ルカ24:13~35
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえらえたこと、またケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」(Ⅰコリント15:2~5)
パウロは、十字架の死と三日目のよみがえりの事実こそが福音の中心であり、それらは、すべて「聖書の記述通りである」ということが大事なのだと強調しています。
イエスさまのよみがえりは、週のはじめの日のことでした。
その日の夕方、ふたりの弟子がエルサレムからエマオへ向かっていました。クレオパという弟子ともうひとりの人です。このクレオパという人物に関してですが、イエスさまの十字架の傍らにいた女たちの中にクロパの妻でマリヤという人がいた(ヨハネ19:25)とヨハネは記しています。このクロパがクレオパと同一人物だとすると、もうひとりは妻のマリヤだというこうことになり、いろんな点で辻褄はあってきます。いずれにしても、この記事は偉大な復活を遂げられたイエスさまが、エルサレムからの帰路に着くたったふたりの人のために現れてくださったことをルカが書き留めたものです。
彼らはふたりともイエスさまの弟子で、その道すがら十字架とよみがえりについて語り合っていたのです。ふたりは、「何の話をしているのか」というイエスさまの質問に対して暗い顔つきになっています。また、その後の受け答えを見ても、イエスさまの死を深く悲しんでいたことがわかります。
彼らは、「イエスは行いにもことばにも力のある預言者だと信じていたこと」そして、「イスラエルの解放者として望みをかけていた」ということ告白しています。しかしそれはもう過ぎ去ったことであり、むなしい期待であり、かなわぬ望みであったと報告しています。よみがえりのうわさについても、「・・・と言うのです。」(ルカ24:23,24)というように、どちらかと言えば、事実ではない誤った情報として聞き流している印象を受けます。ここでクレオパたちが語っている内容は、十字架と復活に関する一般的な理解です。復活という事実ではなく、「そういうふうに言われている」という事実です。
この世は福音を聞き流しています。復活などあり得ないと思っているからです。復活を信じている人たちがいることを了解はしていますが、自らそれを信じようとはしないのです。正しい人が十字架に架けられて殺されることは、ほとんどありませんがおこりうることです。しかし、完全に死んだ人が、葬られてから三日目によみがえるなどということは、絶対にあり得ないことです。だから、多くの人々は福音を聞き流すのであり、信仰を自称する人たちも、先に語った大事なことがすっぽり抜け落ちた道徳や文化として伝承してきたのです。
しかし、誰が信じようが信じまいが、復活は事実です。多くの人が信じたから嘘が本当になるわけでもないし、多くの人が信じなかったから本当が嘘になるわけでもありません。
イエスさまは復活され、信じる者も復活するのです。
半信半疑の弟子たちの前に、突如よみがえられた姿で現れることは、問答無用で圧倒的な力業です。しかし、イエスさまはそういう押しつけはされません。
まず、空の墓をお見せになり、御使いたちにメッセージを与えました。嘆き悲しむ女たちの前に静かに現われ、やさしくその名を呼ばれました。
今回も主は、前からお越しになるのでも、上からお越しになるのでもなく、ふたりの進むのと同じ向きに同じスピードで同じ歩幅で歩まれました。彼らが暗い顔つきになって立ち止まったとき、イエスさまもまた同じように立ち止まられたのです。そして、「歩きながら、ふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」(ルカ24:17)と控えめに質問されました。
主は、私たちにおたずねになります。もちろんイエスさまは、ふたりがご自分のことについて話し合っているのを知っておられました。知っていて、お尋ねになります。「何を見ているのか。」「何を話しているのか。」と。主は私たちの心の中にあるものを出させます。そして、私たちの信仰を問われます。私たちは何を信じ、何を疑っているのでしょう。
イエスさまは言われました。
「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24:25~26)
そこで、みことばです。みことばの預言、そしてその成就は、よみがえらえたイエスさまとお会いしたこと以上に重要なのです。イエスさまは、「ほら、私はよみがえってこうしてここにいるではありませんか」とは言われなかったのです。ご自身を示さず、聖書に注目させました。聖書はイエスさまについて書かれています。(ヨハネ5:39~40)
よみがえったイエスさまが、ご自身のよみがえりの事実以上にみことばの権威を重んじられたことは、どれほど強調しても足りないぐらいです。ここに書かれている聖書とは旧約聖書のことです。そして、その範囲はモーセの五書を含む、あらゆる預言者の書です。聖書の一部ではなく、聖書全体から解き明かされたのです。キーワードはイエスさまです。ご自分についてかいてある事柄を解き明かされたのです。旧約聖書からイエスを見つけ出すこと、これが正しい読み方、味わい方です。イエスさまを見出すことがいのちを見出すことなのです。
さらに、クレオパたちがよみがえったイエスさまを見ているときには、それがイエスさまだとわからず、それがイエスさまだとわかったときには、イエスさまのお姿は見えなくなったというのも、象徴的です。
これらのことを考えるとき、多くの人たちが語るふしぎな体験や幻は、その信憑性が怪しくなってきます。私は大まかに言って、その半分は本人の思いこみであり、もう半分は本当に見聞きしたのだと思います。しかし、本当に見聞きしたものの、その出所は怪しいと考えています。サタンも光の御使いを装うと書かれています。
そういう特別な経験をした人たちは、イエスさまが夢枕に現れて何やらを指示したとか、自分の行く道に黄金の十字架が見えて、人生の選択がわかったとか言います。こういうことを主張する人たちは、「みことばを見る限り、そういう導きはありそうもないですよ」と、誰かから正しい忠告を受けたとしても、まず、聞く耳を持ちません。
あるいは、聖書全体のバランスや調和を無視して、みことばが与えられたと強調します。こうなるとどうしようもないです。
ペテロはキリストの威光の目撃者であり、天からの声も直接聞いています。しかし、そのような体験にもましてみことばが大切だと言っています。みことばを重んじるに当たっては、私的解釈や曲解は禁物だと言っています。(Ⅱペテロ1:16~21)
このとき、イエスさまがクレオパたちにときあかされたメッセージが、ペテロ(使徒2:22~36)やピリポ(使徒8:26~35)メッセージの原型になっているはずです。いずれもメッセージのポイントはイエスさまです。
はじめ、ふたりの目はさえぎられていました。(ルカ24:16)後に、彼らの目は開かれました。(ルカ24:31)
彼らの目を開いたのは主です。そして、人は目が開かれなければ、主を見ることはありません。目を開かせた鍵は、みことばです。いのちのことばの中に人となられたイエスさまを発見したときに、目が開かれるのです。目が開かれたのは、イエスさまがパンを取って祝福し、裂いて彼らにわたした瞬間でした。イエスさまは私たちの外側には、もう見えません。よみがえらえた主は、私たちの内なる方として、私たち自身のただ中におられ、私たちを内側から満たしてくださるのです。
十字架に架かられたのは、パンが裂かれるためです。パンは裂かれることにより私たちの口に入る大きさになりました。それが、私たちの手に渡り、私たちはそれをいただくとき、私たちは生きるのです。パンはイエスさまの御体であり、みことばの中にあるイエスさまです。
イエスさまが見えなくなって後、ふたりはまた話し合います。
「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちは心のうちに燃えていたではないか。」(ルカ24:32)
これこそ、最も顕著な聖霊の働きであり、神の臨在の証です。私たちは主の臨在の証をどこに求めるでしょうか。それは、私たちの心のうちの静かな喜びであるべきです。意思よりも感情よりも深いところにある、霊の安息です。状況の変化や、思い通りの結果を求めるとき、私たちは安息を見失います。
しかし、イエスご自身を求めるなら、イエスご自身がともにいて、私たちを内側から満たしてくださるのです。人間は肉にまかせれば、外側を快適にしようと働きかけることにあくせくするものです。しかし、私たちを取り巻く状況とは無関係に、主は常に私たちを内側から満たしてくださる方なのです。
クリスチャンが自分の外側に祝福のしるしや主ご自身以外の何かを求めるとき、それはその人だけの特別な誇りや奢りになる可能性があります。しかし、私のうちにおられ、私を満たす御方が兄弟姉妹ひとりひとりを満たすのです。真理はすぐれた兄弟の導きや預言の中にあるのではなく、誰もが手にすることができる聖書の中にのみあるのです。
「あなたがたはイエス・キリストを見てはいないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに踊っています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8~9)
パウロは次のように記しています。「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな顔のおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによります。」(Ⅱコリント3:16~18)
なぜ、私たちはみことばによって励まされ、慰めなれるのでしょうか。私たちが信仰をもってみことばを開くとき、このように主の御霊が語る者、聞く者に働きかけるからです。私たちのおおいを取り除いてくださるのです。
クレオパたちは、エルサレムへまた戻ってこの喜びを弟子達に伝えています。
「すぐさま立って」(ルカ24:33)と書いてありますが、エルサレムからついさっき帰ってきたばかりで、日はもう傾いており、その距離は11キロもあります。それなのに、彼らはじっとしていられずにエリサレムに戻ったのです。なぜでしょう。心のうちが燃えていたからです。心が燃えていないのに、無理をするとすり切れてしまいます。しかし、御霊が燃えていたなら、私たちの新しいいのちは同じところに留まることができないのです。