2009年7月25日土曜日

7月5日 メッセージのポイント

ひねくれ者のための聖書講座 ⑥ 悪魔

「通り魔みたいに出来るだけ多くの人を傷つけ殺したかった。」
此花区での放火殺人の犯人である高見素直という容疑者は、逃げ隠れようともせず、自ら出頭して、そのような動機を語ったと報道されています。こういう男の歪んだ欲求を満たすために、死ななければならなかったのかと思うと、お亡くなりになった方々や御遺族の方々もいたたまれないでしょう。
実は、「誰もいいから傷つけたい」という衝動や、「自分に明るい未来が期待できないので、多くの人を道連れに堕ちていこう」という破滅的な思考パターンは非常に「悪魔」的です。勿論「火をつける」という行為は、犯人自身が選んだ道ですが、「魔がさした」という表現もあるように、そこには「悪魔」が働いているのです。

「悪魔」などというと、この科学の時代に何の戯言かと思われるかもしれません。私も最初は「悪魔」の話なんて馬鹿げていると思いました。漫画のイメージが先行して、架空の存在であるという思い込みが支配していたからです。しかし、「悪魔」は実在します。それは、まさかと思うような生きものがジャングルの奥地や深海に存在するように存在するのです。人間が納得するとか、理解するとかではなく、「いるからいる」のです。創世記を読めば、「悪魔」よりも先に神が登場します。哲学者が試みるような神の存在証明など全くなく、いきなり神が世界を創造しています。しかもそれは科学者が納得のいくような記述ではありません。神話は人が作ったものですが、聖書は「神が人を作った」と言っています。「神が人を作った」という話を人が作ったのなら、神を作ったのは人です。
しかし、実際には「神が人を作ったのか、人が神を作ったのか」というのは埒の明かない議論です。論じても答えは出ないので、結局のところ、「信じるか信じないか」の話になります。私は、聖書は人が作った神話ではなく、神が与えた啓示であると信じています。「人が書いた最も真理に近い本」だとは思っていません。「神が人に与えたメッセージであり真理そのものである」と思っています。私がそれをどう感じるかより、聖書そのものが何を言っているかが大事です。理解できないところも、退屈なところも等しく大切なのです。
人は聖書と向き合うとき、個々の事実の検証を積み上げようとします。つまり、それが信じるに値するかどうかを試すのです。納得し、理解しようとするのです。それは、決して間違った態度とは言えません。ただし、その態度を貫いていると、最終的に「信じる」という結論に至ることありません。なぜかというと、神や神の言葉である聖書は、初めから「信じるべきもの」であり、そのすべてについて、納得したり、理解したりすることは出来ないのです。別に対象が神であろうとなかろうと、大事な心の問題は証明出来ません。しかし、ある段階までの納得や理解は絶対に必要です。だから、このようなもってまわった言い方で時間をさいて話しているわけです。

この問題をさらにややこしくしているのは、キリストについて教えていると思われるキリスト教がキリストについての事実を語っていないということです。これが、前にも取り上げたキリストとキリスト教の問題です。共産主義者のキリスト教解釈を支えたフォイエルバッハという哲学者は、「神学というのは人間学」だと言いました。その通りだと思います。キリスト教は人の創作であって、信じるべきものではありません。信じるべきはキリストそのものなのです。神はキリストをこの世に送りました。キリストはいのちの木へと導く門です。しかし、悪魔はキリスト教を創作しました。これは善悪の知識の木のまわりをグルグまわらせ、荒野で死なせます。

さて、創世記によれば、最初の人類であるアダムとエバのふたりは、エデンの園からは次の世代を待つことなく追放されます。その原因を作ったのが「悪魔」です。「悪魔」は蛇に化身して現れ、人間に語りかけ、ことば巧みに誘惑し、人間に「善悪」を教えます。そして、神と人との間に溝を作り、人を「自立の道」へと誘うのです。私たちは神なきエデンの東で、どこから来てどこへ行くのかを知らずに、自分が何者で何をするべきかもわからずに、さまよっているというわけです。
人は「悪」とともに「善」が何であるかを知り、神なき世界で自主独立の道を歩み、自前の能力で文明を築きあげてきたところに、すべての不幸の原因があります。人は「悪魔」のそそのかしによって、神との交わりを失ったばかりでなく、私たちをそのような不幸へと導いた超本人である悪魔への憎しみを忘れてしまいました。「悪魔」は地上の神として、私たちの肉体の世界を、この時間と空間における権限を一時的な神から委託されています。これが聖書の教えるところです。この「誘惑のくだり」は、今日のメッセージの最後にもう一度触れたいと思っています。

しかし、科学という名の近代宗教が優位を占める世界観では、神や「悪魔」を意識の中から閉め出して物事を考えます。つまり、神や「悪魔」を追い出してしまうと、残るのは宇宙や自然ということばに象徴されるエネルギー、現象、法則、そして五感でとらえられるあらゆる物体としての宇宙や自然の断片です。こうして、宇宙や自然はほとんど神と同義語になり、「悪魔」や悪魔的要素もその中にごちゃ混ぜにして織り込まれています。こうして「悪魔」は神々の一部として、善の中にもぐりこんでしまうわけです。
さらに、感覚的な一体感や恍惚感を感じれば、「人は宇宙や自然の一部である」と主張し始めます。さらに、「神々が宇宙の隅々に満ちているなら、人は神々のようになれるのではないか」という錯覚に陥るのです。汎神論をベースにした人の生み出す宗教はおおむねこうした考え方の上に成り立っています。
また、善と悪がごちゃ混ぜに織り込また世界では、完全に善である神などは元から存在しないのだから、善も悪ととも同様に価値を失い、あらゆる存在は無意味だというもうひとつの極端な考えも生まれたりします。これが無神論の世界観です。

ナルニア国物語の作者として知られるC.Sルイスは無神論について、こう述べています。「もし、全宇宙が無意味だとするなら、それが無意味であることをわれわれは絶対知り得なかったはずである。それはちょうど、宇宙に光がなかったら、したがって、目を持つ生物が一つもいなかったら、われわれはそれが暗いということを知る由もなかったであろう。と言いうるのと同じである。その場合、暗いという言葉は全く意味のない言葉となるだろう。」だから、無神論は単純だとルイスは言うのです。かく言うルイス自身はガチガチの無神論者でした。彼は宇宙を無意味だと強く感じていた、人生に光を見いだせない暗い人でした。しかし、その無意味さ、暗さを強く感じるのは、まことの意味と光があるからだとわかったのです。
文学者であるルイスは、子どもたちのための優れたファンタジーを残しました。それを、あんなクズみたいな映画にしてしまうとどうしようもありませんが、彼の残した作品はすべて聖書がベースになっているので、彼が寓話の中で意味づけしたことをきちんと聖書と照らし合わせれば、その本来の意図やメッセージを理解できます。彼の作ったお話は、信仰のある人の子どもたちや、大人になって信仰をもったかつての子どもたちのための、かなり手の込んだ贈り物なのです。
ルイスが感じたように、エデンの記憶は善悪の葛藤となって人の心を責め立てています。その葛藤から逃げずに、考えることは、信じることと対立しません。「考えないで、信じなさい」というのは、頭の悪い牧師のことばです。聖書は言います。「よく考えないので信じたのでないなら・・・」つまり「よく考えて、それから信じろ」ということです。馬鹿は何でもすぐ信じます。でも、何かあるとすぐ捨ててしまう。それは信じたことにはなりません。それは、「土の薄い岩地に落ちた種」と同じです。種まきのたとえの中で語れています。詐欺まがいのくだらない教えに騙される人は、騙されていたことに気づいて被害者面をすると、いっそう馬鹿に見えます。しっかり考えないから信じてしまうのです。簡単に信じたりしないでよく考えてください。よく考えて「信じるしかない」と思えば、信じたものを失ったりしません。

神と悪魔に関する考えた方はいろいろありますが、悪は善の対立概念ではあり得ません。なぜなら、善はそれ自体が善であるがゆえに希求できるが、悪はそれがどこまでも悪であるという理由だけでは悪ではありえないのです。悪は単独で悪ではありえず、悪の本質は、善なるものを間違った方法で獲得しようとするところにあります。つまり悪とは動機や手続き上の問題であり、要するに「歪んだ善」「腐った善」とでも言うべきものだからです。実は、私はあるとき、そのことにはっきり気づかされました。この点についても、ルイスが物凄く面白い表現を使っています。「悪は寄生虫であって、原初的なものではない。悪が活動を継続できるのは、善から与えられた力のおかげである。悪人が効果的に悪を発揮することを可能ならしめているのはすべて、-たとえば、決断力、聡明さ、美貌、存在そのものといったように-それ自体は、善きものなのである」

 私が「ひねくれ者のための聖書講座」をやろうと思った理由は、まず私自身が相当ひねくれていたからです。正式なタイトルは「ひねくれ者によるひねくれ者のための聖書講座」です。キャッチコピーは、「ひねくれていない人は聴かないでください」です。今日はルイスのことばを引用しましたが、私はルイスの著作には本当に慰められたのです。ルイスは私に負けず劣らずひねくれ者だったからです。そのもってまわった言い回しや見事な比喩がかなりフィットしました。他にもパスカルやピカートやヒルティがお気に入りでした。私は昔も今も感情を鼓舞するような信仰書は大嫌いです。もう少し、私自身の話をさせてください。私は、はじめから信じたくてキリストを信じたわけではありません。神になんぞ救ってもらいなんて思ったことはないし、世界が神の救いによってフラットになるなんて、考えただけでもゾッとしたくらいです。十字架にかかって愛を示すなんて、自虐的で狂気じみた手段だと思いました。また、自分が十字架にかかる演出のために弟子の誰かが裏切るようなシナリオはセンスが悪いというかタチが悪いというか、どうにも馴染めませんでした。 しかし、一方で「神は不正かも知れない」という疑念をいだくほどの、かなりレベルの高い公正さをはかる物差しが私自身の心の中にあることを知っていました。しかも、そのような公正さを実現する力は自分にはありません。しかし、神なら公正たれという思いは強くありました。「世界を創った、治める、さばく」というのなら、きちんとやってくれ、やるべきだろうと強く思っていたわけです。
はじめて旧約聖書を読んだとき、そのシンプルすぎる記述の内容の重みに圧倒されました。特に、創世記の冒頭の数章の乱暴さには絶句しましたが、読み進んでアブラハムのあたりまで来ると、少しずつ印象が変わってきました。先程言った「神は公正であるべきだ」という訴えに関して、私よりすでに何千年も前に、アブラハムがきちんと神に直談判する場面が、かなり詳細に描かれていたからです。そのくだりを読んだときに、私の心の霧がすっと晴れたのを感じました。それは本当に驚くような内容です。(創世記18:16~23)神がソドムとゴモラを滅ぼす前に、アブラハムにそのことを知らせます。すると、アブラハム身内のロトとその家族を救うため、神にとりなします。「世界をさばく御方は公儀を行うべきではありませんか」という言い分です。つまり、良い人と悪い人の住んでいる町を丸ごと滅ぼすような乱暴なやり方は神にふさわしくないと意見したわけです。では、その町に正しい人が何人いるだろうとアブラハムは考え、具体的な数の交渉に入っていくのです。
ここで、アブラハムの持っている正義感は公正さの基準はどこからやってきたのだろうと思ったわけです。神はアブラハムにとりなさせることによって、義と愛を教えたかったのではないかと悟ったのです。そして、この記事を読んだ者にも、アブラハムのようであることを願っておられるのだとわかりました。私たちに残されている良心のもっともピュアな部分は、非常に神の思いに近いものです。逆にだからこそ、私たちは、その良心がきよめられなければ、善悪の葛藤に苦しみ続けるのだということも見えたのです。

最後に誘惑の場面に戻ります。(創世記3:1~7)結局、悪魔のまどわしのパターンは決まっています。まず、悪魔は神のことばを語るということです。神のことばをそのまま繰り返して、それは本当かと考えさせるのです。(1)第2に、人間の欲望や願いをくみ取って、そこに彼自身の思いを混ぜます。(2~3)神の人格に対する信頼を揺るがせ、神のことばの正反対の結果に導きます。(4~5)
人は、私たちの五感に訴えかけてくるものを神のことば以上にリアルに感じてしまいます。それは神がそのようなバランスで私たちに感覚をお与えになったからです。神のことばそのものが、神への人格への信頼抜きにして、それ自体が官能的であったり、拒絶するすべを持たずに暴力的にコントロールするものであるとすれば、人間ははじめから神の奴隷かロボットです。神と交わり、神の人格を味わい、神に信頼していきていくものとして与えられた神のかたちに対して、あなたも善悪を知って目を開かれれば神のようになれるとそそのかすのです。「悪魔」は、蛇に化身して語りかけ、自分の本来の姿を示しません。使っているのは神のことばです。鍵は神のことばをどう解釈するかというよびかけなのです。キーワードは、「目が開かれる」「神のようになる」「善悪を知る」です。確かに人は目が開かれ、善とともに悪を知りました。自分の中にある明らかな悪と、果たし得ない遠いところにある善を知ったのです。そこで、腰におおいを作り、神から隠れました。神のようにはなれませんでした。

「悪魔」は、今日も同じやり方で、人をいざないます。イエスは「悪魔」を「偽りの父」と呼びました。「・・・・なぜなら、彼は偽り者であり、偽りの父であるからです・・・・」(ヨハネ8:43~47)