2008年6月28日土曜日

6月15日 狭き門 (イエスのたとえ話 14 )

マタイ7:13~14 ルカ13:22~30

 入試や就職のシーズンになると、「狭き門」ということばをよく耳にします。文学好きの方はアンドレ・ジッドの小説のタイトルとして思い出されるかもしれませんね。ジッドは、男女のプラトニックな恋愛をカトリックとプロテスタントの確執と絡めて描いています、残念ながら、他の彼の作品と同じで、内容は聖書的なものではありません。ジッドもキリスト教被害者のひとりです。彼の文学は、幼い頃から体に染みついた宗教の欺瞞や窮屈さから解放されるための葛藤の足跡でもありました。こういう人は世界中にたくさんいます。彼らのようなタイプの物書きは、細くて険しい道を求道したように見えますが、広い門をますます広くすることに貢献しただけです。彼らの文学が高く評価されることで、結果として救いの門はますます狭くなっていくわけです。では、本題に入っていきましょう。
 
「狭い門」とはもちろんイエスのことです。別のたとえの中でイエス御自身が「わたしは門です」(ヨハネ10:9)と言っておられるとおりです。しかも、門から入るのは、私たちである前に羊の牧者なのです。(ヨハネ10:2~3)牧者に呼び出され、声をきいた羊だけがついていきます。牧者はイエスです。(ヨハネ10:14)
 では、なぜその門は「狭い」のでしょうか。天の御国には人数制限があるのでしょうか。難しい試験があるのでしょうか。入試や就職の場合は、応募人数に対して合格や採用が少ないことを「狭き門」と表現しているようです。やっぱり文語表現の方が響きがいいですね。この世の試験の場合は、「能力」でふるいわけられます。要求される能力のない者が資格を得ることはできません。それは、不公平や差別ではなく、当然のことです。人体の仕組みを知らない人にメスを握ってもらっては困るし、法律に無知な人間が犯罪人を弁護したり、判決を言い渡したりすることはできません。つまり、試験による選別は、世の中の信頼性や安全性を保障している部分はあるわけです。残念ながら、能力とモラルの高さは必ずしも比例するわけではないので、医者や弁護士にも腹黒い人々は数多くいるでしょう。しかし、モラルが高くても、能力が低ければ仕事にはなりません。社会的に責任の思い仕事は、それに見合う報酬を得るのも当然のことです。
しかしながら、「狭き門」を突破して地位を得た人たちは傲慢になりがちです。公務員試験の最難関である上級試験をクリアしてきた高級官僚諸君は、そのポストの旨みである、庶民の常識では考えられない既得権を行使することを当然のこととしています。最近話題の「居酒屋タクシー」なんぞの実態も氷山の一角です。こういうことは、今に始まったことではなく、また日本に限ったことではなく、「いつの時代、どこの世界にでも必ずあること」です。
それにしても、居酒屋タクシーは笑っちゃいます。タクシーの運転手さんも大変です。運転手さんも役人たちは金になるいいお客さんだから競い合って乗せてますが、接待しながら、心の中では「馬鹿だな、コイツら」と思ってるでしょうね。
では役人たちから運転手の姿はどんなふうに見えるのでしょう。役人たちは「上級な試験をパスした自分は上級な人間だ」と思い込んでいるのです。タクシーの運転手などはそんな自分と比べれば遙かにレベルの低い人たちなので、完全に見下しているわけです。
私に言わせれば、こういう役人こそ「若い頃時間を浪費して記憶や連想ゲームに勝っただけの人」で、「失ったお楽しみの時間を、おっさんになってからタクシーの中のビールやおつまみで埋め合わせているかわいそうな人」なのですが、本人にはあまりそういう意識はありません。タクシーの運転手がプライベートの移動でタクシーを利用することはあまりないでしょう。ビールやつまみが欲しければ、売店で買って電車に乗っての移動です。  
役人のタクシー運転手に対するまなざしは、福音書の中では、パリサイ人や律法学者が取税人や罪人たちに向けたそれと重ねることができるでしょう。このように、いつの時代どこの国でも人間の本質というのは同じです。後の者は先になり、先の者は後になる。こういうこともしばしばおこるのだと聖書は語っています。タクシー運転手の多くは役人より先に狭き門を通るのでしょう。

しかし、人間が神から離れて自力で作り上げてきた世界では、なかなか目に見える大逆転は起こりません。力の強いものが弱い者を支配します。神なき世界では「能力による生き残りをかけたサバイバル」にならざるを得ないのです。
ですから、学問の分野でも、人類は自分たちの住んでいる世界に同じような説明のつけ方をします。歴史を振り返っても、自然界を見渡しても、「発展的史観」と「進化論」がベースになっています。「発展的史観」とは、原始社会から、古代、中世、近代、現代へと社会のシステムは成熟していくという見方です。また、「進化論」とは、生物は下等なものから高等なものへと進化してゆき、環境に適合できるものが生き残っていくというものです。
しかし、聖書の記述は全く違います。歴史は「神の園エデンからの追放」で始まっています。すべての生きものははじめから「種類に従って」作られており、高等な生物に進化することなど絶対ありません。これは、「観」とか「論」ではないのです。みことばです。みことばは納得するべきものではなく、信ずるべきものです。
私にも、聖書的な「観」や「論」が弱いからダメなんだと思っていた時期があります。例えば「創造論」で「進化論」を喝破してそれから福音だというように。キリストを弁護しようと必死だったわけですが、うまくはいきませんでした。この間にいろいろ考えたり苦しんだりしたことは多少役には立っていますが、霊的な収穫はゼロです。私はキリストに弁護していただく者でありながら、キリストを弁護しようとしていたのですから、うまくいくはずがないわけです。
天の御国が「能力至上主義」なら、創造された段階ですでに救われる見込みのない人がいるでしょう。しかし、天の御国は、すべての人に対して開かれているはずです。「神にはえこひいきはなく、神はすべての人が救いに至ることを望んでいる」と書かれているからです。私はこれらのみことばを単純に信じています。なぜそれが信じるに足るのかを示すことは出来ません。ただこう思っています。この世がこの世だけで完結してしまうならば、そこには平等も正義もないと。そんなありもしない価値を追求するのは愚かです。ある人は「平等や正義が見あたらないから神も救いもない」と言います。「天国など無意味だ」「好きにやればいい」と。でも、私はそうは思いません。死とその後の復活の世界があるからこそ、平等や正義を信じることにも意味があります。この目に見える世界の不条理や矛盾を人の子イエスが十字架に負われたことが、私にとっては唯一の希望のしるしです。

私は「選びの教理」について神学的なことを論じようとは思いません。誰もが理解できるこれらの単純なみことばが説明している範囲がすべてだと思っています。それ以上のことはわかるはずもないのです。私たちは誰かの代わりに信じることも、誰かの代わりに拒むこともできせん。救いというのは極めて個人的なものです。あなたにとって、私にとって、「人の子イエスは神の子キリストであるかどうか」ということに尽きるのです。
救いの門は、その人の能力に関係なく、すべての人を対象に開かれていることは間違いありません。その人が神の定めた信仰の基準をクリアさえしていれば、「誰であれ無条件に」この神の赦しを受けるでしょう。募集人員何人とか、競争率何倍とか言うように、枠が決められていて、点数の高い人から順番に選抜されるわけではないのです。

しかし、「誰であれOK」の無条件であれば「広い門」のはずですが、やはり「狭い門」なのです。それはなぜでしょうか。私には、「見かけ上の狭さ」と「結果として狭さ」のふたつの意味があるように思えます。
「見かけ上の狭さ」は神の意思であり、その責任は神にあります。「結果として狭さ」は人の意思であり、その責任は人にあります。見かけ上の狭さとは、「人の慕うような見ばえ」や「世間の保障」がないことです。(イザヤ53:1~3)人の慕うような見ばえの華やかさや、世間の高い評価があれば、人はその真贋を見極めようとはせず、その実質を見ることなく、迷わずそれに飛びつきます。ですから、神は必要最低限の実質を残して、それ以外のすべての価値を放棄されました。それゆえ、キリストに付随するものは、ダサくて、格好悪くて、恥知らずで、最低なのです。これが、絶対的価値をあえて、相対化された救いの門の「見かけ上の狭さ」です。その貧しい門を見る限り、その奥にすばらしい世界が広がっているとは思えないほどのみすぼらしさだということです。その門を選ぶこと、それを選んで中に入って行くことにはかなりの勇気が必要です。イエスは問います。「あなたがたはわたしを誰だと言いますか」(マタイ16:15)答えはキリストに決まっているわけですが、同時代に生きる人には、ナザレの大工は神が遣わされたキリストに思えないわけです。真実の救いの門イエス・キリストの狭さの本質とは何ですか。それはこの御方が限りなく「人」であることです。そして、「無力」だということです。この人としてのイエスの無力さをかき消すようなことば、特別な力やこの世の成功を語る宣伝は嘘です。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というタケシのネタは、「間違ったことでも、全員がそろって間違えば価値を逆転できる」というこの世の真理を言い当てていますが、救いの門はみすぼらしい上にひとりずつしか通れない門なのです。誰かと横並びでは進むことも、退くことも出来ません。
門を通ってきた人たちが、門を越えた向こう側で集まり交わるのはよいことですが、門の手前で群れを作って、みんなで通るための広くて華やかな門を人工的に作ろうとする営みは馬鹿げています。「結果としての狭さ」とは、「人はその門のみすぼらしさのゆえに門の存在に気づかない」あるいは「気づいても引き返す」そうでなければ「別の門を作る」ことによって、入れるのに入れない人が出てくるということです。門の周辺でうろうろしながら門を通っていないので、それが閉じられてから、「入れてくれ」と叩くというようなことが起こるわけです。

「狭き門のくだり」を、山上の垂訓の流れの中でもう少し読み深めてみましょう。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)とあります。つまり、「求めること」「捜すこと」「たたくこと」必要なものを得るための条件です。条件はそれだけです。「だれであれ」(マタイ7:8)だいじょうぶなのです。
なぜでしょうか。神は人を、父が子を思うように憐れみ、最上のもの与える備えがあるからだと言うのです。(マタイ7:9~11)お金も特別な能力も要りません。しかし、本気で「求めること」「捜すこと」「たたくこと」が必要です。大事なのは、「私たちを満たす本物」に対する渇きです。罪人や取税人たちの多くが、パリサイ人や律法学者より先に、狭い門を通れたのは、彼らは求め、捜し、たたいたからです。そして、彼らは孤独でした。派閥や権威に守られて孤独や不安を解消している人は「キリストは不要です」と宣言しているのです。上級公務員や、○○党、××派などという派閥、牧師センセイなどの権威の鎧を着て、なかまを増やすと、それこそ「狭き門」は通れないし、個人の常識で判断できることさえわからなくなるほど、恥知らずなまでに感覚が麻痺してしまうのです。
にせ者はたくさん存在するし、最後には自分がにせ者である自覚のない人たちが、門前で追い返される記事を目にします。(マタイ7:15~23)(ルカ13:25~27)
救いの「狭き門」は、この世の価値を逆転させます。なぜなら、「救いは人がただ救われるために備えられてはいない」からです。「狭き門」は救いとは何であるかという本質を示し、絶えず私たちの信仰に問いかけています。私たちが自分の人生の問題を解決し、幸せへの通過点としてパスしようとしているなら、跳ね返されます。「狭き門」の本質は「死の門」であるということです。この門を通過するときに、父なる神が、イエスの十字架の死の中に、イエスと私のいのちと本質を同一視してくださるのです。だからこそ、門の向こう側、つまり蘇りの世界で与えられるものに意味があるのです。