2008年6月28日土曜日

6月22日 努力して狭い門から入りなさい (イエスのたとえ話 15 )

ルカ13:22~30

私たちがこれまで学んで来たところによると、「努力」というのは、「信仰」とは相容れないもののように思えます。しかし、主は確かに「努力して狭い門から入りなさい」とおっしゃっています。みなさんはその意味をどのようにお考えでしょうか。信仰者にはどのような努力が求められているのでしょう。「誰でも救われる」はずなのに、「信仰は自分に属する何かは条件とはならない」はずなのに、一体、何をどう努力せよと言うのでしょうか。この「努力して」というのは、まともに受け止めればそれほど私たちを混乱させるみことばだと思います。原語の意味は「強制する」というニュアンスがあります。従ってこのみことばをより正確に訳すと「狭い門から入ることを自分に強制しなさい」というような意味になるのです。
少し話が脱線しますが、私がこのみことばを思い巡らしているとき、忘れかけていたずいぶん昔のちょっとした光景がよみがえってきました。それは、仙台空港で巡業帰りの関取衆に出会ったときのことです。単純な感想ながら、お相撲さんは本当に大きかったです。小兵と言われる力士でさえ、私よりひとまわりもふたまわりも大きいのです。私は武蔵丸や小錦が果たして金属探知機を通れるのかどうかが気になりました。結果から言うと、小錦と武蔵丸も金属探知機を通ることが出来ました。ふたりは何とからだを横にして通過したのです。一般のサイズの人のように、前を向いては無理でした。横ならお腹をすりながらですが、何とか通れます。つまり、小錦や武蔵丸をお腹で輪切りにした場合、横よりも縦のほうが若干短いってことです。まさに狭い門を「努力して」通っていたわけです。くだらないことかも知れませんが、「何も持たない状態で自分のサイズにギリギリの狭さの門をひとりで通る」ということを具体的にイメージしてもらいたいのです。私たちが信じたとき、救われた瞬間には、確かに何かをおろして、具体的にある門を越えたのです。そこで何がおこっていたのかを、こうしてみことばから学んでいるわけです。私は何を越えて、そして今どこにいるのか、そのことが見えていない人は、クリスチャンとしてのその後の道を歩むことはできません。
「狭き門」は誰かと一緒には入れません。ひとりであっても、あれこれ持ったままでは通れません。「持っているものをすべておろす必要」があります。一定以上の能力や財産を持つことが条件であれば、救いはすべての人には開かれているとは言えません。どんなに低い基準であってもそこからもれ落ちる人たちがいるでしょう。しかし、今持っているものを全部捨てることであれば、その気になれば誰にでも出来ます。1万タラント持っている人も、300デナリ持っている人も、2レプタ持っている人もすべてを捨てることは可能です。つまり、全ての人に対して開かれている救いを少数に人しか受けていないという現状は、「誰にでも出来るけれど、特別そうしたいわけではない」という人の心を反映しているわけです。それが、門の前の有様だと言えます。「努力して狭い門から入りなさい」ということばは、イエスとその一行がエルサレムに向かう旅の途上で、ある人がたずねた質問に対する答えです。語られた背景を考えれば何らかの理解の助けになるはずです。その質問の内容はこうです。「主よ。救われる者は少ないのですか。」 イスラエルの人々は「メシアがやって来さえすればイスラエルはみな救われる」と信じていました。ところが、イエスが無条件の救いを説いているにも関わらず、その救いを受けたと見える人たちがほとんどいない。時折病人を癒したりするだけで、目に見えるローマからの解放を行うわけでもなく、周囲を取り巻いているのは、無学な庶民やはぐれ者ばかり、宗教指導者やインテリ層からは認められていません。イエスの言動は、一般にはまったく不可解に映ったことでしょう。イエスの実際は、期待されていたメシア像とは全く違っていました。バプテスマのヨハネさえ、この方の言動や自分に対する処遇から、「本当に自分が紹介するべきキリストはこのイエスでよかったのだろうか」と混乱してしまったほどです。(マタイ11:2~5)しかし、イエスの言動はすべて約束されていたみことばの通りでした。イエスは獄中のヨハネを直接励ますことなく、そんなみことばのひとつを示しています。「御自身がみことばの成就である」と語られたわけです。どれもこれも不思議なことです。「主よ。救われる者は少ないのですか。」というある人が質問した裏には、その人のどんな思いがあったのでしょう。私たちも似たような感覚を持ったことがあるのではないでしょうか。「これほどすばらしい救いをどうして受け入れない人が多いのだろうか。また、なぜ自分は、真面目なあの人や親切なこの人よりも先に救いを受けたのだろうか」と不思議に思ったことはありませんか。あるいは、それとは正反対のこういう意味があったのかも知れません。「救い受けるのは少数精鋭の者ということでしょうか。それにしても、あなたの弟子達はどうもそれほどのえり抜きには見えませんし、あなたのおっしゃっている救いっていうのは、本当に大丈夫なんですか?」と。いずれにしても、ある人がイエスのことばに耳を傾け受け入れる人が少数であること、つまり、伝道が十分な成果をもたらしているように思えない現状に疑問を持ち、それをイエス御本人にたずねた可能性もあります。
この問いを発したある人は、いったい救いというものをどのようにとらえていたと思われますか。また、この人は救われていた人でしょうか。それとも救われていない人でしょうか。それは書かれていないのでわかりませんが、その文字通りの質問に対して、主はきちんと答えてくださったのです。「努力して狭い門から入りなさい」と。 ひるがえって私たちは、「救い」というものを、どのようにとらえているでしょうか。ただ「救われているか・いないか」という単純な○×ゲームのような感覚で「救い」をとらえてはいないでしょうか。これは笑い事ではなく、多くのクリスチャンの感覚としてありうることです。「救われているか・いないか」というのは、非常に重要ではあるけれども、慎重でなければならない線引きです。「世の終わりに羊と山羊をより分けるたとえ」(マタイ25:31~33)のような記事を表面的に読めば、どこかマンガ的なイメージで羊さんチームに入っていれないいというような思いを持ってしまうかもわかりませんが、「救い」というのは、それほど単純なものではありません。宗教としてのキリスト教の世界には「日曜学校で覚えた正解を諳んじれば合格シール」というようなお子様ランチ的2世牧師だっていっぱいいるでしょう。多くの教会では、一定の告白をして洗礼を受けたら「救われた」ということになり、未信者とかノンクリスチャンという名前でくくられる人々に対する伝道要員とされたりします。逆に質問ですが、「告白した人」「洗礼を受けた人」は本当に救われたのでしょうか。誰がそれを認め、評価するのでしょうか。残念ながら、この記事の後半には、「あなたは救われました」と認める立場の人も含めて、門前払いを食らう場面が出て来ます。彼らが地上で捧げた賛美や奉仕、涙を流して祈った祈りは一体何だったのでしょうか。彼らが門をたたいても開けてもらえない場面は、何とも残酷な喜劇です。告白が死を意味する場合は、告白はすべてを捨てることと同義語です。しかし、自分が口にしていることばの意味も価値もわからないようなレベルの人の口約束をとうてい信仰告白と見なすことは出来ません。「主を告白すれば誰でも救われる」と書かれているので、どんなに救われているように見えなくても、一応告白している人の信仰を認めなければならないんだと思い込んではいませんか。しかし、「主よ、主よ」とやかましく言っている連中の多くが、門前で拒まれているのを見れば、先走ってさばいてはいけない。だから、おかしなクリスチャンもどきも兄弟姉妹なんだと見なすことは間違いであり、不可能であることがわかります。本当に救われるのはまことのイスラエル、つまり「信仰のある人」です。アブラハムの子孫という意味も、単に血統を表すのではなく、「アブラハムと同じ信仰を受け継ぐ者」を意味しています。誰もがイエスを長子とした兄弟姉妹に加わる可能性を持っていますが、「父のみこころを行う者が兄弟姉妹だと」イエスを言われました。イエスの肉親や兄弟姉妹でさえ、無条件に神の家族というわけではないのです。それほど神が求める「信仰」という基準は厳密であり厳格なものだと言うことです。そんな信仰を人間の側で準備できるわけがないのです。主の憐れみにすがる他ありません。
「しんがりの者が先頭になる」(ルカ13:30)と書かれているように、拒まれる人たちは、主の憐れみにすがるどころか、その場に及んでも自己主張をします。彼らには「自分たちは先頭をきって努力してきた」という自負があるようです。ですから、「私たちをおいて誰が先に天に入るのですか」と言わんばかりに、「私はあれをした、これをした」と主張するのです。「あなたを知らない」と言われる主は冷たい御方なのでしょうか。違います。彼らの心が人の子イエスに対して冷え切っていた結果です。「誰も相手にしてくれる人がいません、さびしくて教会に来ました。みんな優しくしてくれます。もうさびしくありません。救われました。」「仕事がなくて食べる物もありません。教会へ来たらただでごはんが食べられます。おなかもいっぱいになりました。救われました。」「悩みを聞いてもらえました。救われました。」「薬やギャンブルをやめました。救われました。」「ゴスペルを歌いました。ストレス解消です。」「英語を覚えました。異文化を学び世界が広がりました。」おめでとう。それで終わりです。彼らは求めていたものを得たので満ち足りたのです。そして、極めつけはこれです。「私はこの世ではパッとしませんでしたが、キリスト教会で見事花を咲かせることが出来ました。」はい、良かったですね。
門は閉ざされれば開くことはありません。このとき、3つのことを思い出してください。まず一つめは過ぎ越しです。門柱とかもいには小羊の血が塗られていました。実はその血が門の本質です。次にノアの箱舟です。みことばに従って黙々と箱舟を造り続ける生涯、それがノアの証でした。そこに派手な宗教的パフォーマンスはありましたか。救われたのはたった8人です。ノアの伝道は失敗だったのでしょうか。いわゆるキリスト教がさかんに言うところのリバイバルはおこりましたか。箱舟のとびらをしめたのは主です。ノアが見限ったのではありません。そして、最後は黙示録のラオデキヤの教会に訪れる主の姿です。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるならわたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:20)特にこの3つ目のイメージが重要です。前回「求めること」「さがすこと」「たたくこと」が条件であると言いました。それは間違いではありません。しかし、私たちが求める前に、私たちを求め、さがし、私たちの頑なな心のとびらをたたいてくださったのはイエスです。子どもが欲しいと言う前に必要なものを準備するのが親の愛です。救いというのは、「死からいのちに移ること」(ヨハネ5:24)(Ⅰヨハネ3:14)です。門の向こうとこちらでは全然違うのです。門の向こう側の世界へ、救われるまでの価値観を持ち込んで発言するのは、「門を越えていない」からです。この死からいのちに移っている。「善悪」ではなく、「キリストのよみがえりのいのち」によって生きるということが、律法からの解放にもつながります。幕屋や神殿の雛型を考えれば、その死からいのちに移るときに、イエスという肉体の垂れ幕を通ります。これが、門に当たるわけです。「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル10:20)この霊的な事実を象徴する出来事として、イエスが息をひきとられるその瞬間に神殿の幕がまっぷたつに裂けたのです。(マタイ27:51)   「死からいのちに移る」という表現や、「ご自分の肉体の垂幕」という表現だけでは、水平な移動のイメージがあります。これほどすばらしいみことばであっても、神の恵みの賜物を表しきるにはまだ十分ではありません。私たちは「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえられされ、ともに天のところに住まわされた」のです。(エペソ2:6)このみことばは非常に重要です。私たちは、門を越えたとき、死からいのちに移ること、イエスの肉体という垂れ幕を通ることは、天に座すことと同じです。それは、水平面での大移動であるとともに垂直面での大移動です。まさに時空を越えた奇跡が私たちのいのちの奥深くの存在の核の部分で起こったわけです。それは、永遠のいのちの種が宿った瞬間であり、私たちがキリストのからだの一部として加えられた瞬間なのです。この奥義が私たちの中に開かれれば、どこそこの教会に属しているとか、誰々先生のメッセージを聞くとか、そんなことはほとんど何の意味も価値もないことがわかります。