2009年8月5日水曜日

8月1日 メッセージのポイント

バプテスマについて(特別メッセージ Live in 北見)

 今回は3人の姉妹たちの洗礼式のために私がわざわざやって来たかと言うと、私はそこに大きな意義を感じているからです。

 私も3人の姉妹たちのことを第三者に詳しく紹介できるほど知っているわけではありません。しかし、前回お会いした印象や証の内容からはっきりわかることは、「イエスに対する信仰があるということ」、そして「洗礼を受けたいと願っておられるということ」です。
 「現地のどこかの教会に任せておく」という方法もあるでしょうし、一番良さそうな集まりとつながりを作ることの方が大事ではないかとお考えの方もきっとおられると思いますが、私は全くそうは思いませんでした。
 今後3人の方にどのようなかたちの導きがあるにせよ、そこに私が干渉する気は全くありません。しかし、現時点において、既存のキリスト教会に通う人たちが度肝を抜かれるような救いやいのちの成長があるのだということを発信することに大きな意義を感じています。
 まさに、使徒の働きの時代のように、通りがかりのクリスチャンが「イエスについて」解き明かし、水のあるところで、信仰をもった人の希望に従って洗礼を施すというこのシンプルで原初的な救いの事実を作るようにと導かれていると私は感じています。そのためにやって来ました。

 明日の洗礼に先立って、聖書の中から洗礼、即ち、バプテスマについてともに学びましょう。
 まず使徒時代のバプテスマの記事を見てみましょう。
 約2000年前、ピリポはエチオピヤ人の宦官に洗礼を授けるために、主の命を受けました。彼は「立って南へ行け」と言われたのですが、私の場合は「北へ行け」という感じです。(使徒8:26~40)

 このエチオピヤ人の宦官とピリポとのやりとりからバプテスマに関する非常に大事な教訓をいくつも読み取ることが出来ます。導かれる側と導く側の作法を学びたいと思います。まず、宦官はみことばを知りたいと願っていました。しかも、その霊的なポイントは非常に良かった。見事に的を射た興味と疑問を持っています。(使徒8:32~33)そして、ピリポにはみことばに基づいてイエスのことを正確に解き明かす力があるということです。(使徒8:35)

 宦官はピリポにみことばの解き明かしと洗礼を求めています。それは、「道を進んでいくうちに」ということですから、短時間での即断即決です。その間、ピリポが勧めたり押しつけたりした形跡はいっさいありません。勿論、このバプテスマは、何かの制度や形式に則ったわけではなく、ただ双方の信仰による確信に基づいて、一切のこの世の権威や組織と関係なく行われています。
 「ピリポも宦官も水の中へ降りて行き」(使徒8:38)と書いてあるので、ここで行われたバプテスマは、その意味から考えても水を頭にかける「滴礼」ではなく、体全体を水に沈める「浸礼」だったと考えられます。洗礼を意味するギリシャ語は、「浸す」という意味だし、バプテスマ後から見る雛型としての霊的意味から考えても、水の中に完全に没することには意味があります。

 このような劇的な主のお取り扱いを経験するふたりですが、ふたりの間に人間的な強い依存関係は見受けられません、宦官がそれ以降もピリポに頼ることも、ピリポが自分の影響力を行使することもありません。もちろん、愛着や信頼はあったはずです。しかし、べったり粘着した湿った人間関係はありません。(使徒8:39~40)互いにみことばを仲立ちとし主を見つめて、相互の信頼以上に主への強い信頼の中でことを行っているのが伺えます。

 さらに、重要なポイントについて確認します。ここでのピリポのメッセージの中心は何でしょうか。「イエスのこと」です、(使徒8:35)
 聖書を読むこと、祈ること、礼拝に出席すること、献金や奉仕をすることについてですか。違いますね。洗礼準備会などと称して、くだらない教理を確認していますか。答えは勿論NOです。ピリポが語ったのは、あくまでも「イエスのこと」です。イザヤ53章からイエスの苦難と人格、その人としてのみわざに着いて語り、そこからはじめてはらに「イエスのこと」を語ったのだと書いてあります。「イエスのこと」をまるで語らない、ほとんど語れない教会が何と多いことでしょう。

 あらゆる点において、このピリポと宦官の記事は理想的な洗礼を受けるモデルケースだと私は思っています。本来こうでないといけないのです。
 バプテスマが、教会という組織の仲間入りの儀式であったり、その組織における宗教的奉仕のための資格であったりすることが実際には多いのに驚きます。さらに、導いたり、洗礼を施したりした人が、いつまでも施された人の信仰や人生に口を挟んだりすることも普通に行われていると思いますが、人を操る権利は誰にもないし、操られることを良しとする義務もありません。キリストの奴隷となっても、組織の奴隷や人の奴隷になってはいけません。

 一般的にバプテスマという表現はポピュラーではありませんが、「洗礼」ということばは、比喩として誰でも普通に使います。たいていは、「生涯に一度だけの儀式であること」から転じて、初体験、とりわけ「人生において一度だけ経験せねばならぬ、ほぼ一方的に他者からもたらされる、大きな体験」などの場合にととえて使われます。特に「ワンランク高いところの厳しさを味わうことによって、結果的にステップアップする」というような意味でよく使われています。「○○選手も、初登板でホームランを打たれ、メジャーの洗礼を受けました」など。
 信仰においても、「洗礼」という通過儀礼を経て、ステップアップしていくようなイメージを持っている人がおられますが、それは全く間違っています。
 もうひとつ面白いのは、教会に通い始めた家族を見つめるまなざしです。「別に教会に通うぐらいかまわないが、洗礼は受けてはいかん」というのを結構聞きます。これは、洗礼を通過すると、一線を越えてしまう。得体の知れないものとひとつになってしまうという感覚でしょうね。これは、ある意味当たってます。
 ローマ6章の前半はバプテスマについてパウロが語った箇所です。(ローマ6:1~10)、パウロが言っていることを整理してみると、まず、バプテスマは、「キリストにつく」という意味があり、それは「キリストの死にあずかる」ということです。
 水に完全に没することは、「私たちがキリストとともに葬られたこと」であり、水からあがったということは「新しい歩みがそこから始まるのだ」ということです。ここで注目すべきことは、「もし私たちがキリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら」(ローマ6:5)また、「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば」(ローマ6:8)というふたつの条件節です。

 もう少し丁寧に解説するとこういうことになります。
 神は私たちがみことばに従い水に没したことによって、「キリストとともに死んだものと見なした」のです。しかし、私たちが水に没したことをそのように見なさないなら、神が見なしたことは無効になってしまうということです。
 死んだ者は、罪や誘惑に関して一切の反応を失います。しかし、実際の私たちは罪を犯したくなくても罪を犯してしまう弱さを持っています。水から上がっても罪を犯します。だから、たとえ現実がどうであったとしても、「もう死んでいるはずの私のしたことは幽霊の屁みたいなものだから気になどするな」と書かれているのです。このあたりの葛藤と苦悩は、7章に詳しく書かれているとおりです。(ローマ7:7~25)

 パウロは、正確にはこういう表現を使っています。「このように、あなたがたも、自分は罪に対して、死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい」(ローマ6:11)
 パウロの言い回しを読めば誰でもすぐにわかりますが、これらのメッセージはバプテスマをこれから受ける人たちに対してではなく、すでに受けた人たちへのメッセージです。(ローマ6:3)つまり、バプテスマを受けたのに、その意味を正しく理解していない信者が多かったということです。
 ですから、再度確認します。水に没したことは、罪TO

 ペテロによれば、「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」(Ⅰペテロ3:21)と語られています。 言い換えれば、バプテスマを受けても肉体は汚れたままだと言っているわけです。「正しい良心」の反意語として「邪悪な良心」ということばがあります。(ヘブル10:22)「邪悪な良心」とは、簡単に言えば、「自分は駄目だ」「ふさわしくない」と自分にこだわって神から遠ざかり、自分の内側をのぞき込むことです。そうではなく血の注ぎかけを受け、きよめられた心で、約束された方の真実にすがって近づく姿勢こそが、正しい良心に基づいた信仰姿勢です。(ヘブル10:19~23)

 さらに、使徒たちによるこれらのメッセージは、バプテスマの教理に関する知識理解を正すものだとは思わないでください。知識理解ではなく、「生き方」です。ペテロは「生き方」にこだわっています。(Ⅰペテロ3:2,16)「正しい良心」と「正しい生き方」には関連があるのです。もちろんこの正しさは人間から来るものではないのです。知識ではありません。信仰の基本的スタンスです。
 バプテスマの意味さえちゃんとわからずに、信じたつもり、従っているつもりでいる人たちは、自分がすでに死んだことがわかっていないので、未だに自分の性格の弱さや、罪の問題に悩んでいる。だから、約束の安息にも預かることができす、復活の力も味わえないでいると指摘しているのです。
 ですから、これからバプテスマを受ける方も、すでに受けた方も、その意味や価値を今一度かみしめて、ともに味わいたいのです。

 イエスがご自身の公生涯のはじめに受けられたバプテスマを、みなさんはどのように評価していらっしゃいますか。(マタイ3:13~17)
 ヨハネは、自分がイエスにバプテスマを授けるのは変だと感じたのです。だから、そうさせまいとしたと書いてあります。でも、あえてそうさせてくれと願われたイエスのことばに従ったのです。このことにはどのような意味があるのでしょう。

 神が私たちのバプテスマをイエスの十字架上の死と同一視することは、それ自体不可能なことです。それを可能ならしめるのは、「イエスが」罪人の代表者としての資格を得るために、「イエスが」罪人が悔い改める際に受けるバプテスマを受けてくださったからです。泥水の中で溺れている人を助けるためには、自らも泥水に飛ぶ込む必要があります。悔い改める罪を持たない聖なる御方が、悔い改めのバプテスマを受けに来られたとき、ヨハネがとまどったのは当然です。しかし、イエスの覚悟と思いに触れて、ヨハネは受け入れました。ヨハネはどれほど厳粛な気持ちでイエスにバプテスマを授けたことでしょう。

 バプテスマが私とイエスをひとつに繋いでいるのがおわかりでしょうか。それはイエスが十字架によって、アダムがもたらした罪と死を終わらせてくださり、よみがえりによって新しい聖霊のあゆみを始めてくださるということなのです。私の信仰によって受けるバプテスマが、このイエスとの一体化をもたらすものであるということを知ることほど大切なことはありません。ガラテヤ3:27には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」とあります。キリストとの一体性を、「キリストの義の衣を着ている」「贖いに包まれている」と考えるとイメージしやすいのではないでしょうか。

 イエスが水から上がられると、聖霊が目に見えるかたちでくだり、父の承認の声が聞く者の耳に聞こえました。父が喜ばれるのは、御子です。父を満足させるのは、常に御子です。御霊によって歩む御子なので。バプテスマを受けている私ではありません。従う決意をした私ではありません。そのことが分かれば、この呼びかけや承認は、神の子としての特権を得た私に対する主の呼びかけとなります。よろしいでしょうか。なぜなら、私とキリストはひとつになるからです。これは似ているようで全く違います。

 バプテスマを、父・子・聖霊の名によって授ける意味を今一度考えてみて欲しいのです。(マタイ28:18~20)