2009年8月31日月曜日

8月30日 ダビデとメフィボシェテ (ダビデの生涯と詩編 8 )

 ダビデは傑出した戦士であり、優秀な王でした。しかし、古今東西の歴史をひもとけば、ダビデと同じように、運動能力や戦略に長けた戦の天才や、偉大な戦績を持つ英雄は他にも何人かいるでしょう。ところが、今回取り上げるエピソードを持っているような人物は極めて稀です。どのような記録を引っ張り出しても、このような例は他に見つからないのではないかと思います。ちょっと勿体ぶった前振りをしましたが、それは何かと言いますと、敵であったサウルの家の者に施した恵みについてのエピソードです。(Ⅱサムエル9章)

 王権を勝ち取った者が、自分の命や地位を狙う可能性のある血筋の者を生かしておいたり、親切に扱ったりすることは、まずあり得ないことです。当時のパレスチナでも、戦いに敗れた国の王たちは殺してさえもらえず、手足の親指を切り取られて、奴隷以下の扱いを受けることも珍しくはなかったようです。(士師1:6~7)

 ダビデのはからいで特別な恩恵を受けるのは、メフィボシェテという人物です。メフィボシェテは、サウルの孫にあたります。あのヨナタンの息子です。ぺリシテ人との激しい戦いの中で、サウル王とヨナタンら3人の息子は戦死したとき、メフィボシェテはまだ5歳でした。サウル王とヨナタンら3人の息子の悲報を聞いて、乳母はメフィボシェテを抱きかかえて逃げたのですが、あまりに急いでいたため、乳母はメフィボシェテを落としてしまいました。そのせいで、メフィボシェテは、両足ともなってしまったのです。(Ⅱサムエル4:4)

 以前に詳しくお話しましたが、サウル王が死んだ後、サウル家とダビデ家の間には争いが続きました。サウルの将軍アブネルは、サウル家の王位継承権を持つイシュ・ボシェテによる傀儡政権を立て、ダビデに対抗しようとしますが、イシュ・ボシェテがサウルのそばめのこと疑いをかけたことをきっかけに、アブネルはイシュ・ボシェテを見限って、ダビデの側につこうと交渉に出ます。アブネルに見放されたイシュ・ボシェテは拠り所を失います。そのアブネルがダビデの将軍ヨアブの手にかかって殺され、ますます気力を失います。そんな失意の中、昼寝をしているときに、しもべに下腹を突かれて暗殺されてしまいました。

 イシュ・ボシェテが死んでしまえば、次の王にはヨナタンの息子メフィボシェテがしかいないわけですが、彼は足なえだったので、はじめから候補者にさえなりません。それでも、サウルの直系ですから、ダビデ王権のもとではいのちの危険がついてまわります。メフィボシェテがエルサレムから離れたところに移り住んだのは、エルサレムに近いところにいたのではダビデの陣営の者に殺されるかもしれないと恐れていたからです。
 
 このように、サウル家とダビデ家の間には長年にわたって争いがあり、大きな遺恨を残していましたが、ダビデにはメフィボシェテが知らない2つの誓いがあったのです。それは、「サウルの子孫を絶たず、サウルの名を根絶やしにしない」(Ⅰサムエル24::21~22)という誓いと、「たとい、ヨナタンが死ぬようなことがあっても、恵みをとこしえにヨナタンの家から絶たない」(Ⅰサムエル20:12~14)というものです。

 ダビデはこの2つの誓いを決して忘れてはいませんでした。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」(Ⅱサムエル記9:1)とダビデは言っています。そして、そのことば通り、ダビデ王は実際に使いを送り、メフィボシェテを王宮に呼び寄せました。メフィボシェテは、ダビデ王の前に出るとき、死を覚悟してひれ伏しました。「あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい」という王の言葉を聞いたとき、耳を疑ったことでしょう。

 この時の「恐れ」は、罪人が神の前に引き出されるときの心情に似ています。人が神を意識するとき、感じるのは「恐れ」です。なぜなら、私たちは生まれながらにアダムの罪を受け継いで神に敵対しているからです。私たちは一人の人アダムのせいで神に敵対する者として生まれましたが、一人の義人イエスの契約のゆえに罰を免れ、神との和解を受け継ぐ者となれるのです。ダビデとメフィボシェテの関係は、「神と人との関係」の美しいモデルとなっていることがわかります。確かにメフィボシェテは生まれながらに、怒りや呪いを引き継ぐサウルの孫でしたが、同時にダビデとの契約によって祝福を獲得したヨナタンの子でもあったのです。ですから、このメフィボシェテに対する恩寵は、ダビデの特別な慈悲深さを示すエピソードでを越えて、私たちが受けている救いや恩寵の一側面を見事に映した雛型となっています。したがって、この箇所から私たちが受け取るべき霊的なメッセージは、「神の取り扱い」ということです。ダビデの慈悲深さから道徳を抽出することではありません。

 メフィボシェテは「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか」とダビデ王に感謝ししています。「死んだ犬」とは自分の身体の障害を強く意識した表現です。当時、障害者は宮にさえ入ることが許されていなかったので、メフィボシェテはよりいっそう強く自分の無価値を思い知らされていたはずです。(Ⅱサムエル5:8) 

 言い換えれば、「ダビデの恩恵を受けても何かをお返し出来る可能性がまるでない」とう告白でもあります。この神に対する「敵対」そして神の前における「無価値」は、私たちが救われる前の霊的な姿です。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・・・生まれながらに御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:1~3)とパウロは言っています。さらに、「・・・あなたがたが救われたのはただ恵みによる・・・天のところに座らせてくださった・・・・行いによるのではありません・・・・」(エペソ2:5~9) これらのことばは、まるでメフィボシェテのエピソードを解説しているようです。

 ダビデがメフィボシェテに恵みを施したのは、勿論ヨナタンとの契約があったからです。しかし、ダビデの施した恵みは、その誓い以上のものでした。社会的には無価値であるどころか、お荷物であるとみなされていた者、しかも敵の血筋の者を「王の息子のひとりのように」扱い、王の食卓につかせ、まるで息子のひとりであるかのように扱ったのです。しかも、サウルの地所をすべてメフィボシェテに返したのだから、本当に驚くばかりです。血筋を絶やさないようにいのちを守るのと、「王の息子のひとりのように扱う」のとでは全く次元が違います。ダビデはメフィボシェテを、自分の子どものように受け入れたのです。

 キリストの救いとは、本来殺されるべき私たちが、神の子どもとされることですが、そんな私たちが神に対して何かお返しすることが出来るでしょうか。何も出来ません。私たちは全く受ける資格のない祝福を一方的に受けているのです。これを「恵み」と言うのです。メフィボシェテの受けている祝福は、メフィボシェテの資質や経験には一切関係のない「恵み」です。彼の過去を評価したわけでもなければ、未来に期待しているわけでもありません。何しろ「死んだ犬」ですから。死んだ犬はペットにさえする者はいません。繰り返し言いますが、血統書付きの訓練された犬ではありません。死んだ犬です。それをペットではなく、子どもにしようというのですから、神様は変わり者です。しかし、それが神の愛であり、神の方法なのです。

 ダビデは、自分自身が神からどのように扱われ、自分が何者であるかをよくわきまえていました。ダビデは、人の前に王であり勇士であっても、神の前には自分も「死んだ犬のような者」であることを知っていました。ダビデは、神がやがて登場するキリストの故に自分を特別に取り扱われるのだということを知っていました。それと同じように、ヨナタンの故にメフィボシェテを最大限の恵みによって取り扱ったのです。ダビデの祈りを見ればそれが感じられます(Ⅱサムエル7:18~29)

 このように、原則はけっこう単純ですが、人を取り巻く背景や感情は複雑です。よく考えてみてください。メフィボシェテは世が世なら王になっている血筋に生まれました。サウルの直系ですから、顔も二枚目だったでしょう。ところが、たまたま親が戦いに敗れたためにいのちは危険にさらされ、さらにたまたま乳母の不注意によって障害者となってしまったのです。王家の血筋に生まれたことがよけい彼の心情をかき乱すわけです。このような経歴を持つ人は、屈折したプライドを持ち、不遇を嘆くことが多いのですが、メフィボシェテはそうではなく、自分の現実を真っ直ぐに見つめ、ダビデの恩寵も素直に受け入れています。この姿勢は大事です。「信仰」というのは、実は特別なことがらではなく、「神が示された事実をそのまま受け入れること」なのです。

 この後に、同じような申し出を無効にしてしまうアモン人ハヌンの例があるので、比較してみるとよくわかります。(Ⅱサムエル10)メフィボシェテは王の子どもとして扱われたのです。「メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした」(Ⅱサムエル9:13)です。食事は毎日のことです。日々、王の食卓に預かること。メフィボシェテはそれを味わったのです。交わりを楽しんだのです。決して卑屈な気持ちで食卓についていたわけではないと思います。

 そんなメフィボシェテにいのちの危機が訪れます。祖父サウルの罪のために、ギブオン人へのサウルの子どもたちが引き渡されることとなったからです。しかし、「ダビデは、メフィボシェテを差し出すことを惜しんだ」と書いてあります。(Ⅱサムエル21:7)ダビデはメフィボシェテを引き渡しませんでした。ダビデは最後まで、ヨナタンとの誓いを守ったのです。

 このように考えてくると、「恵み」を施すダビデにも、「恵み」を受けるメフィボシェテにも、それぞれに乗り越えねばならない「壁」があることがわかります。ふたりが織りなした美しいキリストの絵は、ともに信仰によってそれぞれの「壁」を乗り越えたからこそのものであると私は感じています。「恵み」を施す立場にあったダビデも、「恵み」を受ける側にあったメフィボシェテも、さらに大きな「神の恵み」に抱かれています。この世における社会的地位や能力の違いは、ある意味歴然としていて、その立場によるすれ違いもあれば、力の差による評価にも段階があるでしょう。しかし、ダビデとメフィボシェテの父ヨナタンが敵対する立場にありながら、信仰によって結ばれていたように、そのような困難な状況の中で生き続ける契約と、それを受け入れる信仰が、最終的には勝利につながるのです。「それぞれの立ち位置から見えるキリスト」を仰ぐことが大事だと言えます。

 メフィボシェテが、ダビデ由来の祝福とサウル由来の苦しみの間を往き来したように、私たちもまたキリストに贖われ、子どもとされていても、アダム由来の罪に苦しみ、老いや病や怪我や障害や、さまざまな葛藤の中で苦しみながら死を迎えます。このからだが完全な死を通して贖われる日まで、その戦いは続きます。変わることのない圧倒的な勝利は得ていますが、劣勢に見えることもしばしばです。

 神は、私たちをいたずらに苦しめたり、死に至る悩みを経験させようとはされません。激しい愛と痛みをもって見守ってくださっています。その愛なる神の張り裂けんばかりの胸の内は、狂気のような母の愛として表現されています。(Ⅱサムエル21:10~14)。彼女は自分の息子たちのために、その亡骸が骨になるまで、鳥や獣に近寄らせないように、岩の上に荒布を敷いて座り続けたと書いてあります。(Ⅱサムエル21:10)聖書は感情表現や細かい描写を殺して、事実を淡々と書いています。しかし、この母の愛の迫力は、ものすごいものがあります。このリッパの愛は誰が与えるのですか。神です。神はこのリッパ以上の愛で、敗者や罪人の最期をご覧になっているのだと理解してください。

 さらに、メフィボシェテにはミカという息子がおり、ヨナタンの家はこの後も長く続いたことが系図として残っています。(Ⅰ歴代誌8:34~40)これも、また素晴らしい記録です。メフィボシェテという名前は「恥を一掃する者」という意味です。ダビデは、その名前のとおり、ヨナタンのゆえに、メフィボシェテによって、サウル家の「恥を一掃」しようとしたのです。

 神はご自身の愛によっても、決して義を曲げることは出来ません。ここに痛みがあり、苦しみがあり、悲しみがあり、死があり、十字架があります。しかし、すべての痛み、苦しみ、悲しみは、新しいいのちが産み出される大きな喜びに変わります。イエスはそれらすべてを打ち破ってよみがえられたからです。