2007年2月23日金曜日

2月18日 アリマタヤのヨセフ


十字架と復活の間にある埋葬の記事について、ともに分かち合いましょう。
ルカ23:50~56 ヨハネ19:38~42 マタイ27:57~61
マルコ15:42~47

埋葬についてしっかり確認することには、大切な意味があります。ひとつは、イエスさまには葬られる人としての肉体があったということです。もうひとつは、イエスさまは完全に絶命されたということです。そして、神の裁きと救いの御業は完了したということです。私は、「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」(Ⅰヨハネ4:3)が神からのものであると強調してきました。この埋葬の記事からもわかるように、イエスさまは、人として神に従い、人として苦しみを受け、人として罪を犯さず、人として罪を背負われ、人として死なれました。(Ⅰペテロ2:22~25)(Ⅱコリント5:21)

イエスさまの亡骸を埋葬したのは、弟子たちではなく、アリマタヤのヨセフとニコデモのふたりでした。このとき弟子たちは何をしていたのでしょうか。ご承知のように、ユダヤ人を恐れて難く戸を閉ざして隠れていたのです。この事実をみことばから確認してみると、弟子たちがユダヤ人を恐れて身を潜めていたのは、「週の初めの日の夕方」です。(ヨハネ20:19)

アリマタヤのヨセフに関する事実を整理してみましょう。
この人は、これまでは「ユダヤ人を恐れて、弟子であることを隠して」いました。(ヨハネ19:38)マタイは「彼もイエスの弟子になっていた」(マタイ27:57)と証言しています。
ヨセフの社会的地位についてですが、彼は「金持ち」(マタイ27:52)であり、サンヘドリンの議員(マルコ15:43)(ルカ23:50)でした。しかし、彼はただの有力者ではありませんでした。
それぞれの時代、それぞれの国に、桁外れの金持ちや影響力のある議員はいたでしょう。しかし、福音書にその名前と行為が記された金持ちも議員もいません。ただアリマタヤのヨセフの名前は今も世界中で語られています。彼がイエスさまの埋葬に関わったことは、4人の福音書記者全員がそろって書きしるしたからです。
ルカは、彼のことを「りっぱな正しい人」(ルカ23:50)と書いています。そして、「この人は、議員たちの計画や行動には同意しなかった」こと、「神の国を待ち望んでいた」ことのふたつの事実を伝えています。ひとつは、具体的な行動についての記述であり、この世に対する態度に関することです。もうひとつは、心の問題であり、神さまに対するあり方や信仰に関することです。

アリマタヤのヨセフには、議員という社会的な地位もありました。議員といっても当選回数や貢献度によってランクがありますが、有力な議員でした。(マルコ15:43)ですから、当然周囲の尊敬もありました。経済的にも不自由のない豊かな生活もありました。身も心も傷ついた売春婦や、お金はあっても希望のない取税人や、収入の不安定な田舎の漁師とは違います。しかし、彼は人生にはもっと大切なことがあることを知っていました。人の前ではなく、神さまの前に自分が何者であり、どのような関係にあるのかということを大切に考えていました。
彼は「有力な議員」であることよりも、「無力なイエスの弟子」であることを重んじたのです。議会全体が興奮してイエスさまに対する憎しみを燃やす中で、ただひとり異なる立場をとり、反対票を投じることは、その時は勿論、これから先も大きなリスクを負うでしょう。それでも、彼は反対の立場を固持しました。ヨセフの見方はいません。誰も助けてはくれません。イエスさまもそのまま十字架にかかられるだけです。ただ、みことばは永遠にヨセフを支持します。 
ルカは、ヨセフが、この時代、この瞬間に、ただひとり異なった意見を持っていたことを記録しました。「この人は、議員たちの計画や行動には同意しなかった」(ルカ23:51)のです。何という素晴らしい信仰の証でしょうか。もし、このヨセフの行動がなければ、イエスさまの亡骸が、罪人のための共同墓地に捨てられるように葬られたり、あるいは、誰にも葬られないまま鳥や犬などの餌食になったりした可能性さえあります。

アリマタヤのヨセフは、自分の墓をイエスさまに捧げました。弟子たちがユダヤ人を恐れてできなかったことを、彼はしました。弟子たちに出来なかったことがヨセフに出来た理由がいくつかあります。ひとつは、復活を見るまでの弟子たちにとって、大事なのは生きているイエスさまであり、それ以上にそのイエスさまに従う自分だったということです。弟子たちが理解していたキリストのみわざはあくまでも世直しであり、地上での救いであり、弟子として活躍する自分の生き甲斐でした。それに対して、ヨセフが待ち望んでいたものは神の国でした。この心の置き所の違いが、行動の違いとなって現れています。
もうひとつは、その人間的には困難な行動へと促す力はみことばであるということです。つまり、ヨセフが弟子たちよりも心やさしい人だったわけでも、勇気や根性があったわけでもないということです。アリマタヤのヨセフと行動をともにしたのは、律法学者ニコデモでした。多くの人が絶対やろうともしないことを、時の有力者ふたりがやるわけです。たまたま同じことを思いついて道中出会ったというよりは、いずれかが連絡をとって申し合わせたと考えるのが普通です。当然ふたりは面識があったと考えるのが自然です。だとすれば、ヨセフはニコデモから聖書を学んだこともあったでしょうし、イエスさまのことについても語り合ったでしょう。

ニコデモには、十字架を見たときに確実に思い出したであろうみことばが与えられていました。「だれも天にのぼった者はいません。しかし、天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな永遠のいのちを持つためです」(ヨハネ3:14~15)
モーセが掲げた青銅の蛇を仰ぎみれば、蛇の毒からいのちが救われたという記事と、十字架を見上げれば、罪という毒から救われるという事実が、ニコデモの中でひとつになったはずです。さらに、律法の中に「木につるされた死体を必ずその日のうちに埋葬しなけらばならない」(申命記21:22~23)と記されていることをニコデモは知らないはずはないので、これらのみことばにつながる信仰が、ふたりを埋葬の奉仕へと向かわせたのです。

そして、みことばに従ったことが、偉大な礼拝となり、さらにみことばを成就させることにつながっています。イザヤはこの時代からさかのぼること約750年前に「彼は富む者とともに葬られた」(イザヤ53:9)と語っています。
この点については、はっきりと書かれていないので、若干想像で補っている部分もあるのですが、それほど無理なこじつけではないと思います。

アリマタヤのヨセフとニコデモのふたりがイエスさまの埋葬をしたのは、安息日の備え日、すなわち金曜日です。安息日は土曜日ですが、ユダヤの暦では金曜日の日没から始まります。
「この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた」(ルカ23:54)とルカは記しています。
マルコは、アリマタヤのヨセフが、その切迫した時間の中で思い切って決断したことを記しています。「すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフは思いきってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った」(マルコ15:42~43)
 イエスさまの十字架からわずか数時間後の決断でした。
 「救いは神から人への恩寵であり、すべては恵み。そしてそれは完了しており、私たちは何もそれに付け加えることも、お返しすることもできない。」
私のメッセージを要約すれば、いつもそういう内容です。
 しかし、ヨセフとニコデモが用意したものは、無駄なつけたしや不必要なお返しではありません。マリヤが注いだ香油と同じです。人が霊とまことをもってイエスを礼拝するとき、そこにはもはや利害や損得の計算などありません。それぞれに出来る限りのことを淡々と行うだけなのです。もちろんふたりにも、恐れや迷いはありましたが、それを越える熱い思いが埋葬へと駆り立てたのです。周囲の視線や攻撃が全く気にならないほどに、イエスさまへの感謝にあふれているからです。イエスさまの人格に捕らえられているからです。
このような行為を見るとき、何かを期待しての投資的動機を含む献金や、この世での就職代わりのキリスト教業界への献身がいかに滑稽で無意味かが、はっきりわかります。
また、この埋葬に関わったのは、社会的地位においても、経済的な豊かさにおいても、比類なきものを備えたエリートふたりですが、仮に、ヨセフやニコデモに、パワー・フォー・リビングの冊子に「顔写真入りで証を書いてください」とお願いしたら、何と答えるでしょう。
当然、答えはノーでしょう。彼らが「イエスを埋葬しよう」と決断したとき、あの冊子が紹介するような未来とは逆のものを背負う覚悟をしたからです。

 献金することが素晴らしいから献金しようというのは間違っています。
献身することが素晴らしいから献身しようというのは間違っています。
伝道することが素晴らしいから伝道しようというのは間違っています。
祈ることが素晴らしいから祈ろうというのは間違っています。
みことばを学ぶことが素晴らしいからみことばを学ぼうというのは間違っています。
イエスさまが素晴らしいから、そうしたい人は自分のしたいことをするのです。自ずとしてしまうのです。十字架の愛がわかってじっとしていられる人はいません。黙っていられる人はいません。祈りもせず、みことばに無関心でいられる人は、イエスさまとは関係のない人です。

イエスさまの素晴らしさを味わうことなく、定められた行為へ駆り立てられる人の日常は惨めです。そこにいのちや喜びなどあるわけがありません。
私たちが見ているのは何ですか。このままだと駄目になる自分ですか。それとも将来の祝福された姿ですか。いずれも違います。私たちが見るべきは、ただイエスさまです。

2007年2月16日金曜日

2月11日 なだめの供え物


加害者と被害者の間や、あるいは利害が衝突している人たちの間に第三者がはいって仲裁することはあります。仲裁者は客観的に少しでも妥当な落としどころを見つけるだけで、自らが進んで当事者のリスクを負うことなどありません。
「なだめ」というのは、本当に難しいものです。その怒りが正当なものであればあるほど、「和解」は難しいのです。たとえば、学校を舞台にいじめなどの事象が起こった場合、教師たちは仲介者、また当事者として、その問題解決に関わるわけですが、なかなかうまくはいきません。失敗する場合の原因を分析してみると、双方の思いに十分共感できないのに、早く、うまく、ことを治めようとしています。そういう場合は、教師自らが子ども達の痛みに共感することにも、間違いは間違いとして、毅然として罪を戒めることも出来ていないのです。
十字架は、「被害者」であるイエスさまが「加害の意識さえない加害者」である人間を赦し、「正義の侵犯者」である神をなだめるというものです。誰が人類が積み上げて来たこの罪の数々をとりなし、神と人を和解に導くことが出来るのでしょうか。
「神は唯一です。また、神と人との仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)
ここでは、3つの重要なポイントが語られています。まず、神は唯一です。次に仲介者も唯一です。そして、その仲介者は、「人としてのイエス」です。この世には何と多くの神があふれていることでしょう。それは、人の側から大いなるものへの和解を求めたあえぎの結果です。しかし、仲介者は、双方の思いや痛みに共感できる、具体的な解決能力を持った者でなければなりません。それが人間としてお生まれになった神のひとり子イエスさまです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか、わからないでいるのです。」(ルカ23:34)
今日は、この十字架上でのとりなしのことばをより深く理解するために、「なだめの供え物」というキーワードで、みことばを繙いていきたいと思います。「なだめの供え物」ということばですが、何となく意味はわかりますが、一般にはあまり使わない聖書特有の表現ですが、極めて重要なことばです。

「この方こそ、私たちの罪のための、-私たちの罪だけでなく全世界のための、-なだめの供え物なのです。」(Ⅰヨハネ2:2)
御父の前で弁護してくださる方は、ただことばで弁護してくださるだけではなく、身代わりに罰を受けてとりなしてくださっているのですから、その弁護は完全なのです。御父はその裁きの正義を曲げることなく、この方の義のゆえに、罪人である者を義と宣言することができるのです。その犠牲の大きさのゆえに、祈りに答えて御子につながる者を赦さないわけにはいかないのです。これは全世界のためのとりなしです。キリストの死は全世界を贖うための犠牲なのです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)
神がご自分をなだめるための供え物を自ら用意されました。それが全てです。そして、神から人へ流れるもの、それが愛なのです。私たちがキリストにある兄弟姉妹を愛することができるとしたら、それは父の愛が自分をつきぬけて相手に届いているのです。
私たちは神をなだめることなど出来ませんし、その必要さえ感じませんでした。人間が必要を感じたのは自分自身に関することだけでした。偶像を拝むのは、自分のうしろめたさをなだめるためです。人生の幸福のために神を求めるのは、自分のむなしさを埋めるためです。いずれも神を礼拝することと似ているようで、実は全く関係がありません。それは人間が発明した身勝手な宗教です。「自分が愛ある人になるため、不特定多数の人を愛しましょう」というポーズを作るから胡散臭いのです。人は神のために何も供える物を持っていませんし、獲得も出来ません。そして、この偉大な供え物に何ひとつ付け足すことは出来ず、この供え物に対しておかえしも出来ません。この供え物の偉大さやなだめる意義がわからないので、いのちの福音とは無関係なキリスト教が生まれてくるのです。カインではなくアベルとその捧げものがどうして神に受け入れられたのですか。なぜ、アブラハムはイシュマエルではなく、イサクを捧げよと命じられたのですか。今日多くのキリスト教各派は、カインにつながり、イシュマエルへの流れを作っています。

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自分の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を忍耐をもって見逃して来られたからです。それは、今の時にご自分の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、またイエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25~26)
ここでは、神の義を現わすためのなだめについて書かれています。この世にあふれる罪を見逃しておられるのも、義を現すためでした。逆説的な表現になりますが、キリストの十字架がそれほど完全であるからこそ、この世にこれほど多くの罪があふれているのです。もし、十字架がないなら、今なお各地でおこっている戦争、環境破壊、さまざまなに不正や犯罪を、正義の神が、何年も何十年も見逃しはされません。十字架以前の罪も、十字架以降の罪も、イエスさまが十字架に架かられたことによって、すべてを贖い、すべてを覆しました。それは完了したのです。今はまだ審判のときではありません。また、目には見えるかたちでの世界の回復もありません。しかし、より多くの人々がこの「なだめの供え物」の価値を享受できるように、時がのばされているのだと聖書は語ります。まず、すべてが終わるまでに、「なだめの供え物」として、十字架上で苦しみ、そして死なれたイエスさまの中に、「神の義」を見なければなりません。それが「信仰」です。

「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のためになだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:17~18)
罪のない御方が身代わりに十字架にかかっているだけでも、神の義は満たされたかも知れません。しかし、神の愛はそれ以上でした。キリストのとりなしが、より力強く、かつ、後に彼に従う者たちにもその力が及ぶようにと、あらゆる点で私たちと同じ弱さを身にまといながら、この祈りをしてくださったのです。このとき、イエスさまは体力も気力も限界であったと思いますが、その中で、ご自分を鞭打ち、嘲り、ののしる人々を、裏切った弟子たちを、そして私たちを覚えて、祈ってくださったのです。神の御子だから、やすやすと自動的に十字架上のことばが台詞のように口から出てきたわけではありません。人として試みの受け、別のことばや態度が現れたかも知れない可能性の中で、信仰の創始者また完成者として、みことばを選んでくださったのだからこそ、十字架の価値はいっそうすばらしいものになるのです。それゆえ、イエスさまは、あわれみ深い忠実な大祭司であり、王の王にふさわしい方とされたのです。
御父は何を満足されるのでしょうか。この偉大な御子の従順と信仰をご覧になり、良しとされるのです。聖書の中で、御父が直接語られる声を聞く場面はほとんどありません。直接語らないから御使いや預言者を遣わすわけです。そう考えてみれば、御父が直接語られたことばは、どれほど重要な内容であるかはわかるはずです。そのメッセージは、イエスさまが御父のみこころを満足させる唯一の方であるということです。
御子が洗礼を受けられたときは、御父は御子ご自身に直接語られました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)
そして、変貌の山では、弟子たちに対して語られました。「これは、私の愛する子、わたし選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」(ルカ9:35)
御子が御父のみこころを成し遂げるからこそ、この方のすべてが「なだめ」になるのです。愛する御子が、御父のみこころを選び取って自らの意思として、人の弱さを身にまといながら、苦しみの中で切に願われるのです。御父はどうしてその願いを聞かずにいられるでしょうか。私たちは御子があまりにも偉大で、その贖いが完全であるがゆえに、全く値なしに救われるのです。
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)と書かれているとおりです。私たちは救われるために、何ものである必要もないわけです。

イエスさまは、ただ「彼らをお赦しください」と祈られただけではなく、「彼らは自分で何をしているのか、わからないでいるのです」ととりなしておられます。「無知」には情状酌量の余地があるのです。しかし、「知ること」は責任を伴います。クリスチャンの責任、福音を聞いた者の責任についても、考えないわけにはいきません。十字架にかけるまでは、人の無知と神の予知の故です。しかし、十字架にかかられた今求められているのは、悔い改めです。(使徒17:30~31)クリスチャンはあらゆる場合に十字架を勘定にいれて、物事を霊的に評価できる目を持つべきです。相手が誰であっても、十字架を勘定に入れずに、この世の利害で対立すべきではありません。昔も今も、クリスチャンどうしというか、キリスト教関係者どうしというか、何とも見苦しい足の引っ張り合いや論争もあります。それは、本当に悲しいことです。そして、勿論、信仰のない人たちと十字架抜きの争いをすべきではありません。
これは、「理不尽なことにも沈黙して、何でも耐え忍べ」というような意味で申し上げているわけではありません。正当な要求はしてもかまいません。悪や不正に対しては怒るべきときに怒るべきであり、正せるものは正すべきです。「神が全てを新しくされるのだから、この世はどうなっても無関心」というような態度は、明らかに間違っています。環境を守り、戦争には反対すべきです。この世の弱者には可能な限り、手を差し伸べるべきです。心配しなくても、第一にすべきものを間違っていなければ、そういう世直し的なことが、生き甲斐や活動の中心になるはずはありません。私たちはあらゆることを吟味して、本当に良いものを見分けるべきです。いい人を装って何に対しても寛容ぶるのは、正しい態度ではありません。イエスさまのユダヤの指導者への痛烈な批判や宮きよめの行動は、この世の道徳的寛容さとはほど遠いものでした。彼らが信じていたのは、唯一の創造者ではなかったですか。彼らがメシアを待ち望んでいたのは、ただのポーズだったのでしょうか。彼らが大事にして守っていたのは、神のことばではなかったのですか。みことばにある生け贄をささげるために、鳩を売っていたのではなかったでしょうか。

試しに注文しておいた「パワー・フォー・リビング」の冊子が届きました。まさに「生きるための力」というタイトルどおり、その中心は、神をなだめる供え物についての記述は乏しく、人に媚びる内容が大半を占めていました。御父をなだめるものは、御子の人格です。その御生涯と贖いの血です。あれような冊子は、キリスト教文化の毒汁であって、その手法もアラブの大義を破壊するおせっかいな正義と同じものだと私は感じました。私流に要約すると、「私は私のままで、私の願いをかなえるために、成功するには私を愛してくださっている神のパワーに頼らなきゃ。」となります。私たちの人生に必要なのは、出どころのわからないパワーではなく、イエスさまのパーソンです。神と分離したままで成功のためのパワーを得ることではなく、私は弱いままでイエスのパーソンとひとつになることが大事なのです。
「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)これは、「女から生まれた者の中で最も偉大」と評価されたバプテスマのヨハネのことばです。どのような装いをしていようと、「私が盛んになる」話は、人間の宗教です。十字架は、私の終わりであって、よみがえりのいのちの始まりです。夢を実現させる自分史の転換点に、神のパワーを借りるだけなんて、ドラキュラよけのアイテムとしての十字架と似たりよったりではないかと、私には思えるのです。

それでもなお十字架は偉大です。何重ものオブラートに包まれていようと、そこにみことばがある以上、みことばにあるいのちが読み手の渇きに対して働きかける可能性には期待します。
「パワー・フォー・リビング」が主によって用いられますようにと祈ることは間違いではありません。

2007年2月15日木曜日

2月4日 十字架上でおこったこと


最近の最もショッキングな事件と言えば、やはり近親者によるバラバラ事件でしょう。ひとつはセレブな妻がエリートの夫を殺した例です。妻の証言によると、慰謝料をとって離婚するだけでは足りないとのこと。もう一件は、歯科医を目指す兄が女優を目指す妹を殺したものです。こちらは両親に対する妹の態度が許せなかったとのこと。事件の悲惨さもさることながら、殺害に及ぶ理由が本人の中である程度正当化されていることに驚かされます。
夫と妻の関係や兄弟姉妹の関係は、キリストや教会を表した大切な雛型ですが、これらの事件においては、そのいずれもの関係が完全に崩れています。なぜこんなことになるのでしょうか。それは相手のことを自分を満たす手段としてとらえているからです。このふたつの例は非常に極端なものであるとしても、今日「影」である肉の家族の中で起こっている問題は、「実体」である教会の中でも起こっています。教会がバラバラになっていくのは、まさに同じ理屈なのです。キリストや教会が「自分を満たす手段」になっていくとき、それは個人の憎しみや狂気によってやがてバラバラにされます。その原動力は愛ではなく、初めからエゴなのです。結婚という契約や家族という形態があるからといって、夫婦や兄弟姉妹としての正しいあり方を保ち、実質的な機能を伴っているわけではありません。それは、教会も同じです。私は最近、妹殺しの被害者と加害者のお父さんである歯科医の手記を読みましたが、正直ぞっとしました。こういう事件が家庭内で起こって然るべしという何か不自然な空気が、その手記からじゅうぶん感じ取れたからです。狂気の沙汰に見える事件も、正気を装っている人たちの日常の価値観の中から生まれてくるのです。殺してバラバラにする瞬間だかが間違っているのではなく、全てが間違っているのです。

私たちがキリストや教会やお互いの関係を、自分の何かを守ったり、新たに何かを得たりする手段にすることがないように、ただ神の義を目的として、ひたすらイエスさまの栄光を求めて礼拝を続けるために、どうしても必要なことは、単純なことです。それはやはり十字架の価値と意味を正しく理解することに尽きるのです。イエスさまが十字架にかかられることによって、ユダヤの宗教やローマの政治、つまり神を忘れて生きる人の日常の営みがいかに異常なものであるかを明らかにされたのです。ですから、福音が正しく語られるとき、それは甘く耳障りの良いものであるはずがないのです。キリストが十字架にかかってくださったのは、私たちが十字架にかけたからです。私がイエスさまを殺したことがわからずに、どうしてイエスさまが私のために死んでくださったことがわかるでしょうか。わかるはずがないのです。

「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに避けた。」(ルカ23:44~45)
マルコの記録によると、イエスさまが十字架につけられたのは午前9時でした。(マルコ15:25)そして、息を引き取られたのは午後3時です。そして、12時から3時までの時間は、「全地が真っ暗になった」(マタイ27:45,マルコ15:33,ルカ23:44)と書いてあります。この暗黒の時間にいったい何があり、イエスさまの受けられた苦しみがどれほどのものであったのかは、わかりません。ただ私たちが何の値もなく義と認められ、義と認められるどころか栄光の中に招き入れられる特権を思うとそれに引き合うほどのものであったことだけはぼんやりとわかります。この暗闇の3時間が父と御子にとってどのようなものであったかは、人には永遠にわからないでしょう。しかし、そこで行われた事実によって、神殿の幕が真二つに避けました。これは、非常に重要な事実を伝える象徴であることを覚えてください。律法によっては誰も近づき得なかった恵みの御座への道が開かれたのです。

十字架の上でイエスさまが語られた7つのおことばを覚えて主を礼拝しましょう。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか、わからないでいるのです。」(ルカ23:34)「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう私とともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)「女の方。そこにあなたの息子がいます。」「そこにあなたの母がいます。」(ヨハネ19:26~27)「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)(マルコ15:34)「わたしは渇く。」(ヨハネ19:28)「完了した。」(ヨハネ19:30)「父よ。わが霊を御手に委ねます。」(ルカ23:46)この七つの驚くべきことばの中には、尽きることのない恵みがあふれています。このことばを書き留めてくださった聖霊に導かれながら、味わいたいものです。

2000年前の十字架上でおこったこと、それは単にひとりの偉大な人の死ではなく、すべてのいのちの源である神ご自身が経験された死です。
それは、この宇宙の創造よりも遙かに大きな出来事なのです。それは、罪を犯して神から離れた贖われる側の人間にとっては、なかなかピンとこないものです。しかし神は、ご自身が愛であるがゆえに、御使いや人間に自由意思をお与えになりました。そのために本来は神の御性質ではない罪が生まれました。御使いたちは、罪の結果もたらされたこの宇宙の混沌と被造物が服した虚無を、神がいかにして回復されるかをずっと注目していたのです。聖書に出てくる御使いは、そういう意味で、神の正義を見守り、贖いの偉大さを客観的に味わうという重要な役割を果たしていますが、不信仰な人間の知性にとっては、聖書の信憑性を疑わせる神話やおとぎ話の脇役にすぎないのです。
聖書全体の理解はもちろん、十字架で何がおこったのかを知るためには、人間の知識や感覚や経験は全く役に立たないばかりかむしろ弊害にしかなりません。みことばに対する信仰だけが、その秘められた奥義解く唯一の鍵です。鍵があれば、どのような扉でも容易に開きます。重い扉を開けることも、扉の向こうの世界を体験することも、それは特別な魔法でも霊感でもなく、それは普通の自然のことなのです。ポイントは扉にふさわしい鍵かどうかです。そういうところにポイントがある以上、本来、人の手柄や誇りや人間のドラマが入る余地のないのです。ただ神の一方的な恵みによって完成された救い、それが十字架なのです。

十字架の死の本当の偉大さは、イエスただひとりによって成し遂げられた御業の中に信じる「私たちの死」が含まれているところにあります。これは、十字架を理解する上で重要なポイントです。
たとえば、ある子どもが溺れそうになったとします。お父さんが子どもを助けるために冷たい水に飛び込み、子どもをすくいあげたので、その子どもは命をとり留めましたが、不幸なことにお父さんは死にました。たしかにお父さんは子どもを救い、身代わりに死にました。そしてその死は何よりも確かな子どもへの愛の証だと言えます。子どもはその父の身代わりによって再び与えられたいのちを慈しみながら、父への感謝を忘れず、よい人生を送るでしょう。しかし、それにしたところで、その救われたいのちは溺れる前のいのちと質的に同じであって、お父さんの死に子どもの死が含まれているわけではありません。当たり前ですよね。しかし、2000年前のイエスさまの死には、「私の死」が含まれているのです。この違いがおわかりですか。私たちは十字架の何を信じているのでしょう。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無駄にしません。もし、義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ22:20~21)
もちろん、私が直接十字架につけられたわけではありませんし、これから十字架のような苦しみを経験するのだとういう暗示でもありません。キリストが私のために死なれたという信じ受け入れることの中には、私もそのときキリストとともに十字架につけられたのだという事実が含まれているのです。このことの理解がないと、本当の意味で十字架を信じたとは言えないし、神の恵みを無駄にする可能性があります。
「十字架を信じる」と告白しておきながら、私が生きているのであれば、それは信じたとは言えないということです。十字架を信じていると言うのであれば、「キリストが私のうちに生きておられる」のです。「旧約聖書をあまり知らないから、自分は律法とは関係がない」と思っている人もいますが、恵みの中にいない人は自動的に律法の中にいるのです。

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)
十字架を信じる信仰によって、私たちはキリストとつなぎ合わされます。それによって、キリストの死とよみがえりともひとつにされ、そこで成し遂げられたことや獲得されたものを残らず得ることができるのです。十字架は私と世界との関係性の象徴でもあります。
世に対するこのスタンスがずれていれば、霊的なもの天的なものを獲得することはありません。「もし、私たちがキリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて私たちはこれからは罪の奴隷ではなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は罪から解放されているのです。もし、私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ガラテヤ6:5~8)
 イエスさまは、死ぬために死なれたのではなく、よみがえってご自分のいのちを信じる者に与えるために死なれたのです。大事なことは、そのよみがえいりのいのちと復活による新しい創造によるあゆみに入るためには、必ず「私はすでにキリストとともに死んだのだ」という確実な認識と信仰が必要だということです。

 先ほどのいのち拾いをした子どもがお父さんに感謝するレベルで十字架を思う人は世界中に大勢おられると思いますが、それはいのちの生まれ変わりに至っていません。キリストの死とつなぎ合わされることによって、ともによみがえりを経験し、新しいいのちともつなぎ合わされるのです。
時として、私たちは、信じて告白してもなお殆ど変化のない自分の姿に気づき驚かされます。かえって信仰を持ったがゆえに、信じる前に気にならなかったようなことにも激しく心が痛み傷つくようになり、こんなことで本当に自分はキリストとともに死んだなどと言えるのだろうかという疑問が出てきます。
しかしそれは、本気で信じて歩もうとする人たちに必ずおこってくることです。パウロの手紙はほとんど、このような葛藤の中で勝利するための処方箋となっていることに気づかれるはずです。このような中で、具体的な問題の扉を開くためのみことばの鍵が聖書の中に散りばめられています。自分の判断ではなく、みことばを重んじ、その鍵を使って新しい部屋に入った者は、自分が確かに少し新しくされたのに気づきます。このような日々の積み重ねによってイエスさまとつなぎ合わされていることを感じるのです。つまり、この世にあるものはそれが何であれ、もう私たちを満たすことは出来ないのだとわかるようになります。「世界が私に対して」「私が世界に対して」十字架にかかっているのだという事実を経験するのです。真のキリスト者の信仰の歩みは、味わいのある深いものです。「よみがえりのいのちによって得られる賜物は無敵のアイテムで、それを遣えば信仰の戦いに勝利できるのだ」というような陳腐なロールプレイングゲームではありません。キリストがともにいて歩んでくださるあゆみです。私の重荷ではなく、イエスさまの荷を負い、イエスさまとくびきをともにして歩むあゆみです。

2007年2月6日火曜日

1月28日 十字架の右と左


最近のニュースで気になった話題からお話を始めます。

構造計算で改ざんを行ったことが明らかになったアパホテルの社長が大粒の涙を流して謝っていました。しかし、改ざんを行った建築士は、とぼけたことを言って責任を認めた様子はありませんでした。罪を犯しても、それが明るみに出るか出ないかによって本人の罪責感は異なってきます。その人の感性によってもずいぶん捉え方に違いがでるでしょう。例えば今回の場合、「知らなかった。お客さんに申し訳ない」という涙なのか、「ばれちゃった。ここは見苦しい言い訳をせずに謝ろう」という涙なのかは、社長の会見の様子を見るだけではよくわかりません。構造計算をした建築士は確信犯なのですが、こちらは相当腹黒そうです。しかし、実際自分が関わったホテルが倒壊して犠牲者が出たとしたら、そうとぼけてもいらないはずです。
不二家の経営体質が明るみに出て、こちらも食品メーカーとしては、再起不能のダメージを受けたでしょう。賞味期限切れの材料を使っていたことをはじめとして、大腸菌が発見された場合でも、社内で勝手に決めた基準値を越えるまでは商品として出荷するように命じていたとういうから驚きです。これも、それを命じた人、それに従った人がいます。その従った人の中には、疑問を感じ心を痛めつつ従った人もいれば、何の疑いもなく機械的に仕事としてこなしていた人もいるでしょう。ひとつの罪に関わるには、いろんな立場や関わり方があります。これらを正しく裁くのは非常に難しいことだと言わざるを得ません。
それぞれの問題について、誰かが涙を流したり、頭を下げたり、給料を減らしたり、退任したりして、その罪を償ったことになるのでしょうか。いずれも、病人やけが人や死者が出る可能性も含んでいます。それらの具体的被害者が出ること出ないことによって、またその人数によって、その罪は重くなったり、軽くなったりするのでしょうか。そもそも利用者の安全や満足を軽視して、自分の利益を優先した彼らの動機そのものに罪があるとしたら、アパホテルや不二家の事件の発覚はほんの氷山の一角だと言えそうです。

私たちが、多くの事件を耳にするとき、「善意の第三者」として批評したり、聞き流したりします。多くのニュース番組のキャスターやコメンテーターは、茶の間の代表選手で、自分はあたかも立派であるかのように、良識を語るのです。私もネットで公開しているダイアリーの中では厳しいことも書いていますが、出会いや環境が異なれば、麻原や宅間やサカキバラになっていたかも知れないという基本的な前提のもとで書いています。「贖われた者としての主観的な発言」であって、神のお告げでも何でもありません。特別安全な座に着いてものを言う気はありません。自分の意見を正当化するためにみことばを盾にしたことはないと思っています。みことばが誤解され、曲解されている場合に、そうではないはずだと言っているだけです。それはよく吟味していただければわかるはずです。

いよいよ十字架の場面です。(ルカ23:32~43)
イエスさまの十字架の両脇には、ふたりの犯罪人がともに十字架にかけられていました。そのまわりには、十字架刑を執行するローマの兵隊、それを見守るユダヤの指導者たちや大勢の群衆がいます。
人は自分のしてきたことの明らかな報いとして罰を受けるとき、どういう気持ちになるものなのでしょうか。また、自分はいっさいの罰とは関係がない、むしろあらゆる悪に制裁を加えるべきだと考えている善意の傍観者は、どれほど無神経で残酷になれるものなのかを見ていきます。

民衆はそばに立ってながめています。
指導者たちはあざ笑っています。
ローマの兵士たちもあざけり侮辱しています。
彼らの証言は、「あれは他人を救った」(ルカ23:35)というものです。イエスさまが他人を救ったということは、嘲る者たちにも否定できない事実だったのです。
マタイによれば、指導者たちはこうも言っています。「彼は他人は救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし、神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(マタイ27:42~43)
ここでも「彼は他人を救った」と言っているし、さらに「彼は神により頼んでいる」とも言っています。
祭司長、律法学者、長老たちがいっしょになって、「神により頼んで、自分を救わず、他人を救い続けてきた人」をののしって十字架につけているのです。
彼らが繰り返し言っているもうひとつのことは、「今、十字架から降りてみろ」と言うことです。何と愚かなことを言っているのでしょうか。歴史上のあらゆる発言の中でこれほどひどいものはまずないでしょう。もし、イエスさまが十字架から降りられたらどうだったでしょう。イエスさまがお生まれになったことも、地上で30年あまりを過ごしてくださったことも、そして、この世界が創造されたことさえも、すべてが意味を失うではありませんか。
もし、神の子が本来の力を帯びて勧善懲悪の大立ち回りをされたとしたら、どうなるでしょうか。自分の居場所を確保する者たちが、神に気に入られるために媚びを売るようになるだけです。そういう現実は組織化された大規模な宗教組織の中に見られるとおりです。キリスト教会も例外ではありません。
良いことがすぐさま報いを受け、悪いことが次の瞬間に罰を受けるとしたら、その条件付けによって、動機の純粋さは失われます。罪を犯す人たちが泣いたり頭を下げたりするのは、それが明るみに出て罰を受けたからであって、それを機会に本当に反省する人もいるでしょうが、多くの場合は追いつめられて、窮したが故に自分を守るために取りあえずわびているだけです。
良いことは、それが結果や評価に結びつかなかったとしても、むしろかえって自分に不利益をもたらすことになったとしても、「それがただ良いことであるがゆえにそれを選ぶこと」に価値があるのです。必ずしも正当に報われないからこそ、それを選び続けることに意味があるわけです。
悪いことも同じです。悪いことを選んですぐに痛い目にあうとしたら、人は痛い目にあわないように悪を避けるようになります。それは表面的には悪の総量は経るでしょうが、本質的な動機は、自分の利益を天秤にかけているだけであって、悪を避けることそのものが善に変わるわけではありません。
このような「そろばんづく」で従う人間の群れは、理想社会にはほど遠いものでしょう。

善と悪というのは、単純な対立概念ではありません。善悪の知識の実を食べて神のいのちから離れること自体が問題なのです。悪とは善を追求する手段を誤ることです。最も大切なこと(一番の善)は神さまに信頼してみことばに聞に従うことです。自己流の善悪の判断に陥ることが、すでにいのちの木から離れているのです。
今話題のパワー・フォー・リビングを巡る評価もさまざまです。無料で配布される本の内容を読むまでは何とも言えない部分も確かにあります。しかし、読まなくてもわかることは、イエスさまではなく、4人の社会的成功者が全面に出て広告塔になり、この本のメッセージを信じれば幸せになるというコマーシャルについてです。内容が福音的なものだとか、実績のある牧師の息子が日本の代表者だとか、そんなことはどうだっていいのです。確かに多くの人に無料で福音を届けることは、良いことか悪いことかと言われれば、良いことかも知れません。それを手にした人がひとりでも救われたらすばらしい神のみわざではないかと言う意見もあるでしょう。しかし、仮にそうであったとしても、その中に印刷されたみことばにいのちがあるのであって、その働きがみこころにかなった素晴らしいものだったというのとは本質的に次元の違う話です。
こういう金に任せた力づくの大規模な伝道の方法というのは、私が知っているイエスさまという御方のご生涯やそのご人格には、どうもそぐわないように思えます。イエスさまのみわざは、楔を引きちぎって十字架から飛び降りて人を屈服させるようなものではないのです。

良いことも悪いことも、この世においては、必ずしもすぐにそれにふさわしい結果には結びつきません。正直で良い仕事をする者が評価されず、悪意に満ちた横着な人間が成功したりします。悪い者が良い者を傷つけ、いのちさえ奪うこともあります。この世は理不尽なことだらけ、多くの矛盾に満ちています。
正しいことを選びながら、苦しみを味わい続けなければならない人にとっては、神などいないと思っても仕方がありません。
これほど悲惨な世の中に愛なる神の存在を見出すことは困難です。十字架以外には神の本質が明らかにされたものはありません。
十字架とは、この世界を容認された神が示される唯一の答えです。十字架上のイエスさまは、世界の混沌と矛盾を神ご自身が引き受けて身に負われた姿なのです。十字架は、良いことはただ良いからこそ、それを選び続けられた御方の生涯の結果であることに注目すべきです。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないでいるのです。」(ルカ23:34)何という深い祈りでしょうか。
十字架は人の罪と神に愛が現れる究極のみわざです。弟子たちも含むすべての人々が愚かさの極みにありました。しかしただひとり、十字架の片方にいた犯罪人だけが、イエスさまを受け入れました。
この犯罪人も最初はイエスさまをののしっていたのです。(マタイ27:44)しかし、十字架上のイエスさまを見るうちに、今にも息を引き取ろうとする弱々しく傷ついた姿の中にこそ、彼は神を見たのです。この御方はこのまま死んで終わるわけがない。そして、この御方は自分のことを顧みてくださる愛を持っていらっしゃるという希望も持ちました。自分も死ぬだけです。これまでの人生に対して社会が与えた評価は十字架刑です。これ以下に値踏みされることのない最低の生き様です。そして、これから先に出来ることは、ただ息を引き取ることだけです。この何ひとつ良いことをしなかったし、これからもやり直すことが出来ない犯罪人がパラダイスにいるのです。イエスさまとともに。この一箇所を見るだけでも、聖霊の満たしだの、きよめだの、献身だの、多額の献金だのが救いのためには、全く必要のない馬鹿らしい副産物であることがおわかりでしょう。
神が人のために死んだのです。人がそれに何かを付け加えることなど出来るはずがないのです。

1月21日 ピラトの前のイエス


ユダヤの暦では1日は夕方から始まります。安息日は金曜日の日没から始まるのです。聖書に出てくる神さまの最初のことばは何ですか。「光よ。あれ。」(創世記1:3)です。 
光はやみと区別され、やみは光と交わることはありません。創世記を見ると、「夕があり、朝があった」(創世記1:5,8,13,19,23,31)と繰り返し書かれています。人は夜眠り、朝、光とともに目覚めます。神は私たちに十字架という深い摂理を覚えさせるべく、眠りという小さな死をお与えになりました。

聖書に書かれている最初の眠りはどんな内容でしょうか。それは、アダムの眠りです。(創世記3:20~24)この眠りは、アダムにとって本当の助け手になるべき者を生み出すための眠りであり、十字架の死を象徴しています。アダムはイエスの雛型であり、エバは教会を表しています。キリストがローマ兵の槍によって脇腹をさされ、その肉体の死を確認されたことは、ご承知の通りですが、エバがアダムの脇腹から生まれてくるということは、その事実を予表したモデルなのです。
「アダムによって死が全人類に入ったように、最後の人イエスによっていのちが支配する」(Ⅰコリント15:45,ローマ5:12~21)と書かれています。

さて、実際に十字架の場面の記事を見て参りましょう。
(ルカ23:1~23:12)
光と闇のことをお話しましたが、イエスという光は、人の世の闇、人の心の闇に隠れているものを暴きます。十字架が近づくと、それはいっそうはっきりします。イエスさまだけが光であって、世は全くの暗闇であることが明確になります。イエスさまだけが栄光を受けるにふさわしい御方であり、人の虚栄心や誇りがいかに役立たずの情けないものであるのかが露わになります。表面は整っていても、その内側の動機は薄汚れたものであることは、イエスさまが繰り返し指摘されたところです。
 まず、十字架をとりまく周辺の状況や反応について、よくご承知の方も多いと思いますが、念のため整理してみます。イエスさまは「ユダヤ人の王」として刑を受けられます。このあたりの整理ができていないと、ヘロデとピラトの間でたらいまわしにされたり、「ユダヤ人の王」という称号がいろいろ問題になったりすることの意味が不明瞭になります。
イエスさまの時代はユダヤの国はローマ帝国による支配されていました。そのローマの総督がピラトで、彼自身が自らの口で語っているように、彼こそが囚人を死刑にする権限や釈放する権限を持っているわけです。このローマの支配下には、イエスをむち打ったり侮辱したり、実際に十字架刑を執行するローマの兵士がおり、そして、「この方はまことに神の子であった」と感嘆のことばをもらす百人隊長もいます。
一方ユダヤ人はと言えば、ユダヤの領主をローマ帝国から委嘱されて治めるかたちで領主のヘロデがいます。そして、大祭司カヤパがいます。ことは過越しの期間中に起こっていますから、カヤパなどはピラトのいる総督官邸には入ろうともしません。異邦人の領域に入ると汚れて過越の食事が食べられなくなるからです。(ヨハネ18:28)さらに、律法学者やパリサイ人というユダヤ人の宗教指導たちがいて、彼らが群衆を扇動するのです。そして、最後に裏切る弟子たちは、もちろん全員ユダヤ人です。

それぞれの人の心の中にあるもの、その本質が十字架の前に明らかになるわけですが、今日はローマ総督ピラトにフォーカスして、ともに考えましょう。
ピラトは、「カイザルに税金をおさめない」「王キリストだ」と言っているという訴えには応じないわけにはいかないわけですが、ピラトはすぐに、イエスさまには訴えられているような罪がないことに気づきます。それでも、祭司長や群衆がしつこく言い張るので、ヘロデに判断を押しつけるわけです。
ヘロデの反応も結構詳しく書かれています。ヘロデはイエスさまを見ると喜びました。「非常に喜んだ」と書いてあります。彼は常々イエスさまに会いたいと思っていたのです。奇跡も見たいと思っていたし、実際にいろいろ質問しています。しかし、イエスさまは何もお答えになりませんでした。その動機が腐り果てていたからでしょう。ヘロデはまともに相手にされないことを怒り、イエスさまをさんざん侮辱してから、ピラトに送り返します。

ピラトは、もう一度イエスさまには訴えにあたる罪がないということ、死罪は全く不適当だということをユダヤの祭司長や指導者たちに伝えますが、聞き入れられません。ピラトはイエスさまを取り調べるうちに、逆に自分が取り調べられているかのような不思議な感覚に陥り、自分の権限で死罪を命じることに恐れをいだき始めます。そこで何とかユダヤ人たちを納得させて釈放する手はないかと考えます。(ヨハネ18:33~40)
ピラトはイエスさまに質問しています。
「あなたはユダヤ人の王ですか。」(33)これは、罪状に対する審問のつもりでしたが、ユダヤ人の王であるということは、単純にある地方や民族の指導者という意味だけではないので、イエスさまは逆に問い返されます。「あなたは自分でそのことを言っているのですか。それとも他の人が、あなたに私のことを話したのですか。」(34)
ピラトは、この問題はユダヤ人の宗教上の問題、つまり特殊な人たちの信仰や習俗に関する問題であって自分には関係がないという立場、そして、出来れば具体的な判断や決定を避けたいという態度を取ろうとしていたのです。
これは、この世の知恵や権威を持つ人たちが、人となられ神であるイエスに対してとる象徴的な立場や態度です。
話は進んでいきます。イエスさまは、「自分の国はこの世のものではない」と言い、「真理に属する者はみな私の声に従う」と言われるのを聞いて、ピラトは、イエスさまの存在が自分にも何らかの影響を及ぼすのではないかという不安と恐れにかられ始めます。(36~37)
この不安と恐れから逃れるために、祭りのときの恩赦の習慣を利用しようとします。その引き合いに出された人物は、イエスさまとは正反対で、赦され難い罪を犯したバラバという強盗殺人犯でした。ピラトは最後の手段として、この名を知られたバラバという悪党を引き合いに出し、これを釈放すると提案したわけです。つまり、誰かひとりに恩赦を与えるとするなら、この危険なバラバという男を野に放つよりは、さすがに「それならイエスを釈放してくれ」と言うに違いないと思ったわけです。ところがどうでしょう。群衆はみな指導者に扇動され、「バラバを釈放してくれ。」と叫ぶのです。(44)

これは、ピラトにとっては思いもかけない展開だったでしょう。あのバラバを引き合いに出せばいくらなんでも、「イエスではなくバラバを釈放してくれ。」とは言わないだろうと思っていたはずです。ピラトは、どうしてよりかわからず、とりあえず、イエスさまを捕らえてむち打ちます。そして、もう一度群衆の前に出てきて、イエスさまを示します。群衆は興奮してますます激しく叫びますが、ピラトは、「あなたがたがこの人を十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」(ヨハネ19:4)と宣言します。そのあたりから続きをを見てみます。(ヨハネ19:1~16)

ここまで見てくると、私たちはあることに気づかされます。それは、私たちはみな、自らの意思で十字架に架かろうとしているかに見えるこの罪の見あたらない人物イエスを評価するピラトと同じ座、同じ地位にいるということです。
 ユダヤ人の証言はますます、ピラトを恐れさせます。
「この人は自分を神の子としたのですから死刑だ。」(7)と言うのです。
ピラトが裁いてきた事件の中で、「自分を神の子だ」と自分で宣言したという理由で死刑になったものなどいません。しかも、この方には自分が見たところ、何の罪もない。むしろ自分の心の中をのぞかれるような感じさえするわけです。
ピラトはイエスが自分に引き渡されたのがユダヤの指導者のねたみによることに気づいていたとも書いてあります。(マタイ27:17)これは非常に重要な情報です。さらにピラトが裁判の席にいるときに、ピラトの妻からの使者が来て、イエスの死刑には関わらないようにと伝えています。(マタイ27:19)
ところが、最終的にピラトは群衆の暴動を恐れて、自分に責任はないから好きにしろと言う態度を取ります。(マタイ27:24)

実はある程度聖書の内容を知っている人の中には、イエスさまのことを否定しなくても、むしろ一定以上に認めつつも、このピラトのような態度で「自分には関係ない」「責任がない」と言って、手を洗って一歩引いている人たちが多いのです。
イエスさまに罪を認めなくても、イエスさまが正しい御方だとわかっても、イエスを取り巻く人々の罪を見ぬいたとしても、たとえ、この御方が神の子だと理解したとしても、自分の罪を悔い改め、その罪のためにいのちを与えてくださる方として信じ受け入れることがなければ、イエスさまとの関係は生まれません。救われることはないのです。

「私は、すべての者にいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスの御前であなたに命じます。・・・・云々」(Ⅰテモテ6:11~16)

「すべての者にいのちを与える神」と、「ポンテオ・ピラトの前のイエス」が対にして書かれています。ピラトに裁かれるイエスは、そのすばらしい告白を除けば、むち打たれても嘲られても抵抗しないひとりの弱々しい人間の姿をしています。そしてこれから彼は十字架にかかるだけの、支持者がひとりもいない王なのです。しかし、パウロはこのピラトの前のイエスこそ、闇の世界に対する「光」であり、死の世界を蘇らせる「いのち」であると言っているのです。

このように聖書全体を見てみると、なぜ私が十字架のお話をするのに、天地創造から話し始めたからがおわかりいただけると思います。
十字架は私たちの理解を遙かに超えた神の壮大なご計画の中心です。
「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとりの死のない方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たこともない、まだ見ることもできない方」を心から賛美しましょう。

1月14日 ゲツセマネ

ルカ22:39~46

オリーブ山と呼ばれる場所は、いつもイエスさまが祈ったり、弟子たちとともに集まったりしている場所です。いよいよ十字架に架かられる日が近づいたとき、この場所で特別な祈りがなされたことが詳しく記されています。福音書の中でも、十字架と復活の次に重要な箇所です。オリーブ山には、ゲツセマネと呼ばれる園がありました。ルカは祈りの山という点を強調してオリーブ山と記していますが、マタイとマルコはゲツセマネという場所を指定して書いています。ゲツセマネとは「油しぼり」という意味です。オリーブ山と言うくらいですから、オリーブの木がたくさん栽培されていて、オイルを採るための圧搾機があったのだと言われています。今も当時の様子を偲ばせる古いオリーブの木が残っています。

イエスさまは、弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われました。肉の弱さの中にあっては、常に葛藤があります。ここで言われているのは、単純に罪を犯さないようにという意味から、さらに深くみことばにのみ従えるようにということまで、幅広い意味合いで語られていると思います。
少し前の場面でも、「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことが出来るように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(ルカ21:36)と言われているので、弟子たちは、基本的はその延長線上にある注意だと受け取ったことでしょう。
他の福音書を見ると、イエスさまは、自分が祈っている間そばにすわっているように命じて、その中からペテロとヤコブとヨハネの3人だけを連れて、そこからさらに進まれ、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(マタイ26:38)とおっしゃっています。
少し話は横にそれますが、イエスさまが、この3人をなぜ連れていかれたのかをお話します。この3人は、ヤイロの娘がよみがえる場面や、イエスさまの変貌の場面にも立ち会っています。彼らは一番主のお心に近いお気に入りの弟子だったのでしょうか。そうではありません。律法は、真実を証言する場合2人または3人の証人を求めています。(申命記17:6,19:15)新約の時代でもすべての真実は2人または3人の証人の口で確認されると言われています。(マタイ18:16)彼らが特に大事な場面でイエスさまのそばにいることが許された本当の理由は、イエスさまの生涯の事実を確認し証言するためです。何を確認するのでしょう。それは、「この方が完全に神であり、そして、人であった」ということです。キリスト教の世界には、くだらない神学や教理が山ほどあります。しかし、いつもお話しているように一番大事なことはこのポイントなのです。イエスさまが特別な御方だと言わない教会はないでしょう。しかし、この御方のことを正しく証言しない教会は、まちがっているのです。「イエスは人である」というだけでも、「イエスは神である」というだけでも、いずれもとんでもない間違いなのです。イエスさまは、「完全に人であり、完全に神であった」ということです。「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たキリストを告白する霊は神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」(Ⅰヨハネ4:1~2)このことを正しく告白させる霊が聖霊なのです。

祈りの中身に戻りましょう。「悲しみのあまり死ぬほどです。」とイエスさまはおっしゃいました。神のひとり子がお感じになった「死ぬほどの悲しみ」とはどのようなものなのでしょうか。また、その悲しみをもたらした原因は何なのでしょうか。そして、弟子たちに理解できるはずもないこの感情を吐露された背景には何があるのでしょうか。

弟子たちの思いとイエスさまの思いはあまりにもかけ離れています。弟子たちはどこまでもイエスさまに従っていけると思っていますが、イエスさまは全員が裏切って我が身かわいさに全員が散り散りに逃げていくことを知っておられました。お互いが愛し合って仕え合う必要を説かれますが、弟子たちは自分たちが裏切ることも、イエスさまがどのような最期をとげられるかもわからずに誰が一番偉いかを論じたりしているわけです。
そして、ゲツセマネでは、眠りこけてしまうどこまでも役立たずの弟子たちでした。物理的には「石を投げて届くほどの所」と書いてあるので、せいぜい40~50メートルの距離しかないわけですが、弟子たちとイエスさまとの間は、とんでもなく離れていました。
それでも、イエスさまはそんなとんちんかんな弟子たちに感謝のことばを述べられるのです。
「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまな試練のときにも、わたしについて来てくれた人たちです。」(ルカ22:28)
私たちは、このような場面で語られたイエスさまのこのことばに、何を感じるでしょうか。
罪人が、罪なき者が罪を背負うことの葛藤を知る由もありません。神との和解を要する者が、神と完全にひとつである状態から引き裂かれる苦しみを予感されて悶えるその痛みを推し量ることなど不可能です。このときの弟子たちに、そんなゲツセマネの苦しみを理解できるわけがありません。
それでも、イエスさまは、弟子たちの存在そのものを喜ばれたのです。役に立つとか立たないとか、能力があるとかないとかではなく、神は神から生まれた者を愛するのです。ただ、そばに置いておくだけでイエスさまは嬉しいのです。どこまでが正しく、どこからが間違っていようと、「あなたは幸いだ」と褒めているときも、「下がれ、サタン」と叱責しているときも、イエスさまは弟子たちがかわいくて仕方ないのです。
この後、ペテロはイエスさまがおっしゃったとおり見事に裏切ります。(ルカ23:60~61)鶏が鳴いた瞬間、ペテロはイエスさまのことばを思い出します。そのとき、イエスさまは振り向いてペテロを見つめました。そのときのイエスさまのまなざしをペテロは生涯忘れたことはないでしょう。もし、そのまなざしが、恨みや怒りのまなざしであれば、ペテロは立ち直ることはできなかったでしょう。子であれば、何度失敗しても愛されなくなることはないのです。子どもが窮地に陥るときこそ、親は何とかしてやりたいと思うものです。だからこそ、前もって厳しい宣告を与え、失敗したときには、責めるのではなく、赦し励ますまなざしをおくるのです。
ゲツセマネで、弟子たちはイエスさまが何を祈っておられるのかも、よくわからなかったと思います。ただ、イエスさまが苦しんでおられるのを見ました。何かとんでもない恐怖や悲しみがイエスさまを襲っているのを見ました。弟子たちは眠ってしまいましたが、それは「悲しみの果て」のことでした。弟子たちはそのときにわかる弟子たちなりの悲しみを共有したのです。

これが神から生まれ神の子とされた者に与えられた特権です。「この方はご自分のくに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
(ヨハネ1:11~13)

父に対して祈られた内容を見てみましょう。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。」(マタイ26:39)これは十字架を回避する可能性についての祈りです。イエスさまは十字架に架かるためにこそ生まれ、まさにその時を前にして激しく苦しんでおられるのです。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と書かれていますが、与えられた御子イエスは私たちと同じように肉体を持ち、意思や感情があるわけです。イエスさまの中には、「出来ることならば十字架は避けたい」という思いがありました。もしそれがなかったとしたら、十字架はこれほどまでに私たちの心を動かすことはないでしょう。しかし、イエスさまは「わたしの願いではなく、あなたのみこころのように」と言われたのです。これがゲツセマネの核心部です。そこには罪人への愛以上に父への従順の姿があります。そして、この祈りが聞き入れられ、イエスさまは裁かれ捨てられるのです。ゲツセマネは油しぼりです。どのような植物油も圧搾され実をすりつぶして採り出します。聖霊のことばやわざが現れるためには、そのような苦しみの中でもなお従順であることによってもたらされるのです。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)このみことばの続きを見れば、イエスさまが苦しみの中で従順を学ばれたことが記されています。
油はみこころを無視したわたしの願いの上に注がれるものではありません。みことばに対する従順と御父のみこころを願う従順の結果もたらされるのです。

「キリストは信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえにはずかしめをものともせずに、十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:1)
 イエスさまの前に置かれた喜びとは何でしょうか。それは、永遠に贖われた弟子たち、永遠の子どもたちをそばに置くことなのです。
 「父よ。お願いします。あなたがわたしにくださったものをわたしのいる所にわたしと一緒におらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしにくださったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」
(ヨハネ17:24~26)

1月7日 立ち直ったら


明けましておめでとうございます。

このお正月三が日に全国の主な神社仏閣を訪れた人は、昨年より422万人多い9795万人だそうです。テレビでは、阿倍さんが今年の干支になぞらえて「猪突猛進」で美しい国づくりをするなどと言っています。
私も年頭に何をお話しするべきか、いろいろ思い巡らせていましたが、特に皆さんを人間的に鼓舞する必要も感じませんし、私自身も淡々と暮らすだけです。
多くの人たちが漠然と幸せを願い、自分の計画を推し進めようとしています。でも、そんなことはどうだっていいのです。まず、自分の願いや計画をすべて横に置くことです。主がいったい何を語ってくださっているのかをしっかり聞き取って、ひとつでもかたちにすることが大切です。

皆さんはお正月をどのように過ごされたでしょうか。そこで何を考えられたでしょうか。
普段は1回1回の礼拝の準備だけで精一杯ですが、お正月の休みの機会に昨年1年間のメッセージを振り返っていました。主が何を語ってくださり、私たちの群れに何がおこったのかを考えていました。昨年はこれまで以上に、このカナンを通して発信されるメッセージをたくさんの方が聞かれました。中には本当に遠くからわざわざ私たちと一緒に礼拝するためにご家族で来てくださる方もおられるし、また逆に来たくても遠すぎて来ることの出来ない方もおられます。暮れにはKFCの兄弟姉妹との交わりがありました。
主が、教団や教派を越えたいのちの交わりを慈しんでおられるのを感じさせられています。しかし、これは別に新しい流れでも何でもなく、昔からそうなのです。メッセージを聞かれた方も、「これまでこういうメッセージを聞いたことがなかった」と言ってくださることが多いのですが、私は実は目新しいことなんて何も言っていません。私が話していることは、私たちの群れだけに特別に解き明かされた真理ではなく、誰もが持っている聖書にもちゃんと同じ事が書いてあるわけです。きちんと読めば誰でも確認できるし、また間違っていれば修正出来るわけです。

福音書を見ると、十字架が近づくに連れて群衆はどんどんイエスさまから離れていきます。弟子たちだけがそばに残りますが、その思いはちぐはぐです。そして、最後には全員が裏切るのです。
これはとても不思議なことだとは思いませんか。福音書の弟子たちは腰抜けです。常にとんちんかんで、ほぼいいところなしです。12弟子には、人間的にはほとんど何の魅力もありません。忠臣蔵の方が断然いい話です。もし、キリストがよみがえったと信じられているだけで、事実はそうではなかったとしたらどうでしょう。私たちは自分たちの師を見捨てた卑怯者たちによるでっちあげ話を信じているわけです。
つまり、聖書の記事のすべてはイエスさまの「復活」にかかっているのです。パウロもそう言っています。(Ⅰコリント15:12~19)「復活」こそが、宣教と信仰の実質であるとまで言っています。

福音書と使徒のはたらきを見ると、弟子たちはまるで別人のように変化しています。これは信仰が強くなって立派な人間になった結果ではありません。勿論弟子たちは訓練されます。訓練された者だけがキリストの弟子です。弟子たちが訓練されて学ぶ学課は何でしょう。それは、「自分は最終的に裏切り者であり、自分の力ではキリストに従えない」ということです。「キリストの召しと恵みだけが、信仰を支えるすべてであり、みことばを通して働かれる聖霊のみちびきになしには何事もなしえない」ということです。そして、こういう復活を中心にした視点で福音書を読んでこそ、弟子たちのイエスさまの思いのズレやちぐはぐな失敗の意味がしっかりと見えてくるのです。
 はっきり言いますが、この復活のいのちのない教会よりは、一流の神社仏閣のほうがよほど魅力的です。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31~32)

今日のメッセージの主題は、この節からの引用で「立ち直ったら」です。「立ち直る」という以上、いったんは非常に悪くなることを意味しています。ここでは、ご承知のように、ペテロが主を否むことと、そのダメージから回復することを指しています。
この「立ち直る」という表現はKJVでは、convertということばが使われています。これは、もとの状態に戻るのではなく、もっと大きな「転換」を意味する表現です。イデオロギーや宗教を変えるときにもこの表現を用います。この「立ち直ったら」は、元通り元気を取り戻すのではなく、あなたの信仰が「質的に変われば」ということを意味しています。ペテロは当然この「立ち直る」ということばにひっかかります。たとえふるいにかけられても、自分だけは絶対ふるわれることはないという強い自負があるからです。
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)マタイやマルコの筆によれば、ペテロはさらに強い調子で「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)と言っています。
これは偽らざるペテロの告白だったのです。ペテロだけでなく、弟子たちはみないのちがけで最後まで主に従う覚悟でした。(マタイ26:35)
しかし、イエスさまはペテロにはっきりと具体的に宣言されます。
「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(ルカ23:34)

ヨハネはもっと深く、このやりとりの本質について語っています。
(ヨハネ13:36~38)
イエスさまは言われます。「わたしが行くところに、今はついて来ることができないが、後にはついてくる」と。すると、すかさずペテロは言います。「あなたのためにはいのちも捨てます。」
ペテロがイエスさまのためにいのちも捨てると言ったので、イエスさまは言われたのです。「わたしのためにはいのちも捨てる、というのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(ヨハネ13:38)

ペテロがイエスさまのために死ぬことが信仰なのではありません。イエスさまがペテロのために死んでくださるからこそ、すべてがそこから始まるわけです。これが逆になっては、福音の本質が失われてしまいます。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに神の愛があるのです。」  
(Ⅰヨハネ4:10)
「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」
(Ⅰヨハネ4:19)
ヨハネが語っているとおり、「私たちが神を愛したのではない」のです。「神がまず愛してくださった」のです。
これは極めて重要な認識です。このことに関して、聖霊によってはっきり目が開かれる必要があります。「自分は駄目だ」と感じたり、「信仰が足りない」と感じたりするのは、この点の理解に問題があるからです。

私たちの生まれつきの人間性は十字架と復活がどうしても理解できません。そのとらえ方は極めて人間的なものになります。イエスさまと出会う前の自分の姿にこだわったり、何かが足りないかのように新しい力を求めたりするのは、この根本が逆になっているからです。
「まず、神が私たちを愛してくださった。」以上、終わりです。

ペテロはどこから立ち直る必要があったのでしょうか。イエスさまがおっしゃったのは、「信仰が弱くて裏切ったので、何が起こっても動じない強い信仰を獲得してから、出直して来い。」という意味ですか。
違います。イエスさまは、ペテロが初めから裏切ることを知っておられました。初めからすべて承知でそばにおいてくださった御方の愛の中に留まれという意味です。
「自分は誰よりも主を愛する」「自分だけは主に従う」という、どこまでも自分にこだわる自己中心の信仰ではなく、すべてがイエスさまから始まって、イエスさまによってなり、イエスさまに至るというイエスさま中心の信仰へと、質的な変換を迫られたわけです。あれだけ激しくきっぱりと裏切ったペテロが自分中心に信仰を立て直すことなど不可能です。
ペテロに限らず、私たちはみな同じで、裏切ったペテロの耳に届いた鶏の泣き声からスタートするべきなのです。明け方に鶏が泣いて、復活のあいさつ「おはよう」で一日が始まるのです。

なぜ、いつも不満いっぱいで、すぐにくたびれ果て、それでいて、なおかつ自分を鼓舞するようなことばや雰囲気を求めるのか。それは、自分が裏切り者であることをはっきり主の前に認めていないからです。それは、立ち直るどころか、主の前に打ちのめされもしていない人の姿です。

 立ち直った者、即ちconvertされた者にしか、兄弟姉妹を慰めることはできません。逆にconvertされた者は、兄弟姉妹を慰める力を既に持っているのです。
立ち直った者は誰でも、もはや自分の力ではなく、神の力によって立っているからです。立ち直った者は誰でも、打ちひしがれた痛みの中から、神の慰めによって立ち直ったからです。自分の努力や根性で立ち直ったわけではないので、そのことを誇る者はありません。だからこそ、傷ついた人、苦しんでいる人を慰める力を持つのです。

 「神はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(Ⅱコリント1:4)