2009年1月2日金曜日

12月21日 くすぶる燈心 (イエスのたとえ話 31 )

 今年は一年を通して「イエスのたとえ話」をひとつひとつ出来るだけ丁寧にひもといて分かち合ってきました。本シリーズでは、「イエスがたとえをもって話された」というような明らかなひとくくりのたとえ話は勿論のこと、さらに広い範囲で、「神が創造された目に見える世界は、すべて目に見えない霊的な世界を反映した大きなたとえなのだ」という視点でお話してきました。
 それはいつまでも続く「実体」や「本質」を映した一時的な「影」や「型」であり、その永遠の世界は、十字架という神御自身が引き受けてくださった究極の不条理を通して、ねじれ、反転した世界であるというメッセージをお伝えしてきたわけです。それは、「悲しむ者が幸いであったり、後の者が先になったり、苦しんでいたものが慰めを受けたり・・・」という世界です。イエスが約束された世界は、この世界の拡大や延長ではありません。またこの世界の発展や改良ではありません。キリスト御自身を共有する新しいいのちの世界です。それこそが福音の実際なのです。福音とは、「個人的な悩みが解決する」とか、「私が成功して幸福になれる」とかいうこととは全く異質のメッセージです。文明や国家のあり方とも別の次元の事柄です。その奥義は、ただイエスという「人となられた神」の人格とみわざに対する単純な信仰によってのみ知り、味わうことができます。シリーズの終わりにあたって、もう一度そのことを確認しておきたいと思います。

 シリーズ最後のメッセージは何をテーマにするべきか悩んでいましたが、「光」についてお話しようと思います。自然界の中には、神の「本性」あるいは「属性」を、また「神と人の関係性」「キリストと教会の絆」を現した雛型が溢れています。その中でも「光」は、神御自身の本質を現した非常に重要なたとえであり、「光よあれ」というみことばは、神が発したことばとして、聖書の中で一番はじめのものです。(創世記1:1)
 神は太陽です。太陽の光は色を作り出し、熱を与え生きものや作物を養います。光はわけへだてなくすべてのものを照らし、闇の中にあるものを明らかにします。そんな太陽を、それ自体「神」として崇める国民や宗教もありますが、みことばはそれを禁じています。造られた雛型のひとつを神としてはいけません。太陽も月も星も単なる「指のわざ」にすぎません。雛型によって解説すれば、偶像礼拝は姦淫であり、性的倒錯なのです。
 神は大きな光るもの、そして小さい方の光るものをお造りになりました。夜を照らすのは、「小さいほうの光るもの」である月です。(創世記1:15)月は教会です。ご承知のように月はそれ自体は輝かず、表面はクレーターでデコボコです。それは「罪人である人間が主の栄光を反射して夜の世界を照らす」ということを映した非常に美しい雛型です。聖書はアポロが月にいくより先に、月がそれ自体何の魅力もない場所であることを暗に語っていたわけです。

さて、聖書の中には、光に関する記事はかなりたくさんありますが、今日は、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に出てくる「あかりのたとえ」を見ていきます。

「また、あかりをつけて、枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがた光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:15~16)

「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:21~23)

「あかりをつけてから、それをで隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。」(ルカ8:16~17)

 神は光であり、ここに書かれているあかりとは、神のことばです。神のことばはイエス御自身です。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)というみことばを思い出してください。さて、この当時のともしびやあかりはどのようにつけたのしょうか。スイッチを入れたら電気がつくのは現代の話です。あかりは油に火をつけてもやします。油は燃えますが、油に直接火をつけるのではなく、燈心に火をともすのです。燈心にしみ込んだ油が少しずつ燃えて、光を放ち、あたり暗がりを照らすわけです。あかりはみことば、油は聖霊、そして、燈心は私たちの人間性です。

 今日は光のことをお話していますが、このたとえでは、光を反映した擬似的な光である「あかり」について話しています。当時の「あかり」は、それほど明るいものではありません。しかし、それは明らかに夜を照らすための光だったのです。今日のメッセージのタイトルは「くすぶる燈心」としました。非常に詩的で繊細な表現ですが、それは、光を委ねられた私たち人間の弱さ、小ささ、はかなさ、頼りなさを現すことばです。主は私たちが自分の罪や愚かさや醜さや無力を告白しなくても、そのようなものであることを十分ご存じです。油の切れた灯心に火をつけたらどうなりますか、一瞬火はつくでしょうが、黒こげになっておしまいです。イザヤのみことばを思い出してください。
「主はいたんだ葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すこともない」(イザヤ42:3)これは、私たちがどんなに弱い存在であるかを伝えると同時に、それをどこまでも、何としても守ってくださる御方のすばらしさについて伝えています。それは、わたしを支えるわたしのしもべであるイエスの描写として書かれているのであって、人の弱さや弱さの中にある可能性を強調しているのではありません。主が私たちの証を守られるのです。私自身は燃えても一瞬で燃え尽きます。私たちに必要なのは、「主が夜を照らす役割を私たちに託してくださり、主が私たちを通してあかりを灯し続けてくださるのだ」と、ただ信じることではないでしょうか。その意味では、信仰は小さなからし種でよく、あかりはくすぶっていてもよいのです。こうしたことをふまえて今日のたとえを見ていきましょう。

 どういうわけか、あかりを枡の下に隠す人がいます。たとえで語られると、それが愚かで無意味であることは誰にでもわかるのですが、実際にはこういう人が多いのです。これは、自分の経験や理性で、あるいは、知性や感性でみことばを量ることを言っているようです。不遜にも、神のことばを人間が吟味するのです。本当は、神のことばが人間を吟味し、その人の隠された真実を暴くのです。ユダヤの指導者たちは、イエスを「試そうとして質問した」と書いてあります。はじめから、「わからないから」「知りたいから」教えを受ける姿勢ではないのです。
 指導者たちは勿論のこと、信じた者でさえ、「みことばはそう言っているけれど、現実的にはこの程度の意味ではないか」「このみことばは、その時代のその教会の人のためにだけ語られたもので自分には直接関係がない。」というような反応はまさに、枡の下にあかりを隠すことです。そんなことをすれば、当然あかりは消えます。
 実は、わたしたちがみことばをはかったように思えても、実はみことばにはかりかえされているのです。みことばを枡の下に隠すことによって、私たちはみことばの祝福を放棄しているのです。みことばをあなどることは、神をあなどることです。みことばを軽んじる者を、主は軽んじられます。
「欺きのはかりは主に忌み嫌われる。正しいおもりは主に喜ばれる。」(箴言11:1)
「異なる2種類のおもり、異なる2種類の枡、そのどちらも主に忌み嫌われる。」(箴言20:10および23) しかも、この枡ははかった後に隠しているところから考えると、どうやら底が上を向いています。はかる道具としては機能せず、隠す道具として用いているのです。つまり、人はみことばをはかっているつもりでも、あかりを隠しているだけなのだと言えます。


 次に、寝台の下です。寝台は眠りと病をイメージさせます。また、暮らし全体を象徴する表現です。特に教会の指導者が病気だったり怠慢だったりすると、みことばによる訓練がおろそかになり、光は消えてしまうどころか、家全体を焼く火事の原因にもなります。また、「人の子には枕するところもない」とおっしゃったイエスのことばを思い起こせば、自分の生活を最優先する姿勢への戒めともとれます。これは、指導者のみならず、すべてのクリスチャンにとっても言えることです。いわゆるキリスト教の中では、献身者、すなわちキリスト教を生業とする人たちと、他の仕事を生業としつつ、献身者の暮らしを支える一般信者を区別して無意味な段差をつけていますが、聖書の中には賜物や役割の違いはあっても、すべての信者は兄弟姉妹、また家族であって、礼拝者、祭司として等しい立場が与えられています。「聖書はすべて、神の霊感によるものであって、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Ⅱテモテ3:16~17)「教えと戒めと矯正と義の訓練」です。どれも厳しそうなイメージです。しかし、これがない教会は、寝台の下にあかりを隠していることになります。みことばがすべての兄弟姉妹を訓練するのです。教会指導者が信者を訓練するのではありません。

 3つ目は器です。器は、みことばに関わる人間を象徴しています。
 あかりを器で隠すというのは、ひとつは、みことばを取りつぐ者が、自分の栄光を求めたり、みことばをまぜものにすることへの警告です。もうひとつの側面は、みことばを聞く者が、それを取りつぐ器の装飾、すなわち、肩書きや人間性に心を奪われ、あかりではなく、器に期待することへの警告です。あかりは、燭台の上にあるべきです。燭台とは教会をさします。あかりを支えるために燭台があるのです。その逆ではありません。その人自身の名前でやってくるものには要注意です。(ヨハネ5:38~43)
 あかりがあれば、その周辺は明るくなり、温かくなり、はっきり真実が見えます。それは、誰の力でも知恵でもなく、あかりのおかげ、光そのものである神の証なのです。
 仮に私がたとえをわかりやすく解き明かしているとしても、あかりがあるから見えるだけのことで、私が特別だから私だけに見えるのではないです。私が見ているものは、みなさんにもはっきりと同じものが見えて、ともに味わえるのです。ところが、サタンのわざは違います。スピリチュアルブームとかで、「霊が見える」などという人は、「その人だけ」しか見えないでしょう。だから、その人が見えているものが嘘か本当かなんて確かめようがないわけです。ところが、私が話していることは、聖書に書いてあります。書かれていることだけをそのまま話しているわけだから、間違ったことを言っていれば、その気になって調べれば誰でも指摘できます。当然間違いあれば、心から謝罪します。私が話していることは、話しているとおりのことを私がそう信じているというだけのことであって、それ以上の主張をするつもりはありません。みことば相互の論理的な整合性を越えた超霊解が、もし万一あるのだとしたら、私には関係のない世界なので、とっと土俵から退散します。私の知っている主イエスはそういうものを徹底的に嫌われると思いますが。
 正しい場所にあかりがあるとき、まず、家の中を照らします。マタイには、「家にいる人々全部を照らす。」と書いてあります。そして、それは確かに行いとも関係があります。あかりが力強く光るのは、そのみことばを語るだけ、聞くだけではなく、行わなければなりません。行いをともなう信仰が父の栄光になります。「みことばは大切」と言いながら、何がどこに書いてあるのかわからないで説得力があるでしょうか。また、「愛が大切」と言いながら、困っている人に具体的な親切や助けを示さないとしたらどうでしょう。
 律法の中にも、教会はともしびを絶やさぬようにと命じられています。(レビ24:1~4)そこには、すでに1タラントの金の燭台から打ち出され燭台によって、キリストの試練によって練られた人格の栄光とキリストと教会の一体性が見事に表現されています。(出エジプト25:31~40)(民数記8:2~4)

 ルカを見るならば、家の中にいる人々だけではなく、「入ってくる人々に、その光が見える」ことが必要だと書いてあります。教会に来る人々に、こびて、おもねって、気をつかって、結局みことばを伝えないということがあります。違う光に寄ってくる虫は、かえってあとから必ず分裂や混乱をもたらします。家に入ってくる人には、「みことばの光が見える」ことこそが大切なのです。みことばの光はみことばの意味ではなく、私やあなたや、この世界のすべてを照らすのです。最後にすべて隠されていることが明らかになるのだとマルコとルカは言っています。このことを聞くとき、それはありがたいと思いますか、それとも、それは困ったと思いますか。みことばの本当の意味と力が明らかにされ、私たちがいかに信じ、いかに行ったかがすべて明らかになります。「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」(Ⅰペテロ4:17)そして、マルコのテキストは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と結んでいます。あかりの話なのに、「目を見開きなさい」ではなく、「耳」のことに触れ、「聞きなさい」と念を押しています。あかりはみことばなのです。みことばを聞かない人は、何も見えず、やがて間違いなく穴に落ち込むのです。