2007年2月6日火曜日
1月7日 立ち直ったら
明けましておめでとうございます。
このお正月三が日に全国の主な神社仏閣を訪れた人は、昨年より422万人多い9795万人だそうです。テレビでは、阿倍さんが今年の干支になぞらえて「猪突猛進」で美しい国づくりをするなどと言っています。
私も年頭に何をお話しするべきか、いろいろ思い巡らせていましたが、特に皆さんを人間的に鼓舞する必要も感じませんし、私自身も淡々と暮らすだけです。
多くの人たちが漠然と幸せを願い、自分の計画を推し進めようとしています。でも、そんなことはどうだっていいのです。まず、自分の願いや計画をすべて横に置くことです。主がいったい何を語ってくださっているのかをしっかり聞き取って、ひとつでもかたちにすることが大切です。
皆さんはお正月をどのように過ごされたでしょうか。そこで何を考えられたでしょうか。
普段は1回1回の礼拝の準備だけで精一杯ですが、お正月の休みの機会に昨年1年間のメッセージを振り返っていました。主が何を語ってくださり、私たちの群れに何がおこったのかを考えていました。昨年はこれまで以上に、このカナンを通して発信されるメッセージをたくさんの方が聞かれました。中には本当に遠くからわざわざ私たちと一緒に礼拝するためにご家族で来てくださる方もおられるし、また逆に来たくても遠すぎて来ることの出来ない方もおられます。暮れにはKFCの兄弟姉妹との交わりがありました。
主が、教団や教派を越えたいのちの交わりを慈しんでおられるのを感じさせられています。しかし、これは別に新しい流れでも何でもなく、昔からそうなのです。メッセージを聞かれた方も、「これまでこういうメッセージを聞いたことがなかった」と言ってくださることが多いのですが、私は実は目新しいことなんて何も言っていません。私が話していることは、私たちの群れだけに特別に解き明かされた真理ではなく、誰もが持っている聖書にもちゃんと同じ事が書いてあるわけです。きちんと読めば誰でも確認できるし、また間違っていれば修正出来るわけです。
福音書を見ると、十字架が近づくに連れて群衆はどんどんイエスさまから離れていきます。弟子たちだけがそばに残りますが、その思いはちぐはぐです。そして、最後には全員が裏切るのです。
これはとても不思議なことだとは思いませんか。福音書の弟子たちは腰抜けです。常にとんちんかんで、ほぼいいところなしです。12弟子には、人間的にはほとんど何の魅力もありません。忠臣蔵の方が断然いい話です。もし、キリストがよみがえったと信じられているだけで、事実はそうではなかったとしたらどうでしょう。私たちは自分たちの師を見捨てた卑怯者たちによるでっちあげ話を信じているわけです。
つまり、聖書の記事のすべてはイエスさまの「復活」にかかっているのです。パウロもそう言っています。(Ⅰコリント15:12~19)「復活」こそが、宣教と信仰の実質であるとまで言っています。
福音書と使徒のはたらきを見ると、弟子たちはまるで別人のように変化しています。これは信仰が強くなって立派な人間になった結果ではありません。勿論弟子たちは訓練されます。訓練された者だけがキリストの弟子です。弟子たちが訓練されて学ぶ学課は何でしょう。それは、「自分は最終的に裏切り者であり、自分の力ではキリストに従えない」ということです。「キリストの召しと恵みだけが、信仰を支えるすべてであり、みことばを通して働かれる聖霊のみちびきになしには何事もなしえない」ということです。そして、こういう復活を中心にした視点で福音書を読んでこそ、弟子たちのイエスさまの思いのズレやちぐはぐな失敗の意味がしっかりと見えてくるのです。
はっきり言いますが、この復活のいのちのない教会よりは、一流の神社仏閣のほうがよほど魅力的です。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31~32)
今日のメッセージの主題は、この節からの引用で「立ち直ったら」です。「立ち直る」という以上、いったんは非常に悪くなることを意味しています。ここでは、ご承知のように、ペテロが主を否むことと、そのダメージから回復することを指しています。
この「立ち直る」という表現はKJVでは、convertということばが使われています。これは、もとの状態に戻るのではなく、もっと大きな「転換」を意味する表現です。イデオロギーや宗教を変えるときにもこの表現を用います。この「立ち直ったら」は、元通り元気を取り戻すのではなく、あなたの信仰が「質的に変われば」ということを意味しています。ペテロは当然この「立ち直る」ということばにひっかかります。たとえふるいにかけられても、自分だけは絶対ふるわれることはないという強い自負があるからです。
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)マタイやマルコの筆によれば、ペテロはさらに強い調子で「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)と言っています。
これは偽らざるペテロの告白だったのです。ペテロだけでなく、弟子たちはみないのちがけで最後まで主に従う覚悟でした。(マタイ26:35)
しかし、イエスさまはペテロにはっきりと具体的に宣言されます。
「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(ルカ23:34)
ヨハネはもっと深く、このやりとりの本質について語っています。
(ヨハネ13:36~38)
イエスさまは言われます。「わたしが行くところに、今はついて来ることができないが、後にはついてくる」と。すると、すかさずペテロは言います。「あなたのためにはいのちも捨てます。」
ペテロがイエスさまのためにいのちも捨てると言ったので、イエスさまは言われたのです。「わたしのためにはいのちも捨てる、というのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(ヨハネ13:38)
ペテロがイエスさまのために死ぬことが信仰なのではありません。イエスさまがペテロのために死んでくださるからこそ、すべてがそこから始まるわけです。これが逆になっては、福音の本質が失われてしまいます。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに神の愛があるのです。」
(Ⅰヨハネ4:10)
「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」
(Ⅰヨハネ4:19)
ヨハネが語っているとおり、「私たちが神を愛したのではない」のです。「神がまず愛してくださった」のです。
これは極めて重要な認識です。このことに関して、聖霊によってはっきり目が開かれる必要があります。「自分は駄目だ」と感じたり、「信仰が足りない」と感じたりするのは、この点の理解に問題があるからです。
私たちの生まれつきの人間性は十字架と復活がどうしても理解できません。そのとらえ方は極めて人間的なものになります。イエスさまと出会う前の自分の姿にこだわったり、何かが足りないかのように新しい力を求めたりするのは、この根本が逆になっているからです。
「まず、神が私たちを愛してくださった。」以上、終わりです。
ペテロはどこから立ち直る必要があったのでしょうか。イエスさまがおっしゃったのは、「信仰が弱くて裏切ったので、何が起こっても動じない強い信仰を獲得してから、出直して来い。」という意味ですか。
違います。イエスさまは、ペテロが初めから裏切ることを知っておられました。初めからすべて承知でそばにおいてくださった御方の愛の中に留まれという意味です。
「自分は誰よりも主を愛する」「自分だけは主に従う」という、どこまでも自分にこだわる自己中心の信仰ではなく、すべてがイエスさまから始まって、イエスさまによってなり、イエスさまに至るというイエスさま中心の信仰へと、質的な変換を迫られたわけです。あれだけ激しくきっぱりと裏切ったペテロが自分中心に信仰を立て直すことなど不可能です。
ペテロに限らず、私たちはみな同じで、裏切ったペテロの耳に届いた鶏の泣き声からスタートするべきなのです。明け方に鶏が泣いて、復活のあいさつ「おはよう」で一日が始まるのです。
なぜ、いつも不満いっぱいで、すぐにくたびれ果て、それでいて、なおかつ自分を鼓舞するようなことばや雰囲気を求めるのか。それは、自分が裏切り者であることをはっきり主の前に認めていないからです。それは、立ち直るどころか、主の前に打ちのめされもしていない人の姿です。
立ち直った者、即ちconvertされた者にしか、兄弟姉妹を慰めることはできません。逆にconvertされた者は、兄弟姉妹を慰める力を既に持っているのです。
立ち直った者は誰でも、もはや自分の力ではなく、神の力によって立っているからです。立ち直った者は誰でも、打ちひしがれた痛みの中から、神の慰めによって立ち直ったからです。自分の努力や根性で立ち直ったわけではないので、そのことを誇る者はありません。だからこそ、傷ついた人、苦しんでいる人を慰める力を持つのです。
「神はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(Ⅱコリント1:4)