2007年10月11日木曜日

10月7日 ペリクスの葛藤


パウロは、紀元58~60年の2年間にわたってカイザリヤの獄中で過ごします。この間に総督ペリクス、そしてフェスト、アグリッパⅡ世という3人の時の権力者の前で証の機会が与えられることになります。その様子が使徒24~26章に記されているわけです。今日は、ペリクスの前での証の場面を見ながら、ともに学んでいきたいと思います。このペリクスという人物は、ユダヤ人のドルシラという妻がいましたが、この人は第3婦人でヘロデ・アグリッパ1世の末娘です。ローマの歴史家タキトゥスによると、相当な専制家だったようです。千人隊長がパウロと対面したとき、「四千人を引き連れて逃げたエジプト人の暴動の首謀者」(使徒21:8)と間違えかけた場面がありますが、その事件の際にも暴動に加わった群衆400人が殺され、200名が捕らえられたという記録があります。この証の場面のちょうど3年前の事件です。それ意外にも暴動や民族運動には、容赦ない態度で望み、多くの血を流してきた人物です。
大祭司アナニヤや数人の長老とローマの弁護人であるテルトロという人物を連れてきて、パウロについて訴えさせました。そのことばが実におもしろいです。「この男は、ペストのような存在で世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人という一派の首領でございます。」(使徒24:5)このことばから、ふたつの事実がわかります。テルトロはパウロのことを、とんでもない伝染力をもっていたペストという病気に喩えています。彼らは腹を立てながらも、パウロの影響力のすさまじさは認めているわけです。彼らの目から見れば、まさに福音が伝染病のように広がっていったのです。もうひとつは、「ナザレ人」という軽蔑を込めた呼び方です。「ナザレから何の良い者が出るだろう」とナタナエルがピリポに向かって言ったことばがありますが(ヨハネ1:46)、これと同じ意味合いでしょう。「田舎者」つまり「正当でないもの」従って「異端」というニュアンスが込められているわけです。彼らがパウロを生かしておくことは、自分たちの穏やかで健全な日常を脅かすことであり、また、伝統も格式もない「ナザレ派」なるものを認めることは、「中央」であるエルサレムの権威が失墜することを意味するからです。覚えておきたいのは、パウロや弟子たちは、「ナザレ派」というグループの正当性など全く主張してはいないということです。この点については、あとでもう一度ふれます。
少し本題から外れますが、私が気になるのは、「パウロを殺すまでは飲み食いしない」と誓った人たちが、本当にその誓いを守ったのだろうかということです。この時点ですでに少なくとも5日以上は経っているわけですから、律儀に誓いを守っているとしたら相当なものです。こういうくだらない誓いを立てること自体、その主張を何一つ聞くまでもなく、そのグループが間違った選択をしている証拠です。正しいことを行うなら、単独で粛々とやればいいのです。何も他人を巻き込んでグループを約束や誓いで縛る必要はありません。肉の情熱は「いかにも」というようなイベントを組みキャンペーンを張りたがるのです。眠らずに長時間祈るだの、集団で断食するだのというようなことを仰々しく呼びかけてやっていますが、これは愚かしいことです。主は「長々同じ事を繰り返し祈るな」「往来など目立つところ祈りはするな」とおっしゃっています。「断食するなら他人に知られないように」と言われています。こういう明確な禁止事項を平然と破っているわけです。○○大会に「いくら集める」「何人集める」という目標も、得意気な結果報告も、「パウロを殺す」と言う目標とたいした違いはないと思えます。
テアトロの訴えていることを具体的に見ていくと、「この男は宮を汚そうとした」(使徒24:6)と言っていますが、その点については、事実はそうではなくて、町でエペソ人のトロピモという人と一緒にいるところを見かけただけです。(使徒21:27~30)アジアから来たユダヤ人が、事実ではないことで因縁をつけて群衆を煽ったというのが真相です。騒動を起こしたのは、パウロではなくアジアから来たユダヤ人でした。ちなみにこのトロピモという人は、一時期パウロの伝道旅行に同行した人物です。(使徒20:4)ですから、パウロは、「誰とも論争などせず、群衆を騒がせることもしていない」と証言しています。これが真実です。しかし、彼らが自分たちを「異端」と呼ぶならそれはそれでいいだろうという態度をとっています。自分の信じていることの本質については弁明していますが、どのように呼ばれて評価されようが、そのことについてはあえて修正はしていません。(使徒24:14~16)パウロのきっぱりとした信仰の態度が伺えます。先ほど、パウロはナザレ派の正当性など主張していないと言いましたが、それは今日においても重要な意味を持っています。私の信仰のスタイルの正しさなど主張しても仕方がないのです。大事なのは、「私の信じている御方」です。この御方はいつも「抜き身の剣」であるみことばを持って、約束のカナンの地を獲得するために聖なるところに立っておられます。誰かが私の敵か味方はではなく、私が「主の軍の将」である方の側に立つかどうかなのです。(ヨシュア5:13~15)「足のはきものを脱げ」(ヨシュア5:15)これが命令です。「どこの教団、教派に属している」だとか、「私の役割や資格はああだこうだ」とか、そういうのは、はきものについている汚れです。ユダヤの指導者たちは、ご立派な権威の靴をはいて、聖なるところに踏み込もうとしているわけです。裸足のパウロとの違いは明確です。パウロがはいているのは何ですか。「平和の福音の備え」(エペソ6:15)です。
イエスさまと当時のユダヤの指導者たちとの確執の構造は、そのままパウロや弟子たちが受け継ぐことになりました。肉は御霊の働きを受け入れることが出来ません。イエスさまが初めてお越しになったときのこの確執の構造をしっかり理解するべきです。イエスさまが再びお越しになるときにも、同じことが起こります。すなわち、イエスさまのいのちを受け継ぐ本当の弟子たちとそうではない権威グループとの対立です。このような主張は権威グループにとっては非常に耳の痛い不愉快なものなので、この世的な数の力、組織の力や、感情的な扇動によって、当時と同じように、本当の主のしもべたちを攻撃、圧迫するでしょう。残念ですが、どうやらこれは逃れられない通過点のようです。いつも主の側にある者は、反目や対立を好みはしません。いつも間違っている側が勝手に興奮し、勝手に争いをけしかけ、主のしもべを陥れようとするのです。イエスさまが終わりの時代の教会の姿について語られたたとえを一つ見てみましょう。(マタイ24:45~51)忠実な思慮深いしもべは、食事時には、家の者に食事をきちんと与え、悪いしもべは、口では言わないが、心の中で「主人はまだまだ帰らない」と思って、仲間を打ちたたき飲み食いすると書いてあります。食事とは、健全なみことばで兄弟姉妹を養い、主人がいつ帰って来られてもお迎えできるように心からお待ちすることです。主人を慕い彼の訪れを待つ心が教会の本質です。決して家が大きくなることではない。花代が花婿を忘れて肥え太ることではないはずです。それは、聖書全体からあふれ出るほどはっきり書かれていることです。
「真理の土台また柱である」と言われているキリストの教会が、なぜこれほどまでに聖書からかけ離れたことを主張し続けて来たのか、私は不思議でたまりませんでした。「ひとつのからだ」「ひとりの花嫁」と呼ばれている教会が分裂分派を繰り返しながら、「自分たちは聖書66巻をすべて神に霊感されたことばであると信じ・・・」などと、ほとんどの団体が主張しながら反目し合っている状況は客観的な説明のつかない混乱に陥っているとしか言いようがない。イエスさまと出会うまでの私の目には、教会などというものは、自分の頭でものを考える力のない人たちの仲良しクラブにしか思えませんでした。 私はクリスチャンになる前から、キリスト教文化とその社会的な影響については、世界史や哲学、文学や美術や音楽を通して知っていましたので、キリスト教には何の魅力も感じず、自分がクリスチャンになる予定もなければ、その可能性もないと思っていました。 ところが、みことばそのものを偏見なしに読み進んでいくと、私が見聞きして知っていたいわゆる「キリスト教」と、聖書に書かれている本当のキリストとは全く違っていることに気づかされていくわけです。聖書が求めている本当の教会の姿は、既存のほとんどの教会のあり方とは全く違う。私はみことばを受け入れ、よみがえられたイエスさまに出会ったことで、みことばの字面の意味だけでなく、聖霊の光によって、物事の霊的・本質的な意味が見えてきたわけです。それは、暗かった部屋にあかりがついたようなもので、私の視力や探求心の結果ではありません。
私のような経験をしてきた無名の兄弟姉妹は、実は歴史上にいっぱいいて、キリスト教会正史の中には名を残さないまま、ただいのちの種子をつないで、その役割を終えていきました。キーワードはいのちです。これは、火縄銃や羅針盤と一緒に伝わってくる文化や風俗としてのキリスト教とは違います。キリスト教年鑑に載らなくてもいいのです。そういう小さな群れは、世界のどこにもあるのです。みなさんもそのひとりです。このような兄弟姉妹は、ただ主にだけ覚えられ、よみがえりの日にひとりひとりがその名で呼ばれ、ひとつのからだの中に組み込まれ、ひとりの花嫁として建て上げられます。もしかして、その中には、活躍したはずのキリスト教正史に名を残したあの先生、この先生はおられないかもしれません。私は知りません。主がご存じです。イエスさまがお越しになるとき、世の中のすべては、十字架を軸にして反転するはずです。パウロは、律法の本質とその霊的な意味を知り、それを伝え体現しましたが、律法の字面の表現にのみとらわれているユダヤの指導者たちの目には、律法を冒涜し破壊する者と映りました。ユダヤの指導者たちは、力でパウロをねじふせようとしますが、それはかなわぬことでした。パウロを憎めば憎むほど、彼らの愚かさと間違いが露わになりました。同じようなことが、キリスト教会内でも起こる可能性はありますし、起こりつつあります。現在のキリスト教会の現状を見渡せば、福音派の教会の中には相撲協会の体質との共通点がいっぱいありますし、聖霊派の教会の中には円天市場みたいなところがあります。いつも申し上げますが、教会の内外に関わらず、体裁は違っていても、人間のやることは同じなのです。
ペリクスの内面にスポットを当ててお話しましょう。彼は、この道、すなわち「彼らが異端と呼んでいるこの道」(使徒24:14)に相当詳しい知識を持っていたと書かれています。(使徒24:22)ですから、当然ユダヤ人の指導者たちよりもパウロの言い分の方が正しいことは簡単にわかるわけです。しかし、政治的にはユダヤの指導者たちの気持ちを損なうことは得策ではありません。(使徒24:27)そこで、取りあえずパウロを監禁はするが、ある程度の自由を与えるという折衷策をとりました。ペリクスは、パウロの無罪を確信しているだけではなく、そのメッセージの内容にも興味を持っていました。それは、彼の妻がユダヤ人であったこととも関係があるかも知れませんが、夫婦揃ってパウロのメッセージを聞いています。パウロは、「正義と節制とやがて来る審判」(使徒24:25)について語ったと書いています。パウロは、「あなたは愛されています。イエスさまは、ありのままのあなたを無条件に愛しておられます。イエスさまを信じればあなたの人生のもっと豊かになります」などとは言いませんでした。これも覚えておきたいことです。占いのような個人預言や、手品のような癒しが、いくら大流行しても、そういうものに目を向けるべきではありません。そういうものは、ヘロデが求める人生の余興なのです。(ルカ23:8~9)
このペリクスの態度は、バプテスマのヨハネの前のヘロデや、イエスさまの前のポンテオ・ピラトを思い出させます。実際ペリクスとヘロデは、他人の妻を奪うという同じ罪を犯していました。ヨハネもヘロデに囚われている身でありながら、彼の不正をあからさまにしつこく責めました。(マルコ6:18)ヨハネもパウロと同じです。「不倫をしていても、あなたは愛されています。神さまを信じれば赦されます。」などとは、言いませんでした。ヘロデは責められながらも、ヨハネが正しいことを言っているとわかっていました。「ところが、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。」(マルコ6:19~20)おそらく、ペリクスも同じような感じだったでしょう。人間の心理というのは、不思議なものです。どんな悪者であっても、完全にイエスを拒むまでは、正義に対しては、心を揺り動かされるものなのです。ヘロデの妻であるヘロデヤは、ヨハネを殺そうとしていましたが、ペリクスの妻は一緒にメッセージを聞いていたのですから、ペリクス夫妻はヘロデよりも、いっそういい感じだったわけです。いずれも喜んでメッセージを聞いていた熱心な求道者だったわけですが、最終的には、受け入れることが出来ないばかりか、卑劣な方法で取り返しのつかない罪を犯してしまいます。ヘロデは見栄のためにヨハネを殺し、ペリクスはパウロにたかって賄賂を要求します。ペリクスはパウロに対してどのような交渉をしたのでしょうか。詳しくはわかりませんが、おそらくはこういうことでしょう。ペリクスはパウロが同胞に施すために集めたお金を持っていると思っていました。さらに、パウロはクリスチャンたちからの信望も厚く、その気になれば、獄中にいても集金力があることを知っていたので、集めた金の一部を横流しするように、その見返りとして勾留期間を短くしてやるとか、拘留中の自由を拡大してやるとか言って、パウロの気を引こうとしたのです。実に卑劣な男です。ちなみにペリクスというのは、「幸福」という意味です。聖書が教えるところが正しいことがわかっても、それだけでは人は救われません。このような間違った動機でメッセージを聞き続けても、いっそう悲惨な結果を招くだけです。
ペリクスの葛藤は、クリスチャンとは無関係のものだと思われるかもしれません。しかし、そうではありません。このようなモデルで考えてみてください。私たちもペリクスのような自由な選択権を持って自分の人生をやりくりしています。パウロを幽閉しつつ、自分の都合のよいときに、パウロを牢から出して、その話をときどき喜んで聞く。そして、心を責められてはまた閉じこめる。自分がパウロに対して優位に立っているので、それが出来る。そして挙げ句の果てに、パウロを利用して金を得ようとする。キリスト教の活動を通して、イエスさま以外の何かを得ようとしている人は少なくないはずです。そんな姿は、実はけっこうペリクスと似ているのです。