという事実そのものは変わらないのです。私たちのコップの中の状態はテーブルの安定度によって左右されているだけなのです。

 イエスが肉体をもってこの地上におられたとき、救いを受けた人たちの多くは、売春婦や取税人など、当時の社会からはみ出していた人たちでした。彼らは一般の人たちよりも、罪を意識しやすかった、つまりコップの泥がはっきりわかる人たちだったわけです。しかし、安定したテーブルを得ている人たちは、自分のコップの水は、泥水ではないと言い張ったのです。しかし、彼らのコップの中身が泥水にすぎないことは、イエスというどこまでもきよい御方を憎み、拒み、十字架につけることによって明らかになりました。
 「イエスの十字架を信じる」すなわち、キリストを受け入れるということは、私たちが、「もうひとつ別のコップを持つ」ということです。「コップを洗って中身を入れ替える」というよりは、コップそのものを破棄するイメージです。私のたとえでは、検尿に使った紙コップを水洗いして、おしいくビールを飲める人という感覚の人を聖人と言います。聖人と呼ばれる人の怪しさは、この拭いきれない小便臭さにあるわけです。

 人は罪それ自体を責められませんが、「罪は赦しがたいものであること」を認めなければなりません。
 「義人はひとりもいない」と主張する聖書はイエスにこう語らせています。
 「あなたがたのうちにだれか、私に罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか」(ヨハネ8:46)
 イエスは自分の罪に鈍感、無感覚なのでしょうか?
 姦淫の現場で捕らえられた女を責め立てる群衆に向かって「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:10)と静かに一喝された御方です。
 イエスが私たちと同じような罪を持った「ただの罪人」であったなら、全く聞くに値しません。しかし、イエスがこの証言どおり「罪のない人」なら、すべての問題がほどけるように解けていきます。
 人間の罪深さは、正しい人イエスと、その正しい人が受けた身代わりの罰を見ることによってわかります。
 イエスの正しさは、すべての生まれながらの罪人の罪を肩代わりするための資格を表すものです。
 聖書はこう言っています。
 「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、-それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
 「もしひとりの人の違犯により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物を豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違犯によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」(ローマ5:17~18)

 誰も神の前に真実であることは出来ません。そして、そのことは神がよく知っておられるし、それを理由に人を責めたり、裁いたりなさいません。何度も言うように、私たちは生まれながらに罪人だからです。しかし、私たちの誰もが出来ることがあります。それは、「神が真実であること」を告白することです。つまり、イエスは私たちと全く同じ人としてのからだを持ちながら、私たち誰もがもっている原罪がなく、そのゆえに、私たちの身代わりとなり得たこと、私たちの身代わりとなって死に、よみがえらたこと。その事実を信じ受け入れる者は、すべての罪を赦され、神の子としての特権を得て、永遠のいのちを得るということです。その約束が実現するのは、確かなことで、私たちの信じる力や誠実さではなく、神のことばであるがゆえに、キリストの贖いの完全さのゆえに、間違いなくそうなると聖書は告げるのです。このように見てくると、私たちが罪をもって誕生したことは、神との深い絆を結ぶための布石であったことがわかります。神を拒むことも、神を信じながらウジウジ、ジメジメすることも、的を外しているわけです。
 こんなところで、第4講座、「罪について」を終わります。