2008年3月21日金曜日

3月16日 羊と羊飼い (イエスのたとえ話 ⑧)


「あなたがたは、どう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もしいたとなれば、まことにあなたがたに告げます。その人は迷わなかった九九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいます父のみこころではありません。」(マタイ18:12~13)
これはおそらく聖書のたとえ話の中で最も有名なものではないでしょうか。日本人の生活は羊とはあまり縁がないのですが、羊は聖書の中に最も頻繁に登場する動物です。アベルが捧げたのは、彼が飼っていた羊の中の最良のものであり、それが彼の信仰の義を表すものでした。義人アベルと言われていますが、その義という漢字は、「羊」に「我」と書きます。まるでこのアベルの記事をもとに作られたような漢字です。他にも「美」や「祥」や「善」という漢字も「羊」が部首として含まれています。羊は十二支のひとつにも入っているように、一説によると、中国では8000年以上前から飼育されているそうです。「眠れない夜のために」というヒルティの名著がありますが、眠れない夜には羊を数えると良いなどと言います。羊を意味する英語のsheepというのは睡眠のsleepを語源としています。またラテン語で財産を表すpecuniaということばは、羊(家畜)を意味するpecusに由来しています。これは、日本では石高で財力や権力を表すのに似ています。こうして、洋の東西を問わず、ことばの中に組み込まれるほどですから、ヨーロッパからアジアにわたる大陸の全域において、羊はもっとも人の暮らしと関わりの深い動物だったわけです。平らな広い牧場で放牧される場合もありますが、とりわけ山間で遊牧する人々にとっては、このたとえは非常に身近でよくわかるものだったでしょう。イエスに「どう思いますか」と問いかけられたときに、99匹を残して1匹を捜しに行く羊飼いの気持ちや、その1匹を見つけたときの喜びは、容易に自分の体験と結びついて理解できたのです。ですから、このたとえは、平均的な羊飼いの行動と心情について語っているのであって、例外的な特に善良な羊飼いの話ではないということを理解しておく必要があります。
このたとえにも見られるように、羊は最も「人間性」を象徴する動物ですが、羊と人との間にはいったいどのような共通点があるのでしょうか。ご承知のように、羊と言えば、まず、あたたかくて良質の毛がとれます。それから、肉やお乳もおいしいです。しかし、人間からは毛も肉もとれません。では、何が似ているのでしょうか。それは性質です。羊は非常に臆病で弱い動物です。他の動物のように、俊敏さもなければ戦うための条件を備えていません。攻撃性もなければ、身を守るすべもない。足は短く、鋭い角も牙も爪もありません。羊は敵に襲われると、斜面を上へ上へと進み風上に向かって移動する性質があり、帰巣本能が乏しいので、迷ってしまうと、まさしくこのたとえのように群れに自力で戻って来ることは出来ないのです。人というのは、神の目にそのようなものだと聖書は語るのです。そして、一番興味深いのは人間の「群衆心理」にも似た羊の性質です。羊の群れには決まったリーダーがいないので、群れの中の一頭が身に危険を感じてあらぬ方向へ走り出すと、群れ全体が一斉にあとに続いて走るというような行動をとるのです。羊にとっては単独で行動することは非常に不安で、一頭だけを群れから離すとパニック状態になり、捕まえるのも難しいのです。そのため「一頭の羊を捕まえるよりも、百頭の羊を捕まえるほうがたやすい」と言われたりします。このように考えてくると、一匹の羊と一人の人間の比較もさることながら、集団になるとさらに良く似ているなあと思うわけです。イエスさまは御父とともに造物主ですから、聖書のたとえ話は人間のように観察と経験にもとづいたものではなく、このたとえのために羊という生き物を作られたとも言えるわけです。
しかし、比較的わかりやすいこのたとえも、読み方の視点がずれると、全く本来のメッセージは届かないままに、違った意味にすり替えらえて、贖いとは切り離されたイメージだけが独立してしまうのです。「迷える小羊」という表現の中には、人間のこころの葛藤や孤独だけがあり、羊飼いの存在は忘れられています。一例をあげてみます。夏目漱石の「三四郎」という小説がありますが、三四郎と想いを通わせる美禰子という女性は、stray sheepということばを印象的に使いながら、三四郎への思いと自分の行動の矛盾や、時代や存在の不安の中でエゴイズムに引きずられていく悲しみを象徴しています。残念ながら、イエスさまのたとえ話は、こういう「迷える状態」に留まり、自分の迷いを文学的に描写して自己憐憫することが目的ではないわけです。たとえの中心は、「羊が迷っていること」ではなく、羊飼いに見つけられて、「羊飼いが喜んでいること」にあるわけです。ルカの福音書15章では、その当たりがいっそう明確になるように、「銀貨を見つける女性のたとえ」と、「放蕩して帰ってきた息子を迎えるお父さんのたとえ」が3つ連続して描かれています。私はあえて、「失われた銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」と言いませんでした。この3つのたとえはいずれも、失われていたものが見つかった喜びが共通する主題なのです。ルカ15章と、マタイ18章の違いは、このたとえが語られている状況です。ルカの場合は「この人は、罪人たちを受け入れて食事までいっしょにする」(ルカ15:2)というパリサイ人や律法学者のつぶやきに対する答えでした。マタイの場合は、「それでは、天の御国ではだれが一番偉いのでしょうか」(マタイ18:1)という弟子たちの質問に対する答えでした。何を中心にしてどこから光を当てるかで、話のポイントや解釈は大きく異なります。たとえが語られた具体的な状況や論理的な整合性をしっかり把握することなしに、イエスさまのみこころは読めません。 羊が弱くて迷いやすい人間性を表していることは既に見ましたが、もうひとつの重要な意味があります。羊は、「人間性」とともに、その「人間性をまとわれたイエス」を象徴しています。冒頭でお話ししたアベルの捧げた羊もそれです。過越しの生け贄として殺される小羊は、まさに十字架のイエスです。 ヘブル人への手紙にはこう記されています。 「そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。」(ヘブル2:14) 「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは、民の罪のためになだめがなされるためなのです。」(ヘブル2:17) さらに、預言者イザヤは、そのふたつの象徴を一つの預言の中で見事に書き分けています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かって道に向かって行った。しかし、主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:6~7) 「私たち」は罪人である人間。そして「彼」はイエスです。ともにその「人間性」を羊という動物は象徴しています。一方の羊はさまよっており、もう一方の羊は従順です。この御方は「神の小羊」として紹介され、徹底して無力でした。イエスさまはご自分で、自分からは何事も行うことは出来ないと繰り返して語られました。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことは出来ません。」(ヨハネ5:19、5:30,8:28)
羊飼いであるイエスは、「父のみこころのゆえに」羊の弱さを身にまとい、羊の不安や恐れを体験し、「父のみこころために」失われた一匹を見つけるまで捜し求め、自らを捧げ、羊を贖うのです。ただイエスだけが、父の愛と義と羊の弱さをともに知る唯一の仲介者なのです。神と人との唯一の仲介者はイエスです。信仰の創始者であり、完成者はイエスです。私たちはこの御方に十字架によってつながれているだけなのです。羊は羊飼いを求めません。人間の書く小説は「迷える小羊の葛藤」で終わります。みことばは、羊飼いが羊を見つけ出すのです。羊が羊飼いを発見するのではありません。これは、「隠された宝」や「良い真珠」を買うのは誰かという話と共通するでしょう。
ダビデは「主は私の羊飼い」と告白しました。ですから、その後には、「私は、乏しいことがありません」ということばが続きます。(詩編23:1)「私は迷える小羊です」というのも大事な告白ですが、「羊飼い」のもとへ行かなければ、その告白は泣き言であり、文学や哲学のレベルに留まります。羊飼いの愛が見えなければ、「乏しさ」からくる不安、恐れ、飢え、渇きから抜け出すことができません。「わたしは良い牧者です。良い牧者は、羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)とイエスさまは言われました。繰り返します。羊がどうするかではなくて、羊飼いがすることが大事なのです。それがすべてです。喜ぶのは羊ではなく羊飼いです。本当に救いの意味と価値を知っているのは、罪人ではなく救い主です。私たちの罪は、神が人となってあのような苦しみを受けなければならないほどどうしようもなかったのです。同時に神がそこまでしてでも成し遂げたいほどにこの贖いの計画は完璧だったのです。迷える羊はそんなことなど知らずにただ迷っていただけです。
では、迷っている羊の側からは、本当に何ひとつ出来ないのかという疑問が残ります。ひとつだけできることがあります。この一時によって羊飼いのもとへ帰れるかどうかが決まります。それは羊飼いの声を聞き分けることです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。また、わたしは彼らを知っています。そして、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)みことばを聞くこと。他のいろんな声から良い牧者の声を聞き分けることです。羊の所有者ではない雇い人に騙されてはいけません。人に惑わされてはいけません。聞く耳のある者はたとえを聞き分けることができます。最後に羊飼いが捜し求めるのは一匹です。大会衆ではありません。イエスさまはよみがえって弟子たちのグループに現れてくださったとき、よみがえりをともに喜んだ弟子たちとその喜びを共有されたでしょう。しかし、イエスさまがさらに心にかけたのは、そこにいなかったトマスのことでした。それが羊飼いの心です。イエスさまはトマスのためだけにもう一度現れてくださいました。トマスはイエスさまがラザロたちのためにもう一度ユダヤに行こうと提案されたときに「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(ヨハネ11:16)と言った血気盛んな人物です。しかし、彼に出来たことはイエスを見殺しにすることであり、よみがえったイエスを信じないことでした。彼が出来たのは、さまようことだけです。当然、彼の心は不安といらだちでいっぱいでした。彼は自分を捜し求めてくれた羊飼いである主とわきの傷を見て、イエスさまを「私の主。私の神」として受け入れます。キリストは全人類のための救い主ではなく、あなたの救い主です。十字架は全人類の罪の総計ではなく、あなたの罪のためです。羊飼いはそのように一匹、一匹の名を呼ぶのです。あなたは名を呼ばれましたか。そして、答えましたか。  私たちは小さくて弱いままでいいのです。呼びかけに答え、ただこの方についていくことです。