2008年3月5日水曜日

3月2日 パン種のたとえ (イエスのたとえ話⑥)

    ルカ13:20

「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、3サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」(ルカ13:20)このパン種のたとえは、マタイとルカが記していますが、ともに前回取り上げた「からし種のたとえ」とセットになっています。マルコはからし種のたとえを単独で取り上げています。ルカはこのたとえの本題の前に、イエスさまが語られた重要な前置きのことばを書いています。「神の国は何に比べましょう。」(ルカ13:20)ということばです。この表現は「からし種のたとえ」の前にも見られますが、イエスさまがあえてこの短いたとえにこのような前置きをしておられるのは、「地上における神の国の状況というのは、非常にたとえることが難しいのだ」というニュアンスを伝えておられるのです。このふたつのたとえが、「小さなはじめが大きな終わりになる」というような、単純に信仰や教会の成長を表すものだとしたら、このような前置きは全く不必要に思えます。私たちがたとえ話から読みとるべきことは、私たちが聞きたいことではなく、イエスさまが伝えたかったことであるべきです。
「パン種のたとえ」は決して望ましい成長のたとえではなく、不自然で喜ばしくないことたとえなのです。聖書は一貫して、パン種は退けるべき忌むべきものであるとしています。「あなたがたは7日間種を入れてないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第7日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。」(出エジプト12:15)「あなたがたは、種を入れないパンの祭りを守りなさい。それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたってこの日を守りなさい」(出エジプト12:17)「七日間はあなたたがたの家にパン種があってはならない。誰でもパン種の入ったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。あなたがたは、パン種の入ったものは何も食べてはならない。あなたがたが住む所はどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。」(出エジプト12:19~20「あなたがたは主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。」(レビ2:11)「主への火によるささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで食べなさい。これは最も聖なるものであるから」(レビ10:12)種を入れないパンは「悩みのパン」と呼ばれ、それを食べるのは、「急いでエジプトの国を出たから」で、「その日を一生の間覚えているため」と教えられています。(申命記16:3)旧約聖書の中で例外的に一ヵ所だけ、「パン種を入れたパンを焼け」と書かれている箇所がありますが、これはユダヤ人のそむきの罪を主が告発しておられるものです。(アモス4:4~5)このように見てくると、からし種やパン種のたとえを信仰や教会の成長に関する励ましだと受けと止めているのは、皮肉を言われているのに褒められているのだと勘違いして喜んでいるぐらい愚かだということです。勿論、ここまでしつこく書かれているわけですから、よほどの馬鹿でもない限りパン種が良いものだとは思えません。それでもなお「パン種のたとえ」はすばらしい成長のたとえだと主張したい学者たちは、「パン種は多くの場合、悪影響の代名詞のように使われているが、イエスがあえてそれを御国のたとえとして用いられたのは、人々の意表をついて印象づけるためだった」などと言っているのです。ここまで来ると、屁理屈も立派なものです。
福音書に戻りましょう。(マタイ16:1~12)パンの奇跡のあと、ガリラヤ湖を渡って対岸に移動した弟子たちは、パンを持って行くのを忘れてしまいました。そこで、イエスさまが「パリサイ人とサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」と言われたときも、弟子たちは、パリサイ人とサドカイ人との問答のことではなく、パンを忘れて来たことを叱られているのだと勘違いしてしまったのです。イエスさまがおっしゃったのは、パンではなくパン種のことだったのです。パン種とは、「パリサイ人やサドカイ人の教え」のことです。(マタイ16:12)要するに神のことばを人間の言い伝えによって空文にしていること、神をあがめると言いながら、神を神としない態度を否定されたわけです。ちなみに、マルコの福音書では「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」(マルコ8:15)となっています。私はこの表面上の不一致については、どちらかが間違っていると言うのではなく、イエスさまは、不純物が入り込むことについて、しばしばこの「~のパン種」という表現を用いられたのです。そのことを証明する一例は、ルカの福音書に見られます。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです」(ルカ12:1)つまり、パン種の正体は、「人の教え」と「偽善」なのです。イエスさまがはっきりとそうおっしゃっているのであって、別の解釈など出来るはずがありません。パン種をとって粉に入れる「女」とは、もちろん「教会」のことです。  粉の量にも注目してみたいのですが、3サトンと書かれています。1サトンが13リットルですから、3サトンでは39リットルです。かなりの量です。一人の女性が家族のためにパンを焼くとしたら、パン種を入れて膨らまさなくても十分な量の粉があるのです。
パンは人間のいのちを支えるものです。パン種が取り除くべきものであることは少し置いておいて、食の話をします。最近は食の安全を脅かすニュースが連日報道されています。戦後日本の食文化は大きく変質しました。アメリカの余剰穀物を買わされ、パンを多く食べるようになりました。学校給食も未だに半分はパンです。米を食べなくなったので、米を作らなくなりました。米が不作のときにはタイ米などを輸入する事態にまで陥ったわけです。子どもの好きな食べ物は「カレー」「ハンバーグ」「スパゲティ―」です。日本の代表的なお総菜である「しらあえ」「ひじき」「おひたし」などは、給食でも不人気メニューであり、だいたいきちんと作れる母親も少なくなってきました。私たちが何を食べるかというのは、きわめて大事なことなのです。魚も昔ほど食べなくなりました。最近、骨なしの魚はよく売れているそうですが、もちろん骨なしで泳いでいる魚などいません。日本人が手軽に食べられるように、その骨は中国人が低賃金で働いて抜いているのです。肉も輸入が大半で、きちんと調べることもされず、病死牛肉や薬漬けの牛肉が、そのままあるいは加工食品として食卓に上ります。これは「いのち」を、さらに言えば、キリストの雛型である「生け贄としての血」を馬鹿にした報いです。食というのは単なる栄養源ではなく、キリストのいのちによって養われること、またその喜びをともに分かちあうことの象徴なのです。料理には感謝と愛情と手間をかけるべきです。そして、それをともに分かち合い喜ぶべきなのです。
日本は世界でも最高の豊かな食文化を持ちながら、それを捨てようとしています。今回の餃子事件を通して、「国内で簡単につくれるものを、殺虫剤をふりかけてもらうためにわざわざ外国でつくってもらうのはどこかおかしい」と誰もが気づいたはずです。日本人が食を見つめ直すきっかけになってくれたらと思います。仕事の帰りの遅いお父さんや、塾通いの子どもたちは、お母さんが作った手料理をともに分かち合うことが少なく、ひとりぼっちでジャンクフードをかき込むというような食事で、とりあえず飢えを満たすようなもので済ませてしまうことが多いようです。「私のからだはワインで出来ているの」と言った女優がいましたが、いまやコンビニ弁当や冷凍食品でできたからだの若者は多いでしょう。そういうものばかり食べていると、そういう人間になってしまうのです。
「わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べたが死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のための私の肉です」(ヨハネ6:48~51)このことばは、聞いた者たちに大きな混乱をもたらし、弟子たちの多くがつまずきました。(ヨハネ6:60)それほど本質的なメッセージだったのです。なぜ、パンにパン種を入れてはいけないのでしょうか。それは、パンはイエスのみからだを象徴しているからです。パンは一時的な地上のいのちとからだを支えるものです。しかし、まことの食べ物、いのちのパンとは、人のなられたイエスのいのちそのものを自分の中に受け入れることであり、イエスと永遠のいのちを共有します。
パウロもまた、人間の欲望を満たす教えが、キリストの受肉と贖いのみわざを台無しにしてしまうことについて、この「パン種のたとえ」を用いて注意を促しています。「あなたがたの高慢はよくないことです。あなたがたは、ほんのわずかなパン種が、粉の固まり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで祭りをしようではありませんか。」(Ⅰコリント5:6~8)
このように聖書全体から見れば、「パン種のたとえ」は、「からし種のたとえ」とともに、教会あるいはキリスト教が、人間の欲望や価値観と結びついて大きくなることは決して喜ばしいことではないというメッセージを伝えるものであることがおわかりいただけたと思います。キリスト者にとっては、組織や影響力が大きくなることではく、むしろ信仰の「純粋さ」や「真実さ」という質的なものこそ大事なのです。祭りの価値は、規模ではなくその内実です。イエスの臨在のないメガチャーチや大聖会はパン種で膨らんでいるだけです。大事なのは、教団の名や預言者の名にもとではなく、ただ主の御名のもとに集まることです。本当に主の御名のもとに信仰によって集まっているなら、そのただ中にいつも主はおられます。