2009年12月6日日曜日

12月6日 祈りについて(ひねくれ者のための聖書講座⑨)

 およそ祈ることほど馬鹿馬鹿しいことはないと思ってきました。自分でろくに努力探求せずに神様にすがるとは何事かと・・・・。人が祈る姿は、私の目には惨めでみっともないものだと映っていました。そして時には浅ましい姿にさえ思えました。敬虔を装う貪欲さを感じる場合もありました。「舌切り雀」の話を読んで、でっかい葛籠にはガラクタしか入っていないと知っているから、宝の入った小さい葛籠を選ぶような、「金の斧、銀の斧」の話を聞いて、水の女神に正直に答えて金銀の斧を両方せしめてやろうというようなしたたかさを感じるわけです。実際、「イエスに高価な香油を注いだマリヤは素晴らしい、だから、私たちも・・・・」なんて話はいっぱい聞かされるわけです。私はその手の話は苦手ですね。とにかく私はひねくれていますので、「信仰」を大事にする生き方も、弱者の杖、卑怯者の逃げ場所だと感じられたのです。今でもいわゆる宗教における「信仰」については、同じ印象を持ち続けています。

 クリスチャンになってからも、正直に言うと「祈り」にはずっと違和感がありました。祈りのことば使いやその内容が、どうにも嘘らしく思えました。どうにも嘘らしいというのはかなり控えめな表現ですね。特に、自分の祈りのことばに関して徹底的に違和感があり、結構長い間、しっくりきませんでした。実は今でも時々「何か違うぞ」と思っています。そういうわけだから、他の誰かと一緒に祈るのも決して楽しくはなかったし、充実した意味のある時間ではありませんでした。同じことばを使っていても全然違う内容をさしているようなすれ違いを感じ続けてきたわけです。
 昨日まで祈ることになど無縁だった連中が、企業の朝礼で社訓を連呼する如く、コンビニやハンバーガーショップの店員がマニュアル通りに接待する如く、けっこう流暢に祈り出す様子は、何とも不可解でした。そんなキリスト教用語で身を固めていく人たちの変わり身の「自然さ」というべきか、「不自然さ」というべきか、そこは悩むところですが、とにかくそういう生態は異様に思えました。教えとしては、「いのちが宿った」と言うことなんでしょうが、私は「洗脳」ということばを思い出しました。

 祈りに関するもうひとつの一般的なイメージとしては、「蔦の絡まるチャペルで祈りを捧げた日」という歌の文句にもあるように、祈る姿自体が、ひとつのファッションというか、スタイルになっている。これも気にいらないことのひとつでした。そういうクリスチャンイメージが蔓延する中で、自分がクリスチャンとして見なされることに物凄い拒絶感がありました。それは今も同じです。そこで、蔦が絡まるどころか、舌が絡まるわけです。

 そういうことを全く感じないで、すうーっと自然に自分のことばで祈って来られた方々にとっては、逆に私の感じ方がおかしいと思われるでしょうが、それはそれでいいのです。しかし、世の中には、私のように「祈りにとまどう人たち」は少なからずいるはずです。「ことば」にこだわり、「自分のあり方」にこだわる人間にとっては、祈るという行為はそんなに単純なものではないのです。かと言って、無意味に理屈をこねまわして、「祈る」という行為を複雑なものにしようとは思っていません。「祈り」を否定しようとは思いません。
 ただ、何の疑問も感じていない人たちが、本当に正しく祈れているのかということについては、一言意見をのべたいという気持ちはあります。ただし、ひねくれ者にふさわしく、自分が何処につまずいてなかなか祈ることが出来なかったのかを明らかにしつつ、どうしてそうしたひっかかりを感じずに、あるいは、強引にかき消して、いとも簡単、かくも御立派に祈れる人になるのかということを問いただしたいと思います。

 まず、「一体何に向かって祈るのか」、次に、「何の為に祈るのか」、そして、「祈ることによって何がどう変わるのか」などが、どうにもすっきりしない。その上でさらにやっかいな、「どんなふうに、どの程度祈ればいいのか」という問題が出て来ます。私の場合も、先輩のクリスチャンたちから、それらしいマニュアルどおりの答えをいただきましたが、それがどうにも、聖書が語るところとピタッと一致するようには思えないわけです。何より、「教えてくれたその人自身があんまりよくわかってないんじゃないか」という疑念を拭えずにいました。そこで、私は他の誰がどう祈っていようが気にせず、イエスご自身がどのように祈り、何を祈れとおっしゃったのかを丹念に追求することにしました。さすがイエス・キリストです。キリスト教の教える祈りとイエスの祈りは天と地ほどの違いがあることがわかってすっとしました。
 
 「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときに自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(マタイ6:5~15)
              
 まず何より腑に落ちたのは、「長々と祈るな」「往来や人前で祈るな」というイエスの祈りに関する叱責です。イエスは当時の宗教指導者たちが「これこそ祈りだ」と信じ込んでいたスタイルを根本的に否定しています。「祈りというのはそうじゃない」というメッセージですね。彼らが祈りだと思っていた祈りは、人が自分勝手に創作した言い伝えや習慣であり、何の価値も効力もないというわけです。言い換えれば、これは祈りを聞く神の側からの拒絶です。宗教的に祈りの功徳を積む人々は、一体何の教えに従ってそうするのでしょうか。聖書のこのページか国語の読解力か、そのいずれかが欠落しているとしか思えません。

 それらは、「偽善者の祈り」また「異邦人の祈り」と呼ばれています。「宗教的祈り」と言ってもいいでしょう。つまり、神ならぬ大いなるものの心を動かすための、人間側からの働きかけです。それを人間どうしがその姿勢や熱心さを評価し合うといったものになっているということです。音を鳴らしたり、仰々しい装束を身にまとったり、うやうやしく振る舞ったり、それらしい呪文をとなえたり、さまざまな難行苦行をしたり、供え物を捧げたりと、いろいろな条件が追加されます。また、朝早くから、夜を徹して、あるいは何日も連続して・・・など、何度も同じことを繰り返しながら、長時間そのことに集中して、それを見ているはずの神さまや人の心を動かそうとするわけです。こういう人の営みをすべてイエスは否定されたのです。ですから、「無駄だ」と言われていることをするのは無駄です。「やめろ」と言われていることをあえてするのは罪です。

 確認しますよ。祈りは同じことばを長く繰り返しても何の意味もありません。人前で人目を意識し、そのことによって「祈る自分」に意識が向いている時点でその祈りは無効だということです。
 イエスは「隠れたところで隠れたところにおられる御方に祈れ」と言われました。神は「隠れたところ」におられるのです。それを目に見える「かたち」にする必要はありません。隠れたところにおられる御方を信じられずに、木や石や金属でそれらしいかたちを与えたものを、聖書は「偶像」と呼んでいます。「偶像」に向かっていくら長時間それらしく祈っても何事も起こりません。もちろん「それだけ念じたのだ」という自己満足は残るでしょうが、ただそれだけのことです。このような人間の不安と自己満足を膨張させたものが「宗教」です。イエスは、キリスト教を含む一切の宗教を否定されたのです。マリヤ像のみならず、キリスト像や十字架に祈るのもまったく馬鹿げていますし、聖書はそれらを完全に否定しています。ユダヤ人はそれでも偶像を作って拝んだ時期はありましたが、イエスが来られた時代は、そういう「かたち」あるものに祈っていたから批判されたのではなく、祈る姿勢や、自分自身の信仰が偶像になっていたわけです。よもや自分に問題があるとは思っていないほど、自然にその祈り方を身につけてしまっていたわけです。そこが問題だとイエスは指摘されたわけです。

 イエスが直接叱責されても憎むばかりで悔い改める気配の乏しかった当時のパリサイ人や律法学者の様子を見れば、私ごときが意見を述べてもおそらく、気を悪くして逆に私がののしられるだけだろうと予想はしていますが、それでもイエスが語られた以上、私も言わないわけにはいかないので、決して好き好んでというわけではありませんが、こうしてメッセージをしているわけです。

 雅歌の中には、羊飼いである王、すなわちキリストが花嫁、すなわち教会を奥の間にともなう場面があり、いわゆる敬虔なキリスト教徒が眉をひそめるような官能的な描写もあります。その描写をみれば、祈りは、親しい者どうしの密室での交わりなのです。もちろん、集まって数人や教会全体で祈ったり、公の場で祈ることがすべて間違いで不純だとは言っておられるわけではありませんよ。イエスはここで、祈りというものの本質について語っておられるのです。この本質をわきまえないでいると、祈りは、形骸化し、かえって害をもたらすものになると言っておられるのです。妻や子どもや親といるときは、そんなに饒舌に語ったりしません。親しい関係になるほど、ことばの間にあるものや沈黙のコミュニケーションが多くなるのではないですか。

 イエスご自身は、弟子たちに対して「弟子になったからには、こういうことをこの程度祈るように」などと教えたり、命じたりしませんでした。学校で子どもたちに、あいさつすることを教える程度にさえ、「信じた者は祈るべきだ」と教えなかったのです。これは重要な認識です。有名な「主の祈り」があるじゃないかと思われるかも知れませんが、それは、「祈りについて教えて欲しい」と要求した弟子に対して、「祈るのならばこう祈れ」とおっしゃったものです。
 マタイは、祈りの本質を伝えるべく、先程の引用の続きに主の祈りをもってきましたが、時系列に出来事を記したルカは、主の祈りが伝えられた経緯を次のように書いています。
 「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』そこで、イエスは彼らに言われた。祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与え下さい。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」(ルカ11:1~13)

 この「主の祈り」が最も強く教えていることは何でしょう。それは、神の優先順位ということです。祈りのことばにおいてではなく、あらゆることにおいて、実際に第一にしていることは何なのか。ポイントはその一点です。「御国が来ますように」ということばに集約されています。それはつまり「神の国とその義を第一に求めること」です。私たちは多くの場面で、この優先順位を間違えているのです。多くの場合、世における悩みの解決や祝福が祈りの中心になっていないでしょうか。私たちは祈る前に、それらの問題を一瞬で解決できる御方が、なぜあえて、この世に多くのつまずきを置かれたのか、不合理や矛盾を容認しておられるのかを考えるべきなのです。それは、人間に「神の国とその義に目を向けさせるため」です。

 恥ずかしながら、私は詩集を2冊出版しているのですが、その1冊は「聞き手のない対話」と言います。神様を知らないとき、架空の聞き手に向かってことばを綴ったものです。2冊目は信仰を持ってからの葛藤とその根底にある喜びを綴ったもので「生贄タチの墓標」と言います。生贄たちの墓標は、次のことばで始まります。『祈りのことばを失ったとき、ぼくの祈りは始まった。』
 つまり、自分を出発点とするあらゆることばが尽き果て、イエスという「いのちのことば」が口から出てくる。これが聖書が語るところの祈りなのだと私は理解しています。

 私は通常の礼拝のメッセージは祈りで結ぶことにしていますが、この「ひねくれ者のための聖書講座」では最後に祈ることを控えています。そんなかたちの上のことは、別にどうだっていいのですが、とにかく、あいさつみたいに祈るのは嫌だということと、同時に、私と同じくひねくれた人たちへのささやかな配慮でもあったということをつけ加えておきたいと思います。