2009年11月15日日曜日

11月15日 ダビデとアブシャロム (ダビデの生涯と詩篇 ⑪)

 それぞれに違う母親から生まれた子どもどうしが、お互いにどのような感情をもって過ごしていたのかは、非常に興味深いものがあります。父親はダビデですが、母親は違うわけです。これは子どもの成長や発達にとっては非常に不健全です。ダビデにしても、特別に気にいった妻の子が一番可愛かったのかも知れないし、長男に愛情の偏りがあったのかも知れません。
 子どもたちの日常の暮らしを思い浮かべてみてください。何しろ王の食卓につながる子どもたちです。飢えることもないし、様々な必要に事欠くことなどあり得ないのですから、ただ生きることにエネルギーを奪われる庶民よりも、人間関係の葛藤は深くなるのです。考えてもみてください。だいたい長男のアムノンにしても、日々やつれていくのが人目にわかるほど、かなわぬ恋に熱中して、しかもろくでもない助言をそのまま聞き入れて、仮病を使って寝こんでいられるくらい暇なんですね。要するに、人生の多くの問題というのは、神の祝福の中心を抜き取った周辺の御利益の部分に、そのきっかけがあるのです。

 ダビデの長男はアムノンです。アブシャロムは3男です。(Ⅰ歴代誌3:1~9)3男が、腹違いの長男を殺した背景には、当初はアブシャロムの思惑にはなかったかも知れない意味合いが含まれてしまうのです。
 ダビデとアブシャロムの確執は、アブシャロムが兄弟アムノンを殺した頃から、始まったようです。ダビデはアブシャロムに対する「敵意」を持っていたと書かれています。(Ⅱサムエル14:1)この「敵意」という表現から、ダビデとアブシャロムの気持ちや関係性を考えてみたいと思います。
 アブシャロムは、妹タマルを陵辱したアムノンをどうしても赦すことが出来ませんでした。アブシャロムのアムノンに対する憎しみや殺意は、日に日に募らせていったというよりは、タマルの一件の直後にあったものだと書かれています。ダビデは、そんなアブシャロムの気持ちを全く理解出来ないことはなかったと思いますが、それでも「殺す」という選択をするとは予想しなかったでしょう。何しろタマルもアムノンも、そしてアブシャロムも、3人とも大切なダビデの子どもなのですから、「どちらがどれだけ悪いから、ああして、こうして」というような整理はなかなかつかないのです。

 「義」と「愛」が両立すること、「恵み」と「まこと」がひとつになるということは、人には到底出来ないことだし、その理想がどんなものであるのかということさえわかりません。それは人の想像を遥かに超えているのです。ダビデとダビデの子どもたちの通った道を見れば、ひとたび罪を犯してしまうと、それは簡単に元には戻らないことがわかります。ひとつの過ちが連鎖して、雪だるま式に大きな不幸を生みます。罪の最終的な結果は死であり、それぞれの選択にふさわしい具体的な刈り取りが待っています。
 それは、神の御前に罪の清算がついていることとは別の次元で展開していくのです。言うまでもなく、ダビデは罪が赦されなかったのでないし、信仰がなかったのでもありません。「霊」の中で処理されていることも、「魂」はそう簡単に受け入れられません。「目に見えない世界」で完了していている事柄も、「目に見える世界」では個々の具体的な解決に追われ続けます。ですから、人の心には残された葛藤があり、圧倒的な勝利を確信しながらも、片方ではボロボロになって涙を流すということが、時として起こってしまうのです。「立場」と「状態」には、大きな隔たりがあります。これを埋めるのが信仰です。
ダビデが父親として十分なリーダーシップを発揮できなかった原因を考えてみましょう。イスラエルという国を立派に治めていたダビデですが、家族を治めることに成功していたとは言えません。どちらが本当のダビデなのかというと、この家族の混乱こそがダビデという人の本質を表しています。子どもたちの連鎖する罪のそもそもの発端は、バテ・シェバに対して自分が起こしてしまったあの事件であることは明らかです。
 勿論、ダビデは、ナタンが宣言したとおり、自分の犯した罪は即座に主に赦されたことを疑わなかったでしょう。その恐れと感謝は詩編の中に綴られているとおりです。それでもなお、子どもたちが次々に引き起こす目の前の具体的な問題に対しては、自分のことを棚上げして戒めることが出来なかったのです。
 おそらく、ダビデの心の中では、いろんな苦しい気持ちがゴチャ混ぜになっていたと思います。タマルへの不憫さも、アムノンへの怒りもあったでしょう。あれこれの思いは去来するものの、それらの感情はすべて「子どもたちへの申し訳ない気持ち」に飲まれてしまい、その結果、子どもたちではなく、自分を責めてしまうという悪循環に陥ったのです。自分の罪を赦せない気持ちは、他者に対する曖昧な態度や偽の寛容さとして現れるものなのです。

 アブシャロムに対して抱いていたダビデの敵意を見抜いたのも、アムノンに対するアブシャロムの当初から殺意と2年後の計画を見通していた人物がいます。ヨアブというダビデの側近です。ヨアブはエブス人との戦いにおいて、軍団長になった有能な軍人です。(Ⅰ歴代誌11:6)この時の描写を見ても、野心に溢れる抜け目のない人物像が浮かびます。ダビデがバテ・シェバとの姦通を誤魔化そうとしたときも、ヨアブは、ダビデの命令通り、全く躊躇することなくウリヤを殺しています。ダビデの真意を確かめずに勇士ウリヤを殺したことが立派なのか愚かなのか、そこは議論がわかれるところですし、実際その時のヨアブの認識や感情を読み取ることは難しいです。
 しかし、このことは言えます。命令には黙って服従したヨアブですが、「自分も明日はウリヤのように殺されるかも知れない」という不安だけは確実に芽生えたに違いないということです。この不安感をきっかけにダビデに対する信頼や尊敬を失ったのかも知れません。ヨアブはある時点でダビデを見限り、若くて有能なアブシャロムに乗り換えようとした可能性があります。おそらくヨアブとアブシャロムとは心情的に結びつく要素があったからでしょう。ヨアブはアサエルを殺された報いにアブネルを殺したことを覚えておられるでしょうか。ダビデの気持ちはわからなくても、妹を殺されたアブシャロムの憎しみには共感出来たのです。

 ヨアブは、アムノンを殺して潜伏中だったアブシャロムをゲシェムからエルサレムへ呼び寄せようと努めます。ダビデと和解できるように、テコアの知恵のある女を使ってダビデを説得するのです。ダビデは、それがヨアブの入れ知恵であることを見破りますが、結果的にはその要求を受け入れ、アブシャロムがエルサレムに戻ることを許します。それでも、ダビデはなかなかアブシャロムに会おうとはしません。これでは何の為にエルサレムに戻ったのかわからないと怒ったアブシャロムは、今度はヨアブを利用して、無理矢理ダビデとの面会の機会を作ります。そこでダビデはアブシャロムに口づけし和解するのですが、それはかたちだけのものでした。この対面はただの親子の和解ではありません。一国を治める王と王子の対面です。この和解は王位継承者としてアブシャロムを認めるかどうかにつながる意味を持っています。アブシャロムはダビデと会うことができました。しかし、アブシャロムは、ダビデに対する悔い改めも感謝もなく、愛や憐れみを求めたわけでもありませんでした。アブシャロムは、この王であり父であるダビデとの会見によって、絶望を確かにします。ダビデとの本質的な和解はなく、王位が自分に継承されることはないと感じ取ったアブシャロムは、やがて周到な準備の後にヘブロンで旗揚げし、謀反を起こします。一方でヨアブは、エルサレムに帰れるように計らった自分に恩義を感じることなく、さらにダビデとの会見を暴力的に求めてきたアブシャロムに対して苛立ったはずです。そんなわけで、ヨアブはアブシャロムとダビデとの間で振り子のように揺れながら、結局アブシャロムの側にはつきませんでした。

 もうひとりのキーマンであるアヒトフェルをめぐっても、ダビデとアブシャロムの名案がくっきり分かれてしまいます。アヒトフェルは、ダビデの議官をしていた人でした(Ⅱサムエル15:12)そのアヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担します。その情報は、エルサレムから落ち、オリーブ山の坂をはだしで、泣きながら登るダビデのもとのもたらされました。ダビデはそのとき、「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31)と祈ります。
 ダビデがそのように祈ったのは、アヒトフェルが極めて聡明な人物だったからでした。「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた」(Ⅱサムエル16:23)と説明されています。三国志の諸葛孔明みたいなものでしょうか。
 その知恵に満ちた助言の一例が記されています。アブシャロムがエルサレムに入った時、アヒトフェルは「父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにおはいりください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたにくみする者はみな、勇気を出すでしょう」(Ⅱサムエル16:21)と助言しています。これは道徳的ないかがなものかと思いますが、非常に効果的な作戦ではありました。当時は敗者の王の妻を、新しい支配者が奪うということがありました。それは支配者の交代とその権勢を強くに示すことになります。アブシャロム軍は「勝てば官軍」イスラエルの正規軍となるいわけです。アブシャロムにつき従う者たちにも、どこかにダビデに対する複雑な思いやうしろめたさを感じる者がいたとしても、そうした感情を一気に払拭する名案だったわけです。アヒトフェルは、戦の布陣を組んだり、戦法を授けるだけでなく、心理を読み取った人心掌握に長けた数々の作戦を立てて、ダビデを支えて来たのだと思われます。
 実はこの出来事は、人の営みとしてはアフィトフェルの知恵がもたらした作戦であり、アブシャロムが合意して実行されたものですが、霊的に見れば、ダビデの姦淫の罪に対する刈り取りであって、すでに預言者ナタンによって宣言されていたことでありました。「主はこう仰せられる。・・・あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。」(Ⅱサムエル12:11~12)これは、極めて厳粛なことです。
 そして、アヒトフェルは、ダビデ討伐の作戦をアブシャロムに進言します。「私に一万二千人を選ばせてください。私は、今夜、ダビデのあとを追って出発し、彼を襲います。ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。私が彼を恐れさせれば、彼といっしょにいるすべての民は逃げましょう。私は王だけを打ち殺します。私はすべての民をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、あなたが求めているのはただひとりだけですから、民はみな穏やかになるでしょう」(Ⅱサムエル17:1~3)
 ポイントは、まず「時は今」、次に「敵は王ひとり」ということです。狙いはダビデひとり。ダビデがいなければ敵兵もアブシャロムの配下で戦力になるので、無意味に殺したり傷つけないほうがいいのです。非常に賢明な作戦です。ところが、この素晴らしい作戦をアブシャロムは退けます。フシャイは「アブシャロム自身が出陣し、全軍をもって壊滅すべきこと」を進言します。それは少しでも時間を稼いでダビデを遠くに逃がし、ダビデの得意とする野戦に持ち込むためでした。(Ⅱサムエル17:8~14) これも、アブシャロムが自分の意思で選んで決定したことですが、霊的には「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31)とダビデが祈ったからです。「これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった」(Ⅱサムエル17:14)と書かれています。この結果、ダビデはヨルダン川の東に逃げ、戦いにおいて勝利を得ます。アヒトフェルは、自分のはかりごとが行なわれないのを見て、首をくくって死にました。アヒトフェルは頭のいい人でしたから、自分の策を採用しないアブシャロム軍に勝機がないのを悟っていました。ダビデを裏切った限りはもはや彼の生きる道はないと思い詰めたのでしょう。ダビデを裏切ったアフィトフェルはイエスを裏切ったユダのモデルになっています。人はいくら知恵が豊かでも、その知恵によって己の身を救うことは出来ないのです。自分の力や策に頼ったアブシャロムと、自分の罪を隠さず、自分の可能性に絶望し、ただ主の憐れみを願ったダビデの明暗が分かれます。同時にダビデは、この神のお取り扱いの中で、アフィトフェルの裏切りに深く傷つきながらもイエスの地上での苦しみを先行体験し、彼のうるわしさを学ぶことを許されました。(詩編38:5~12)同じように経験する悲しみや苦しみであっても、アブシャロムやアフィトフェルのそれとダビデが味わったものとは、何と質が異なっていることでしょう。神の恵みのもとに服するものには、それがどんな苦しみであれ、一切に無駄がありません。神がそれに価値を与えるからです。

 ダビデと長男アブシャロムは心通わせることがないまま、悲劇的な最期を迎えます。ダビデは全面対決の中でも敵軍の将であるアブシャロムの安全を願い、「アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ」と家臣たちに命じています。ところが、ヨアブはその命に背いて、無抵抗な姿になったアブシャロムを殺します。彼の自慢であった髪の毛が、人より頭一つ高かったその頭が、樫の木に引っかかったのです。何という皮肉でしょうか。人は神の前に、己のプライドによってつまずくことの象徴的な絵となっています。
 ダビデは、アブシャロムの訃報を聞いて、尋常ならぬ悲しみを隠すことなく表します。(Ⅱサムエル18:33~Ⅱ19:4)このダビデの姿から考えさせられるのは、イエスを見捨てて、容赦なく裁いた父なる神の御心です。これほど敵意を剥き出しにして、自分に挑んでくる息子であったさえ、ダビデにとってはかけがえのない息子でした。ましてや、ご自身のすべてを反映し、完全に父のみこころに従って、従順に歩まれたイエスを、罪と見なして裁かねばならないその心中はいかばかりでしょうか。イエスが十字架にかかられたとき、全地は3時間真っ暗闇に包まれました。(マタイ27:45~46)この暗闇に秘められた神の愛を感じましょう。私たちはこの暗闇から生まれた光だということです。