2008年4月18日金曜日

4月6日 祈りについての本当の話 (中高生のために)

進級・進学おめでとうございます。まもなくそれぞれに学校も始まって新しいスタートを切るわけですが、そんな大きな節目に当たって、今日は中高生のみなさんを対象に特別にお話しようと思っています。もちろん、大人の兄弟姉妹たちにとっても、基本的なことですが、有益なメッセージになるでしょう。多分みなさんはこれまでに何らかの祈りをしたことがあるし、今も何かを祈り続けているかも知れません。でも、改めて、「これまでに何を祈り、その祈った項目一つ一つについてどんな結果や答えがあったか」と問われると、非常に曖昧であったり、とたんに自信がなくなったりということはないでしょうか。
私は、「祈りはクリスチャンにとって呼吸のようなものだ」とよく言っています。それくらい必要不可欠だということです。祈っていないクリスチャンは息をしていないのと同じ、また、聖書を読まないクリスチャンは、ご飯を食べていないのと同じ、そして、証をしないクリスチャンは運動不足で不健康だとたとえています。その中で、今日は祈りの本質にポイントをしぼってお話します。呼吸というのは、非常に奥の深いものです。無意識でも呼吸は出来ますが、あらゆるスポーツや武道、また、アートの達人の域に達する人は、呼吸というのを非常に意識的にコントロールしています。呼吸というのは、「吐いて吸うことの繰り返し」です。まず、きちんと出すことによって吸います。これをどのように意識づけるかが、しなやかなからだの動きや心の状態と深い関係があるわけです。無意識でも息をしているし、息をしているというのが生きていることであり、生きているということは息をしているということです。うまく呼吸できる人、人と呼吸を合わせることが出来る人は、自分の能力を最大限に引き出し、あらゆる状況に対応できます。齋藤孝という人が、「呼吸入門」という本の中で、呼吸が人間のあらゆる感覚や表現の基本であるということを述べていますから、興味のある人は読んでみると良いと思います。
聖書の原語で「息」というのは「霊」と同じ意味で使われています。はじめの人、アダムが造られたときのことを聖書は次のように書いています。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(創世記2:7)そして、ヨブ記の中には何度も「息」についての表現が出てきます。「私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり」(ヨブ27:3)「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える」(ヨブ32:8)「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える」(ヨブ33:4)これらのことばを見ると、ここで「息」と書かれているのは、人が普通に呼吸をするということ以上の内容を指しているのがわかりますね。「神様の霊と私の霊が循環している感じ」がわかりますか。神様が出発点となり、私の存在を存在たらしめ、そして神様に返っています。これは大切なイメージですから、心をしっかり働かせて想像してみましょう。パウロは偶像を拝んでいたアテネの人たちに言いました。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何か不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神はすべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方だからです。」(使徒17:24~25)パウロが言いたかったのは、金や銀や大理石を見事に彫刻して形造った神々に祈っても、霊が循環するような感覚などないということです。いのちの交流はないのです。厳かな儀式や音楽や踊りで気分を高揚させるのではなくても、神さまの現れというのは、もっと自然でおだやかなものです。それは、「教え」に属するものではなく、「いのち」に属するものです。だから、とても簡単で子どもにでも「できる」ことなのです。いのちだから、たとえ意味がわからなくてもできるはずなのです。ニコデモは、教えを求めましたが、イエスは彼に新しく生まれる必要について語られました。「天の御国でだれが一番偉いのか」と弟子がたずねたとき、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、子どもたちのようにならなければ神の国に入れないと言われました。(マタイ18:3)人は、もともと「神と交流することの出来る霊的な存在」として造られています。しかし、人は罪を犯したので、親しく祈ることが出来ず、後ろめたい気持ちをひきずって生きているので、本当の神様ではない神様を造って「祈りたい気持ち」を慰めて来たのです。ユダヤ人は、偶像を拝んではいけないことを教えられ、みことばを守って来ました。でも、律法の教えの中にはいのちはなく、ますますアダムのいのちでは十分な祈りが出来ない、神様との交わりが出来ないことを思い知るだけでした。
アダムが吹きかけられた息で祈るいのりは、実は「宗教の祈り」です。この祈りをいくら積み重ねても、実は何の効果も価値もないのです。私たちが正しく祈るためには「別の息」「別の霊」を受ける必要があります。それは「復活の息」「復活の霊」です。(ヨハネ20:19~23)パウロのことばも見てみましょう。「『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは生かす御霊となりました。」(Ⅰコリント15:45)はじめのアダムに属するのは人間的で地上的なものです。後から来る御霊のものは天に属するもの霊的なものであるとパウロは語っています。「最後のアダム」とはイエスのことです。祈るのはこの生かす御霊、つまり聖霊によって祈るのです。イエスもよく祈られました。勿論聖霊によって父に祈られるのです。祈りは交わりであり、祈ることによって三位一体というのが教えではなく、いのちの交わりであることがわかります。難しい神学を学ばなくても、いのちの交わりがあれば、子どもでも嘘を見破ることが出来ます。イエスが話されたことばこそが霊でありいのちです。(ヨハネ5:63)ですから、イエスが何を話されたのかをわかっていなければ、宗教の祈りは出来ても本当の祈りは出来ません。
祈るときにどのようなことに注意すればいいのかをイエス御自身が語れた箇所があるので、そこから大事なことを確認していきます。(マタイ6:5~15)イエスはこうでなければならないという具体的なことは言われませんでした。「こうであってはいけない」ということをふたつ示され、簡単な祈りのことばを教えてくださいました。それが「主の祈り」です。まず、「偽善者たちのようであってはいけない」と書かれています。偽善者たちは人前で祈りたがると言われています。祈ることによって信仰深さを誇る気持ちは、偽善者のものです。祈りは隠れてこっそり祈ればいいのです。決して「私は祈っています」と見せびらかすものではありません。(マタイ6:5~6)次に、「異邦人たちのようであってはならない」と書かれています。異邦人はたくさん繰り返し祈れば良いと思っていますが、それも間違いです。強く念じれば神さまに届くというのは、非常に幼稚な発想です。そんなものは祈りでも何でもなく、祈ることによる自己満足なのです。(マタイ5:7~8)彼らのまねをしてはいけません。勘違いしないようにしましょう。父に対して、こちらの必要をオーダーするのではありません。父は私たちにとって何が本当に必要なのかを知っておられるのですが、私たちはわからずに、あれもこれもと欲しがります。だから、自分にとって本当に必要なものは何なのか、神のみこころはどこにあるのかを悟るためにこそ祈るのです。私は、「私の願いを簡単に叶えるような神なら、信じるには値しないし、こちらから願い下げだ」とよく言っています。私がどのようの者で、神がどのような御方がわかってくれば、くだらない願い事などしなくなります。みこころがなるようにと祈るはずです。
では、10項目にわけて内容を整理してみます。1.誰が祈るのか。それはみなさん一人一人です。他の誰でもありません。祈りに資格はいりません。自分のことは自分で祈ります。誰か権威のある人に祈ってもらう必要は全くありません。神はみなさんの祈りを待っておられます。2.誰に祈るのか。父に祈ります。祈ることで一番大事なのは、「誰に祈るのか」という祈る対象です。自分がどれだけきよらかで敬虔な気持ちで祈るかではなく、どれだけ強い気持ちで長い時間祈るかではありません。誰に向かって祈るのかが大事なのです。父は御子イエスにとって父ですが、私たちにとってはもともと父ではありません。しかし、私たち罪人もイエスを信じることによって「親しくお父さんと呼ぶことの出来る子としての御霊」をいただいたので、自分のお父さんにいろんなことを相談するように、祈ることが出来るのです。3.どこで祈るのか。 これは隠れたところだと書いてあります。決して人前ではありません。勿論みんなの前で祈ることがありますが、本当の祈りは個人的なものです。他人を意識した祈りは神には決して届きません。4.いつ祈るのか。 いつでも構いません。本当は祈っていないときも祈りは続いていると言ってもいいほど、自然な交わりなのです。5.何を祈るのか。 「何でも祈ってよい」と書かれています。しかし、主の祈りを見れば、その優先順位に従って、内容は精選されてくるはずです。間違ったことや恥ずかしいことは祈れなくなります。6.どれくらい祈るのか。 同じことばを繰り返す必要がないので、単純なことがらを念じるような祈りを長い時間しても意味はありません。ただし、自分の心の中にある様々なものを神様の前に長い時間をかけて注ぎだしたりすることも時に必要だし、祈りの中で、神様が気づきを与えてくださったり、みことばを思い起こさせてくださったりするには、一定の時間は必要だとも言えます。7.どんなことばで祈るのか。 祈りは口に出すことばではなく、もっと深い霊のことばです。祈りが深くなればなるほど、どのように祈ってよいかわからなくなります。そんなときは、そのままの思いで主の前に出るのです。そうすると、自分では想像もしなかったようなことばが口から出てきたり、思いの中に広がったりするのを経験します。パウロはそのような経験を、「私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊御自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」(ローマ8:26)と書いています。大事なことはイエスの御名によって祈ることです。この名の権威があるからこそ、父は耳を傾けるのです。私たちが立派に熱心に祈るからではないということも覚えておきましょう。8.どんな姿勢で祈るのか。ひざまずいたり、手を上げたり、姿勢は自由です。歩きながら、お風呂に入りながらどんな体勢でも祈れます。私はベッドに横になったときや、車の運転中にもよく祈ります。駅での無駄に思える待ち時間や、くだらない会議中にも祈ります。そういうときは、祈っているとは外からはわからない姿勢ですよね。必ずひざまずたり、手を組んだり、十字を切ったりする必要はないのです。9.何のために祈るのか。私は、祈りというのは、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)というこの世界の正しい因果関係や法則を学ぶためにあると思っています。私たちは祈りを通して神を学ぶのです。10.祈った後どうするのか。祈ったきりで終わってしまうことが多いですが、祈りは必ず聞かれています。一つ一つの祈りに対し、主の答えを聞く、主が与えてくださる結果を待つことが大切です。そして、神の主権に感謝することです。 十代をいかにすごすかは、一生の豊かさを決定すると言っても過言ではありません。祈りをもって、日々主とともに過ごして欲しいと思います。