2008年3月17日月曜日

3月9日 隠された宝と良い真珠 (イエスのたとえ話⑦)

 マタイ13:44~58

 人間中心に、また自分勝手に、みことばを読んでいくと、イエスさまが語りたかったことではなくて、「自分の聞きたいこと」をたとえから無理に読み取ってしまう可能性があるということは何度もお伝えしてきました。 今日は「畑に隠された宝のたとえ」「良い真珠をさがしている商人のたとえ」「あらゆる種類の魚を集める地引網のたとえ」を取り上げますが、この3つのたとえに関しても、後に続くイエスのことばを含めて、その連続性をしっかりとらえないと、非常に表面的で浅薄な読み取りに終わってしまいます。 たとえばこの3つのたとえのうちの2つのたとえを組み合わせたり、あるいはそのいずれかを取り上げたりして教訓を語る場合、「隠された宝や良い真珠を買い取るために、見つけた人は持ち物を売り払っています。みなさんも天の御国を買い取るために、信仰によって自分の持っているものすべてを捧げましょう。」というようになるわけです。もしかしたら、みなさんも「このたとえはそういう意味だ」あるいは「それ以上それ意外の意味などない」と既に刷り込まれて、読み流して来られたかも知れません。しかし、このたとえがその程度の意味のものであれば、わざわざ日曜の朝に教会まで出かけて行って職業牧師に解き明かしてもらわなくても、家で聖書を読んでいれば小学生でもわかるでしょう。そんなことを伝えるためだけであれば、わざわざこんなたとえが2つも必要でしょうか。さらに3つめの地引網のたとえとのつながりはどう説明しますか。最初に引き出したい教訓があるので、3つのうちの前の2つか、あるいはその2つのうちのいずれか1つの話しかしないのです。イエスさまは毒麦のたとえの解説とこの3つのたとえのあとに、「あなたがたはこれらのことがみなわかりましたか」と弟子たちにたずねておられます。それは、「持ち物を売り払って天の御国を買いましょう」というような答えを確認するためなのでしょうか。イエスさまがこのマタイ13章の中でも繰り返しおっしゃっているように、たとえというのは、「見るべきものを見ていない、聞くべきことを聞いていないので、そのことが明らかになるため」であり、「奥義を知ることが許される者と許されない者が聞き方に振り分けられるため」なのです。(マタイ13:11~13)また、たとえは「世の初めから隠されていることどもを物語るためのもの」(マタイ13:35)であり、新しく付け加えられたものではないということも覚えておく必要があります。
 たとえは、隠されているものを本気で求める気のない人間には、真実を秘めるために用いられているということを忘れないでください。たとえで語るのは、「本当に知りたい人だけに奥義を伝えるため」であり、本当のことを知りたくない人、知りたいふりをしているだけの人にはとんでもない誤解を生むようなからくりになっているのです。たとえは、地引き網のように海の中にいるものを集めます。そこには離れていく群衆もおり、弟子も混じっています。本物の弟子もいれば偽物の弟子もいます。それは「毒麦のたとえ」では収穫のときまで、「地引き網のたとえ」では、網を岸に上げるときまで混じり合っているわけです。たとえを理解できたかどうかは、知識の量ではなく、いのちの経験によって確実にふりわけられるのです。だから、イエスさまはたずねられるのです。「あなたがたはこれらのことが本当にわかったんですか?」と。
それでは、細かく見ていきます。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)日本でも、昔話で裏の何でもない畑に小判が埋まっているというものもあれば、戦国時代の埋蔵金などが話題になったりもします。舞台は1世紀のパレスチナです。争いで略奪が繰り返される中、資産家が地中に財産を埋めるということはけっこうあったようです。このたとえは、まだ自分の土地ではない財産を掘り出すと所有権の問題が出てくるので、発見者は宝を見つけたことを公表しないで畑ごと買うという話です。現代で言うなら株のインサイダー取引みたいなもので、よく考えてみると、何だか妙なたとえです。そこで、まず基本的な質問をひとつします。天の御国の宝を見つけて買い取るのは誰でしょう。それは、私たちではありません。誰がイエスの価値を認めましたか。イエスは宝とは見なされず、人にさげすまれ、捨てられ、十字架に架けられるのです。「私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)とイザヤが預言したとおりです。たとえ人が御国を買いたいと思っても、自分の罪を贖いたいと思っても、それにふさわしい代価を差し出せるものはいません。「人は自分の兄弟をも買い戻すことは出来ない。自分の身代金を神に払うことは出来ない。-たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。-」(詩編49:7~8)と書かれています。誰も神の賜物を買うことは出来ないのです。このたとえは、私たちが宝を買う話ではないのです。買い取ることが出来るのは主です。では買い取られる畑とは何ですか。それが私たちです。畑に宝を埋めたのは誰ですか。それも主です。主が畑である私たちを丸ごと買い取ってくださるのです。「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」(Ⅰコリント3:9)とパウロは書いています。畑には大した価値がありませんが、そこには、霊またいのちであるみことばがまかれ、それが信仰によって受け止められれば、聖霊が豊かに何十倍もの実を結びます。それが天の御国であり、神の宝です。持ち物を全部売り払うのは、私たちではなく主です。勿論、主のその愛を知って私たちも自分の持っているわずかなものも、そして自分自身もすべて主に捧げたいと思うでしょう。しかし、それはあくまでも結果であって、「さあ、持ち物を全部売り払って天の御国を買いましょう」という話ではないのです。実際に永遠のいのちを欲した金持ちの青年は、イエスさまのことばに従って持ち物を全部売り払うことができず、悲しんで去って行ったではありませんか。このたとえのとおりになるわけがないのです。人は自分から進んで地上の宝を捨てて天に宝を積むことなど出来ないのです。(マタイ19:21~22)それが罪人の現実です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)「なだめの供え物」の「なだめ」とはいったい何をなだめるのですか。私たち罪人の良心でしょうか。違います。父の義をなだめるのです。御子イエスの血だけが、父の義をなだめるのです。父がひとり子を世に与えること、これが愛であり福音です。私たちが宝を買うことなど愛などではなく、福音とは関係のない話なのです。人が何かの犠牲を払って御国のものを手に入れるというのは、まさしく宗教の発想です。
 キリストという神の宝は私たちという見た目は価値のない畑の中に埋められています。神の知恵によって真の教会は隠されているのです。このように読めば、畑の宝をひとりじめにするために、宝を見つけたことを隠しておくおかしな人のたとえより、ずっとわかりやすいはずです。
 次に真珠です。「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45)真珠が養殖できるようになったのは19世紀の後半のことです。真珠は今でも高価なものですが、この当時はさらに高価で、極めて貴重なものでした。真珠は貝の体内で生成される生体鉱物です。貝は自分の体内に入った異物を核として、カルシウム(炭酸カルシウムのアラゴナイト型結晶)とタンパク質(コンキオリン)が交互に同心円状に重なってできあがります。真珠を養殖する場合もこの性質を利用します。ドブ貝などの貝殻を丸く削った核に、アコヤ貝の細胞の一部を切り取ったピースと呼ばれる小さな細胞をひっつけてアコヤ貝に挿入し、その中で育てるのです。 この雛型は何ともすばらしいと思いませんか。 私たちは天の御国にとっては異物であり、どんなに丸く削ろうが所詮はドブ貝のようなものです。それをアコヤ貝が自分のからだを傷つけ、その体内で時間をかけて何層にもコーティングして、あのすばらしい輝きを産み出すのです。真珠を手に取った人がその美しさに感動するとき、その核になった異物のことを気にすることはありません。また、他の宝石は、原石をカッテイングする加工が必要ですが、真珠は貝の命のいとなみの中として、隠れたところですでに完成されています。良い真珠をさがしている商人、それは主です。真珠は贖われた私たち。良い真珠とは健全な教会です。そして、真珠そのものが産み出されるプロセスの中に、贖いのモデルがあります。すばらしい値打ちの真珠は一つしかありません。それはどの教団、どの先生につながる群れでもなく、イエスのいのちにつながる群れはただひとつしかないからです。イエスはそのひとつの価値ある真珠を産み出すために、ご自分の血で異物である私たちを包まれたのです。
最後に地引き網です。この「地引網のたとえ」は、隠された宝や良い真珠のたとえよりも、「毒麦のたとえ」に似ています。ともに、質の良いものと悪いものが混じっていて、それが後になってより分けられるという筋書きが共通しています。悪い者たちは、「火の燃える炉に投げ込まれ、泣いて歯ぎしりするのです」(マタイ13:42,50)毒麦のたとえの解説と地引き網のたとえが、隠された宝と良い真珠のたとえをはさんでいるのですから、そこにひとつの共通したテーマや流れがあると考えるのは当然であり、さらにそれは、前半の「種まきのたとえ」から始まって「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」という流れの中でそれぞれのたとえの個別の意味とつながりや整合性を見ていくべきなのです。イエスさまはおたずねになっています。「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか」(マタイ13:51)彼らは「はい」と言いました。そこで、イエスのことばです。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉の中から新しいものでも古いものでも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13:52)
弟子たちの中には、この世における学者はひとりもいませんでした。みな「無学な普通の人」でした。それなのになぜイエスは「学者」と言われたのでしょう。彼らはこの世の学者ではなく、御国の学者です。ニコデモはこの世の学者でした。ニコデモは学びましたが、新しく生まれていませんでした。御国の学者は御霊によってみことばを解き明かします。イエスさまもその知恵と不思議な力を、この世の学問によって得たものではありません。日常の普通の営みの中で、信仰によって奥義を見つけられたのです。新しいものとは、古いものの中に隠されていたものだからです。 新しいものとは、目に見えない御国と福音の奥義です。古いものとは、律法と目に見える被造物の世界です。それは、単に自然界だけでなく、経済や法律なども含むすべての人の営みです。たとえというのは、そのふたつの世界を行き来するための鍵なのです。