2009年10月19日月曜日

10月18日 罪を刈り取るダビデ(ダビデの生涯と詩編 ⑩ )

 ダビデがバテ・シェバとその夫であるウリヤに対して犯した罪は、ダビデが預言者ナタンのメッセージを受け入れて、神の前にはっきり悔い改めたことによって完全な赦しを得ました。こうして、主の前にその罪は覆われ、ダビデはその後もさらに祝福を受け続けます。みなさんは、ダビデとバテ・シェバとウリヤの三角関係の中に起こった一連の出来事の顛末をご覧になってどんな印象を持たれるでしょうか。妻を寝取られたことも知らずに、ダビデを信じ切ったまま戦場に散ったウリヤとダビデを比べると、その扱いはまるで違うように見えます。私たちは、人の一生をどのように見つめて如何に評価するでしょう。神のお取り扱いは、非常に繊細で奥深いものです。一見不公平に思えることであっても、神は御自身にふさわしいやり方で、すべてのことを公正に取り扱われているのだということを、私は固く信じています。神の祝福の計画はよきものです。教育的で建設的です。系統的で具体的です。私たちは自分の将来、明日のことさえわかりません。しかし、神は私たちのために、すばらしい計画を持っていてくださり、それをよくご存じなのです。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

 「神の祝福を受ける」ということは、決して人間的に見てラッキーな出来事が連続することではありません。順風満帆の日々を送るということでもありません。もっと複雑です。望まぬ出来事に直面し、悲しみや苦しみの道を通ることもあります。私たちが出会うさまざまな出来事には、すべてを見通しておられる御方からの具体的なメッセージが含まれているのです。もちろん、蛇口をひねれば水が出るし、不養生をすれば風邪を引いたりするでしょう。そのような物事の当然の因果関係の法則の中で起こることに、いちいち神様の意図を深読みするのは行き過ぎですが、私たちが、神を信じ、具体的にみこころを求めて生きているにも関わらず、大きな人生の選択において、自分が強く願っていることや深く思い込んでいることと異なる展開になっていったとしたら、そこには、まず間違いなく、神様からのメッセージや訓練の意味合いがあるはずです。

 主は罪を完全に赦されるのですから、ダビデが家庭生活で味わった様々な悲しみや苦しみは、主が与えた罰というわけではありません。自分が選んだことの結果を見せられているのです。これは似ているようですが、全然違います。ダビデにせよ、私たちにせよ、誰であれ、自分が語ったこと、為したことの結果を見せられます。私たちは、自分の蒔いた種を刈り取ることを通して、「神がどのような御方であるか」を学ぶのです。すなわち、「神は決して侮られる御方ではないということ」、そして、「神は義であり、そして愛である」ということです。自分の蒔いた種の刈り取りをしながら、重要な神の学課を学んでいるのです。
 単にエゴを積み重ねて、健やかに富み栄えることは、祝福とは呼べません。本当の祝福とは「神を知ること」です。つまり、私たちが間違った選択をすれば、それがそのままうまくいくことはありません。神が「恵みによって」つまずかせてくださり、信仰によらない選択の結果を、きちんと見せてくださいます。私たちは愚かであやまった意志で突き進んでうまくいかないのは感謝すべきことなのです。ですから、うまくいかないとき、神に向かって憤ってはいけません。箴言にはそれを警告することばもあります。
「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。しかもその心は主に向かって激しく怒る」(箴言19:3)
 失敗すること、挫折することは出来れば避けたいことですし、とても辛いことです。しかし、それは恵みです。その中でこそ、人ははじめて学ぶべきことを学ぶのです。神がお与えになる苦しみと神のおきてを学ぶこととの関連を詩編の作者は歌っています。(詩編119:67,71,75)
 妙な言い回しかも知れませんが、私たちは自分に裏切られる必要があります。そして、裏切らない御方はイエスただおひとりであると知る必要があるのです。ペテロやパウロが、いのちの信仰のスタートラインに立つまで失敗を思い返してみてください。私が語った「自分に裏切られる経験」がちゃんとあるでしょう。それは、刈り取りであると同時に重要な神の学課なのです。

 ダビデに話を元に戻しましょう。ダビデが複数の妻をもったことは、「信仰によって」ではなく、「当時の習慣」によってです。それを今の価値観で簡単に責めることは出来ませんが、神の原則は時代の価値観によって揺らぐものではありません。結婚の基準に限らず、時代とともに知らずに犯している罪はたくさんあると思います。知らずに悪に荷担しているのです。
 最初の男と女が作られたときから、神のみこころは一夫一妻です。これは「道徳」ではなく、それ以上の霊的な「価値」と「意味」があります。男女の関係は最もすばらしいキリストと教会のモデルだからです。ですから、複数の妻をもった場合は、必ず弊害が生まれます。当然妻どうしの確執、異母兄弟のねたみや争いという問題が発生するのです。人間の本質は、古今東西どこでも一緒です。こういう関係のもつれや感情の行き違いが、いつの時代、どこの国でも、あらゆる芝居や映画のモチーフになるわけです。人の興味は、専ら自分を中心にした人間関係に尽きるのです。
 信仰によって約束の祝福を受け継ぐ人々にとっても、目に見えない神に対する信仰の本質は目に見える人間関係の中に現れるわけです。ですから、神との「縦の関係」が全くデタラメなのに、人との「横の関係」を避けたがる人たちは、既に自分のあり方によって、自分の愚かさや恥を表現していると言えます。神を信じる人たちが、「神を信じる他の人たち」や「異なる神々を信じる人たち」また「神も仏も信じない人たち」との多様な人間関係の中で、ともに生きるというのは、それほど簡単なことではないのです。
 アブラハムもイサクもヤコブも、そしてダビデも、信仰の人はみな「旅人」「寄留者」です。「旅人」「寄留者」は、旅先、寄留先でいろんな人と上手に関わる必要があるわけです。ですから、同じような経験をして苦しみました。ダビデの場合はまた特別です。羊飼いから王になり、その大いなる成功とともに、その影にはウリヤの妻であるバテ・シェバとの不倫とそのもみ消しのための嘘や殺人がありました。ですから、ダビデの苦しみと刈り取りがアブラハムやヤコブのそれとは、比較にならないほど大きなもの深いものだったことが容易に想像されます。

 まず、バテ・シェバとの間に生まれた最初の子どもは死んでしまいました。これが、ダビデにとっては最初の具体的な罪の刈り取りでした。ところが、次の子どもは大いに祝福されます。その次の子どもこそ後の王であるソロモンです。このふたりの子どもの何が違うのでしょうか。神は最初の子どもを憐れむことは出来なかったのでしょうか。それは無理でした。確かにふたりとも、ダビデとバテ・シェバとの関係から生まれた子どもですが、最初の子はダビデが無理矢理犯して孕ませた子です。しかし、次の子どもはウリヤが死んで、正式に娶ってから合意の上で結ばれて与えられた子どもです。これは、大いに違います。最近は「出来ちゃった婚」などということばが市民権を得て、お腹が大きい新婦さんがウエディグドレスを着ている姿も珍しくなくなりました。おそらく、さげすまれることもなくないでしょう。しかしそれは、世の中が多様性を認める寛容さを持ったからではなく、感覚が麻痺してきているのです。このようなダビデのふたりの子どもに対する主の扱いを見ても、人が刈り取るべきことと、神の祝福そのものとの違いがわかるのではないでしょうか。単に御利益を求めて命乞いをしても聞き届けられることはないのです。

 この後、ダビデにはさらにつらい出来事がありました。息子アムノンが、娘タマルに恋して辱めるというとんでもない事件です。(Ⅱサムエル13:1~21)メフィボシェテのお話のときに、「キリストにある王の食卓」のすばらしさを語りましたが、雛形である「ダビデの王の食卓」連なっていた子どもたちの実際はこういう側面もあったのだという事実を正視する必要があるでしょう。
 この事件がダビデに与えたダメージは相当なものだったでしょう。加害者も被害者もともに大事な自分の子どもです。しかも、父であるダビデはアムノンの仮病を見破れなかったばかりか、彼の願いをそのまま聞き入れ、自分の命令でタマルを世話につかせたのです。ずる賢いヨナダブという友人でさえ、アムノンの様子がおかしいことに気がついたのです。ところが、ダビデは気づきませんでした。ダビデの家族には、親密な交わりがなかったということです。ここに大きな問題の根があります。
 欲望にかられて身勝手な思いを遂げる。これは、かつてダビデがバテ・シェバにしたことと同じです。しかも被害者はよその娘ではなく、可愛いわが子です。娘タマルは辱めを受け激しく傷つきましたが、娘の傷は、ダビデの心をも同じようにえぐりました。それは、まさに自分がウリヤに対してしたことの報いでした。

 次にダビデを襲った不幸は、子どもたちどうしの兄弟での殺し合いです。(Ⅱサムエル13:23~37)
 先の事件の被害者タマルの兄であるアブシャロムが加害者アムノンを殺すというものでした。アブシャロムは同じ母から生まれた妹タマルへの思いの深さ故にアムノンを許すことができませんでした。アブシャロムは機会をうかがいつつ2年間は沈黙し、ついにアムノンを殺しました。その際、アブシャロムはダビデも招待していましたが、ダビデは行きたがらず、アムノンの参加にも多少問題を感じながら、認めてしまいます。
 これらの一連の出来事に対してのダビデの態度は、全く煮え切らないものでした。自分の犯した罪を痛烈に思い知らされていただけに、子どもたちに対して毅然とした態度を保つ事が出来ず、適切な戒めや指導が出来なかったのです。(Ⅱサムエル13:20~22)(23~27)
 もしダビデが、アムノンやタマルに対して、きちんと納得のいく裁定をくだしていたなら、またアブシャロムの働きかけに対して、きちんと出向いて思いを伝えていたなら、いくつかの不幸は回避できたかも知れません。ところが、ダビデは心を痛めるだけで全く何も出来ませんでした。(Ⅱサムエル13:37~39)逆に言えば、それが出来ないほどダビデのダメージは深かったとも言えます。
 やがてアブシャロムは反旗を翻しました。ダビデはアブシャロムとの直接対決を避けて、逃げて行きます。息子を討つ気力はダビデにはありませんでした。それは勝てるとか、勝てないとかの力関係ではありません。それは愛ゆえ葛藤です。ダビデはアブシャロムを愛していたのです。
 3年間ゲシュルに逃げていたアブシャロムをエルサレムに連れ戻しはしますが、決して彼の顔を見ようとはしませんでした。アブシャロムの気持ちは、次第に父ダビデから離れ、屈折していったことに違いありません。ダビデの心情ばかりにスポットがあたりますが、アブシャロムも相当辛かったでしょう。この苦しみの中で、彼の心はどんどん屈折していくのです。ある日、アブシャロムは自分の親衛隊を作ります。さらに、不満があって、王に訴えようとする人々をつかまえて、門前でつかまえて「あなたの言い分はわかる。私が王ならあなたを弁護する……」と味方をするのです。 アブシャロムは、このようにことば巧みに「心を盗んで」いきます。アブシャロムがダビデに反旗を翻したのはヘブロンです。かつてダビデがユダの王として君臨していた町。アブシャロムはこのヘブロンの生まれたのです。ダビデはヘブロンを捨ててエルサレムに移ったので、ヘブロンの人々にしてみれば、ダビデ王に見捨てられたという思いもあったかも知れません。そのような心理を利用したとしたのかも知れません。アブシャロムは、蜂起するに当ってイスラエル全部族に使いを送り、「アブシャロムがヘブロンで王となった」と言わせました。ろくな通信手段のない時代です。この蜂起を全国に一斉に知らしめ、全イスラエルの人々を動かそうとした方法は実に効果的でした。全イスラエルの心が、アブシャロムに移り始めます。さらに、ダビデの参謀であったアヒトフェルという人を自分のもとに迎え入れました。このアヒトフェルの裏切りは、ダビデのダメージを決定的にします。その発言力はものすごい影響力があったようです。(Ⅱサムエル16:23)このアフィトフェルという人物、実はバテシェバの祖父にあたるのです。これも皮肉です。孫娘を手込めにしたダビデに対する複雑な感情がアブシャロムと共鳴したに違いありません。アフィトフェルによる裏切りはイエスとユダとの関係と重なります。

 さて、ダビデはどうしたでしょう。(Ⅱサムエル15:13~18)まさか、 息子が反旗を翻し、父である自分に刃を向くなどとは思いもしなかったでしょう。さらに。すでに多くの人々の心がアブシャロムに傾くなんて想像もしていなかったでしょう。いろいろな思いがダビデの心を去来したに違いありません。 
 ダビデは、「直ちに逃げる」という決断をしました。それは、身の安全のためだけではありませんでした。そうしなければ、アブシャロムは間違いなくエルサレムを討つでしょう。エルサレムは特別な場所です。神の箱を迎え入れて、主なる神様の都としたのです。エルサレムを息子との闘いで破壊することは出来ないと考えました。ほとんどダビデはいいとこなしですが、流石にポイントは押さえています。ダビデがこの苦しみの中で学んだ信仰告白が輝いています。
 「神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は私を連れ戻してくださる。もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうかこの私に主が良いと思われることをしてください」」(Ⅱサムエル15:25~26)すべての決定は主の御手にある。あらゆることは主の御心次第だというのです。事を決するのは、アブシャロムの武力でも、アヒトフェルのはかりごとでもなく、自分の力でも、そして信仰でさえない。ただ主の御心がなるというのです。これは、諦めから来る投げやりなことばではありません。主は最善のことをされる。その恵みに自分が預かることが出来たなら・・・という追い詰められたダビデにとってギリギリの告白です。レビ人たちは神の箱を逃げるダビデを追うように移動させて来ましたが、ダビデは途中でそれを改め、エルサレムに戻すように命じています。王座に復権できなくても、エルサレムに帰れなくてもそれもまた良し。主がそのように導かれたのだからということです。「ただそれでも、主の憐れみにあずかることができますように・・・・」と、神の御人格に寄りかかっているのです。

 これから紹介するいくつかの詩編は、ダビデがまさにこの苦しみのただ中で記したものでしょう。ダビデの苦しみの中での心の叫びは、神の御前で昇華され、イエスの地上での苦しみと重なって眩しく輝いているのがわかります。(詩編31:9~13)(詩編55:12~15)(詩編88:13~18)(詩編3編)
 これを読むと、主がただいたずらに人に苦しみを与える御方ではないことがよくわかります。罪の刈り取りというのは、単なる罰ゲームではありません。神は私たちの愚かさや失敗さえも、さらに質の高いものに変えてくださるのです。