2009年11月1日日曜日

11月1日 聖書を構造的に読む (ひねくれ者のための聖書講座 ⑧ )

 私がメッセージをする上で心がけていることは、無理に聴き手の感情を駆り立てたり、語り手の感動を押しつけたりしないことです。そして、決して自ら抽出した徳目へと導かないことです。私は落ち着いて淡々と話します。たぶんイエスもそれほど激して語りはしなかったでしょう。私が話したことをよく聴いた上で、拒絶されることも、正反対の意見をお持ちになることも当然あるということは十分承知していますし、そういう判断を尊重する姿勢をもっています。しかも、この講座に関してはひねくれ者対象です。ひねくれ者なら、ひねくれ者の話なら納得するだろうなんて思い上がってはいません。尚、拒んで批判するのもご自由にという感じです。もちろん私は神に心動かされて語ります。しかし、機械的に「知識」や「教理」を伝えているわけではありません。価値の伝達が目標ではないのです。もっとそれ以前のことであり、さらにそれ以上のことです。
 私が伝えたいことは、「聖書にはこう書いてあるでしょう。ほらね」ということです。そのことを通して、聖書が紹介する「イエスという御方」を明らかにすることです。「人の状態」や「正しい生き方」の話ではないのです。勿論そういう部分も含まれはするでしょうが、中心はイエスという御方です。ですから、「私だけがこういうことを読み取ったのだ」というような特別なことはひとつもありません。イエスという御方を紹介して、それぞれに甦られたイエスに出会っていただくからです。それで私の役割のほとんどはおしまいです。この御方はその個別の出会いによって信じる者にいのちを与えるのです。伝える者は、誰であれ特別な秘儀を語るのではありません。そんな秘められた教えなんてありません。さまざまなキリスト教がバラバラなことを語っていても、聖書は2千年以上変わらず、同じひとつのことを語っています。それは、「イエスはどういう御方で何をなさったか」ということです。「福音の奥義」という言い方もありますが、それはその気になれば誰もが味わうことの出来るところにあります。門を狭くしているのは、聴く者の態度の頑なさなのであって、初めから天国の定員が決まっていたり、偏差値が高かったりするわけではありません。もってまわった妙な手続きを加えたのは、人の好き勝手な言い伝えです。

 もう一度繰り返します。ポイントは、「イエスがどういう御方で、何をなさったか」ということです。それをそのまま書かれているとおりに素直に読むことを進めています。そのように読めば、各自が主イエスと出会えます。
 誰でも心の中に神の声を聞くチューナーを持っています。それを聖書は「霊」と呼んでいます。この「霊」を吹き込まれたので、「人」は「人」となったのです。ホモサピエンスとしての「人」は「ヒト」と片仮名表記されたりしますが、そのヒトは、遺伝子レベルでは確かに猿とほとんど変わりません。ヒトとチンパンジーの違いは、ウマとシマウマ程度の違いだと言います。しかし、人は神と永遠を思い、神と交わり、永遠に生きる可能性を持っています。ここに、人の特別な存在価値があるのです。

 猿が道具を使うことはあっても、猿が何かを奉ったり拝んだりすることはありません。なぜでしょうか。人だけが神と交流するための「霊的な存在」だからです。しかし、その人の霊は不完全にしか機能していません。聖書が描写するのは、善悪の知識の実を取って食べ、神の園エデンを追放され、神との交流が断たれた人の姿です。それで人は、神や神ならぬ大いなるものとの交流を持とうとしてあがき苦しんでいるのです。そのような理由で、人は無数の宗教を生み、それらを拒否する進化論という宗教を生み、さらに聖書の教えさえ宗教に貶めてしまったのです。

 「進化論と言えば、宗教ではなく科学じゃないか」と思われるかも知れませんが、私に言わせれば、最も悪質な宗教です。
 簡単なひとつの例を思い浮かべて考えてみましょう。昆虫の世界です。蜂や蟻などの小さな虫でさえ、圧倒的な組織力をもって見事な役割分担で自分の任務を遂行しますが、そんな虫たちよりも遥かに優秀なはずの人間が産み出した世の中のシステムには、さまざまな人間関係の確執や権力の闘争があります。妬みや憎しみから巣の秩序が崩壊することはありません。蜂や蟻のようにはうまくいかないわけです。人が罪に墜ちたことによって非贓物全体が虚無に服したと書いてあるので、昆虫の世界もエデンの園の状態とは違うでしょう。しかし、人間以外の動植物の間には、人間のような「神との関係の歪み」は見られません。だから、イエスは「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われるのです。自然の動植物には人のような霊はありません。しかし、「ただ神に養われている」だけで、神との霊的な交流がなくても、それらは喜びに満ちて己のいのちを奏でているではないかというのが、イエスのメッセージです。さらに進化したものが、進化の劣位にあるものに学ぶことなどないはずです。ポイントは、「神との関係の歪み」です。この歪みが、自らを猿の末裔に貶めるのです。
 神の園エデンを追放され、神なしでやりくりしてきた私たちですが、その神の第一としない勝手気ままなやりくりに問題があるのだと聖書は指摘します。
 霊の機能不全を回復へと導くのは神のことばです。「わたしのことばは霊でありいのちである」とイエスは語られました。聖書のことばは、ただの道徳やイデオロギーではないのです。

 さて、今日の講座では、神のことばである聖書の構造的な読み方のヒントについてお話したいと思います。言ってみれば、チューナーの使い方、ダイアルの合わせ方についての手引きです。妨害電波や、偽りの情報があまりにも多いですから、こういうメッセージもあってもいいのかなと思っています。
 各自がしっかり調べ、よく吟味することが大事です。丸かじり、丸呑みはいけません。私の話も簡単に信じてはいけません。ちゃんと疑って、自分で調べてください。罪や救いなんてそう簡単にわかるはずのないことです。

 みことばを読むことは、食べ物をよく咀嚼していただくことに喩えられています。食材にはそれにふさわしい食べ方があるということです。
 動物は肉も野菜も丸かじりです。味付けも何もありません。しかし、人間はさまざまに工夫を凝らして調理します。どこの国でも、おいしい料理とは、素材の持ち味を十二分に生かしたものです。神は予め人が知恵と工夫によってさまざまな調理方法で食材を楽しめるようにすべてのものをお作りになったのです。これは物凄いことだと思いませんか。

 聖書は、さまざまな文学の形式にのっとって書かれています。あるものは歴史、あるものは詩として書かれています。ひとつのことばの原語の意味にこだわることも大事ですが、全体の流れやつながりを見ることも大事です。
 特にある部分を文脈に関係なく切り取って、自分の願いや主張を練り込んで語ったり、読んだりすることは、キリスト信仰の大いなる歪みの原因になっていると思います。こういう読み方によって膨れあがったものがキリスト教という宗教なのです。
 
 魚や野菜にだって、そのさばき方や切り方には、その種類に従ったルールがあります。聖書の読み方もデタラメでは駄目で、理にかなった方法があるのです。つまり、それぞれの聖書記者の編集意図をとらえるということです。それぞれ独立した意図をもって、また別々の様式で書かれています。手紙は手紙、系図は系図、歴史は歴史、詩は詩として表現されています。そして同時に、聖書の他の箇所との整合性、全体を貫く、構造物の真柱である「イエスとはどのような御方で、何をなさったか」というテーマとの関連から読み解く必要があります。例えば、手紙であれば「いつ」「誰が」「誰に」「どこで」「何のために」書いたのかということです。それが、個人にあてたものか、教会にあてたものかによっても違います。5枚の便せんに書かれた手紙を3枚目の途中から読み始めたり、ある数行だけ書き写して残りは何を書いてあるか知らないというような読み方はしません。自分あての手紙を、自分が読むより先に誰かに読んでもらい、その意味を解説してもらうというような愚かなことはしません。そういうことは、実際あり得ないことだし、そんなことをしたら、差し出し人を馬鹿にしているとしか思えません。しかし、聖書に限れば、そういうことが平然と行われているのです。

 今日特に取り上げるのは、文学的手法としてのひとつの定型についてですが、これは手紙の中にも詩の中にも物語の中にも見られるものなので、知っていると参考になると思います。
 定型詩や定型文のスタイルのひとつとして、交差配列法(chiasmusカイアズマス)というのがあります。ギリシア語でキアスマスと言います。
 たとえば、「茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる」というような一文があったとします。これは漱石の「三四郎」の一節ですが、このように、文節や文章などをABBAのように反転させる方法をキアスマス(カイアズマス・交差並行法)と言います。この漱石の一文は最小単位の例ですが、このように言葉を反転させて繰り返しながら、読者に状況を効果的にイメージさせることに成功しています。さらにABCCBAというように、いくらでも複雑になります。
 さらに、真ん中に中心点になるXを置いてABCXCBAというかたちで定型をなす場合もあります。
 二つめの例をご紹介します。シェイクスピアの芝居の一節に「Fair is foul and foul is fair」(いいは悪いで、悪いはいい)というのがあります。これは「マクベス」の中の魔女の台詞ですが、andを中心にしてパラレル部が反転して、不思議な調子を作り出しています。
 これが、詩の中で複数の行数で行われる時はどうなるでしょうか。例えば4行の詩があるとすると、1行と4行が、2行と3行がそれぞれ一対になります。反転したパラレルになるわけです。このカイアズマスがもたらす反転パラレルは短文だけでなく、行や幾つかのまとまった段落の対置関係にも使われたりします。奇数行や奇数のまとまりになって、一番真ん中の行やまとまりが、折り返し点になるような構成になるのです。このような文章の構造は、日本人にとってはなじみの薄いものですが、実は聖書を理解する上で非常に重要な鍵のひとつです。
 創世記7章の「ノアの箱船」の記事を見てみましょう。(創世記7:4~8:10)

 1.7日間洪水を待つ(7:4)
  2.動物とともに箱船に入る(7:7~15)
   3.箱船の扉を閉める(7:16)
    4.40日の洪水(7:17)
     5.箱船浮かび上がる(7:18)
      6.山々まで覆う(7:19)
       7.150日間増え続ける(7:24)
        X.神はノアたちを心に留めておられた(8:1)
       7.150日の終わりに減り始め(8:3)
      6.山々の頂が現われ(8:5)
     5.箱船アララテ山頂へ(8:7)
    4.40日が過ぎ(8:6)
   3.ノアは扉を開いた(8:6)
  2.カラスと鳩を放った(8:7~8)
 1.さらに7日間水が退くのを待つ(8:10)

 中心は、折り返し点のXにあたる8章1節では、神がノアを心に留めていたことを印象づけています。そして、災いも救済もともに、神が計画し、神が執行されることを厳粛に物語って印象づけています。

 続いて、バプテスマのヨハネの受胎告知の場面を取り上げてみましょう。(ルカ1:6~25)
 
1.ふたりは神の前に正しく戒めと定めを落ち度無く行っていた(6)
  2.エリザベツは子が無く、ふたりとも年をとっていた(7)
   3.ザカリヤは、当番で祭司の務めをしていた(8)
    4.くじを引いたところ、神殿にはいって香をたくことになった(9)
     5.香をたく間、大勢の民は、外で祈っていた(10)
      6.主の使いが現われ香壇の右に立った(11)
       7.ザカリヤは不安を覚え恐怖に襲われた(12)
        X.御使いの受胎告知(13~17)
       7.ザカリヤは御使いを疑った(18)
      6.ガブリエルが、主の命だと告げ、
       信じないから、誕生まで話せなくすると言われる(19          ~20)
     5.香ををたくザカリヤが暇取るので、人々は外で不思議がっ      た(21)
    4.聖所から出たザカリヤは、口がきけなくなった(22)
   3.ザカリヤは、祭司の勤めの期間を終え、家に帰った(23)
  2.エリザベツは身ごもり、5ヶ月引きこもっていた(24)
 1.エリザベツは、主が自分に心をかけて下さったことを述べた(25)
 
 この箇所では、中心のXは御使いガブリエルのことばになっています。ガブリエルのことばはちょうど13~17節まで5つあって、その真ん中の15節が、意味的にも核を成すようになっています。面白いでしょう。

 聖書は長い間、現代のように、ひとりひとりが手にとれる紙の本ではなく、羊の皮に書かれて巻物にされていた時代がありました。章や節といったものが便宜的につけられるようになるのも、ずっと後のことです。また、紙の本になってからも、民衆が自分のことばで自分の聖書を手に持って読めるようになるには、長い時間を待たねばなりませんでした。ですから、こうした神の知恵と配慮によって、話のまとまりや内容が分かりやすいように効果的に書かれていたことを知ることは、とても大事なことだと思えるのです。
 多くの教会の中では、好きなことばを適当にぶつ切りにして使用しています。しかし、聖書は本来文脈の中で読むものです。ディデイルにこだわりすぎてもいけません。このキアスマスという構造は、人が勝手に中心点や焦点がぼけさせることのないようにされた神の配慮です。何が大事かは明らかなのです。聖書が語っている以上のこと、聖書が語っている以外のことを、読み取ったり、語ったりするのは大きな罪です。

 10月は「刈り取り」にまつわるお話をしました。ヤコブとダビデを例にあげましたね。そんな刈り取りに関するパウロのことばからキアスマスの例を確かめましよう。(ローマ2:6~11)

1神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになり ます(6)
 2忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者に  は、永遠のいのちを与え、(7)
  ×党派心(自己中心)を持ち、真理に従わないで不義に従う者に    は、怒りと憤りを下されるのです。(8)
  ×患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行な     うすべての者の上に下り、(9)
 2栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行な  うすべての者の上にあります(10)
1神にはえこひいきなどはないからだ(11)
   
 6節の「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになる」と11節の「神にはえこひいきなどはないからだ」は対になっています。この部分は神の公正さが語られています。
 7節の「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え」と、10節の「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にある」は対になっています。忍耐をもって善を行うことと、不滅の価値を希求することの関連が語られています。
そして、8節の「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下される」と9節の「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下る」も対になっています。この部分が核であり、真理に従わない悪を行なう者について語られています。
 この箇所を読むだけでも、アメリカのキリスト教の価値観に根ざした対イスラエル政策や、日本の親ユダヤ的な教会のあり方の偏りは見えるわけです。
 ローマ2章では、パウロは裁きについて語っていますが、要点は、「お互いを裁く必要はない。神が公正に裁かれるから」ということです。かなり繊細な内容ですが、この部分を読むと、神はえこひいきはなく、きちんと正しく裁いてくださるのだということが印象深く伝わって来ます。だから、私は神様の正しい裁定に期待して先走って誰とも無意味に争う気はありませんが、「正しく聖書を読みましょう」という発進は静かに続けていきます。

 このように、一人ひとりが構造的に、論理的に聖書を読んでいくことは、何にもまさって大事だと思っています。「知ってるつもりの人」も「知らない人」もです。むしろ既に信仰がある方々こそ、このような視点でみことば全体を鳥瞰する力をつけることが必要です。信じている人が信じていない人に語るとき、「ある断片を自分が信じているから正しいはず」という類の情報にはほとんど説得力はありません。
 一人ひとりが自分の責任で神のみことばを扱うとき、愚かなリーダーのミスリードを受けるリスクは軽減されますが、みことばのいいとこ取りをして、勝手気ままな「信仰ならぬ思いこみ」を増長させる危険も大いにあるからです。みことばのどの部分に何が書いてあって、それは他の箇所とどのような論理的な整合性があるのかをきちんと理解していることが大事です。

 そして、イエスという御方としっかり出会うことです。この御方を知っていれば、身勝手な読み方の間違いはわかります。この御方にふさわしくない断片は本質からずれているのです。そういうものには、本当にイエスと出会った方なら「何か違うぞ」と、内におられる聖霊は「アーメン」しないはずです。そういう違和感を、大切にしていただきたいと思います。