2007年3月22日木曜日

3月11日 まさしくわたしです

 (ルカ24:36~53)

クレオパたちが再びエルサレムに戻って、弟子たちに話をしていたところ、イエスさまご自身が現われたのです。イエスさまは弟子たちの「真ん中」に立たれました。「真ん中」はイエスさまに最もふさわしい場所です。私たちの交わりの真ん中には誰がおられますか。あなたの家庭の真ん中には誰がおられますか。あなたの心の真ん中には誰がおられますか。クリスチャンの集まり、クリスチャンの家庭、クリスチャンの心の真ん中におられるのは、イエスさまでなければなりません。黙示録の天の描写においても、教会を表す燭台の中央には、キリストが描かれています。(黙示録1:12)

私たちの交わりは、私たち同士の交わりではありません。御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1:1~4)
ヨハネは、福音書の冒頭で紹介した永遠のロゴスであり、いのちのことばである方を、手紙の中では、「聞いて、見て、手でさわった」と証言しました。この表現の中には、生前のイエスさまとの交わり、つまり十字架にかかられる前に行動をともにしてきたさまざまな場面での出来事も当然含まれていますが、それ以上に、復活されたイエスさまについて、「聞いて、見て、手でさわった」と言っているのです。だから、手紙の中でさらに続けて「交わりの本質」について語り、喜びについて語っているのです。十字架で終わってしまうなら、それは悲しみです。しかし、復活の事実が信じる者に大きな喜びをもたらします。(ルカ24:42,52)交わりの喜びは、イエスさまが救いを完了され、よみがえってくださったことにあります。

復活は事実であり、弟子たちが捏造した神話ではありません。彼ら自身もイエスがよみがえったのだとは信じなられないで、「霊を見ているのだ」と思ったのです。「復活」に対する反応は、古今東西を問わず共通のものだと言えます。人はみな復活に関しては、似たような態度をとります。「イエスは立派な御方だ」「イエスの教えはすばらしい」「イエスの生き方や言葉に学ぼう」というのは、ある意味で簡単です。そして、それは宗教であり、復活の事実からの逃避です。「死んだ人がよみがえった」というのは、全く違う次元の話です。「私もキリストとともに死んでよみがえる」となると、さらに違う次元の話です。死後にはこういう世界があるかもしれないという単なる想像や希望ではないのです。
パウロは復活について述べた箇所で、「私たちは、この世にあってキリストに単なる希望をおいているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(Ⅰコリント15:19)と語っています。
逆に言えば、単なる希望レベルの信仰しか持っていないといたら、それは、聖書が語る信仰ではありません。そしてそういう状態に留まっているとしたら、クリスチャンは、この世の人よりも哀れな状態であるとも言っているのです。一般に教会に不人気の原因は、勿論この世の無関心や不敬虔もありますが、この実質の欠落した教会の無力にあるのです。教会の喜びの源は、立派な行いでも、わかりやすいメッセージでもありません。それらも当然結果の現われとして重要なものですが、それ自体を追い求めるべきものではありません。イエスさまが真ん中に立たれ、そのよみがえった御方を中心にした兄弟姉妹の交わりがベースなのです。立派な行いや、わかりやすいメッセージは、そういう交わりに支えられ、イエスさまのよみがえりの力によって導かれるのです。イエスという死からよみがえった御方が重要なのです。

当時の先進的都市国家であるアテネの住民は、パウロの言うことにも熱心に耳を傾けましたが、話が復活のことに及ぶと、突然興味を失いました。それは、彼らの経験や感覚の中では、非現実的、不合理な話だからです。
また、復活のあるなしは、ユダヤ教徒であるサドカイ派とパリサイ派をふたつに分けました。「復活はない」と主張するサドカイ派は、あり得ない結婚の例を出して、イエスさまに論争をいどんだこともありました。そして、パウロも全議会の前で大祭司に質問をされたとき、そのことを意図的に利用して、内輪もめを起こさせています。それぐらい復活の問題は重要な分水嶺なのです。しかし、表面的には、所詮神学論争のネタとして取り扱われているにすぎません。 

パウロはよみがえった御方と実際に会い、語りかけを受けています。この違いは何と大きいことでしょう。(使徒23:6,11)
また、アグリッパとフェストの前でもパウロは誤解を恐れず、大胆に復活を語りました。(使徒26:23)このときのフェストのパウロのやりとりは実に面白いものです。
「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。」
(使徒26:34~35)復活の話など、無知蒙昧な庶民が信じているのならまだしも、地位も学問もあるパウロのような人物が語るにはふさわしくないとフェストは考えたわけです。勿論、パウロはそういうフェスとの反応は予想できたはずですが、私たちは聞き手に媚びて、受け入れやすいような話をするために証を立てるのではありません。パウロの証言はほれぼれするほど明快です。しかし、実際よみがえりの事実を知らなければ、フェストのように考えることのほうがむしろ普通なのです。
弟子たちでさえ、「墓が空になっていた」という女たちの報告を受けても、それをたわごとと聞き流し、なかなかイエスさまの復活の事実を受け止められませんでした。弟子たちは、イエスさまの生前にも、イエスさま御本人を幽霊だと言って、おびえて叫び声をあげています。彼らは暴風の中、湖の上を歩くイエスさまを見たからです。(マルコ6:45~52)
幽霊というのは、つかみどころのない存在です。それは、実体をともなわない一時的な現象のようでさえあります。よく言われるのは、自分の不安や恐怖を投影した幻や目の錯覚だということです。
そんな人間の考えることや、この世の常識を知っておられますから、イエスさまは、あえてこんなことをおっしゃっています。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(ルカ24:39)
墓は空になりました。体が残って霊だけが現れたのではなく、その墓に葬られた体が今目の前に来られているのです。「彼はハデスに捨て置かれず、その肉体は朽ち果てない」(使徒2:31)と語られているとおり、体が極めて重要な意味を持っています。具体的に手や足を示されたのは、そこに十字架のしるし、釘の跡を見せるためです。イエスさまは、「まさしくわたしです」とおっしゃっています。極めつけに、体の証拠として、焼き魚まで召し上がっています。このように、イエスさまのよみがえりを複数の弟子たちが具体的な事実をもってはっきり確認したのです。
このことから言えることは、「生前の姿かたちの同一性を一定以上保持している」ということと、「地上での主とともに歩んできた記憶が保存される」ということです。この「まさしくわたしです」というイエスさまおことばの中に私は少なくとも、そんな主の語りかけを感じます。

イエスさまはよみがえられる前から、信仰によって、「死は一時的な眠りである」と証言されています。(ルカ8:52,ヨハネ11:11)ヤイロの娘とラザロについて語られたことばです。イエスさまは、ただ死者をよみがえらせて、ご自分の力を誇示されたのではありません。それは、ご自身の十字架と復活の予告であり、確証でもありました。イエスさまは、「肉体が滅んでも霊は不滅だ」ということばで、気休めを与えられたのではありませんでした。本当に死者をよみがえらせてくださったのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)これは、ものすごいことばです。ここに私たちは、十字架に架かられる前に、すでにご自身を「よみがえり」として紹介されたイエスさまの信仰を見なければなりません。
最後に「主は予定を変更される」ということ、「主が心を開いてくださる」ということ、このふたつの点について触れておきましょう。
ガリラヤ湖の上を歩いておられるイエスさまの目的は、向こう岸のベツサイダに行くことでした。水上歩行は、証拠のための奇跡というよりは、舟代わりの交通手段だったと言えます。ですから、イエスさまは弟子たちのそばを通り過ぎるだけのおつもりだった(マルコ6:48)と書いてあります。それなのに、弟子たちの様子を見て、予定を変更して彼らの舟に乗り込んでおられます。
クレオパたちの家で交わりを持たれたのも、彼らがそれを強く望んだからです。イエスさまはまだ先へ行きそうなご様子だったのです。(ルカ24:28)もともとエレサレムへ戻るつもりだったのか、クレオパたちを追いかけて、さらに予定を変更されたのでしょうか。それはわかりません。
主のみこころ、主のみことばは、100パーセントの確率で確実に成就します。しかし、そこには人間の自由意思が大きく反映されます。主がなさることは、私たちが心から願うこと、望むことと、深く関連しているのです。主は愛と憐れみにあふれた御方です。ですから、私たちが恐れや不安にさいなまれながらも、少なくとも、イエスという御方を信頼し、この方に希望を託すとき、いつでも、必ず答えをくださる。折りにかなった助けをくださるのです。

もうひとつのおもしろいのは、イエスさまのよみがえり前の記事では、「弟子たちの心は閉じていた」と書いてあることです。ところが、よみがえられたイエスさまは、「聖書を悟らせるため」に、弟子たちの「心を開いてくださった」と書いてあります。人の願うこと、望むことが大切だと申しましたが、いのちは肉の欲求や人の意欲とは関係がありません。この方を受け入れることにかかっているのです。よみがえりのいのちの経験と交わりは、この御方を受け入れた結果与えられる特権です。これが聖書の言うところの「悟り」です。
深い思索や、純粋な心や、豊かな感受性の結果、信仰に至るのではありません。私たちの悟りは、主が私たちの心開いてくださった結果なのです。献身して神学校や聖書学校に行って、原語や神学を学んだところで、悟りは得られません。このバランスが極めて重要です。人の願いや努力で、救いに値する者であろうとがんばる人がします。逆に、救いは人の願いや努力ではないという頭の理解によって、無気力かつ他人まかせになって、単なる希望を告白するだけで、よみがえりのいのちを経験しない人がいます。
大切なことは、イエスさまの復活の証人として、約束のみことばに留まり続けることです。そうすれば大きな喜びが、私たちを包みます。私たちは何かにかき立てられずとも、いつもこの方をほめたたえずにはいられなくなります。
(ルカ24:50~53)