2008年6月5日木曜日

5月18日 家と神殿 (イエスのたとえ話 ⑬)

ヨハネ2:13~21

今日ともに分かち合うところは、いわゆる「たとえ話」ではありませんが、このシリーズのはじめにお話したように、私がみなさんにお伝えしたいことは、単にたとえ話の解釈や適用でありません。みなさん一人ひとりが、私たちが経験しているこの世の出来事を、ひとつの大きなたとえや疑似体験、つまり霊的な実体の「型」としてとらえるという視点を持つことの重要性についてです。下から上を見上げるのではなく、上から下を見下ろすような感覚を持っていただきたいのです。私たちをとりまく状況や私たち自身は、信じても何一つ変化していないように感じるかもしれませんが、「私たちはすでにキリストとともによみがえり天に座しているのだ」という事実を出発点にするのです。そうした視点から、日常の生活の中で私たちが遭遇する様々な出来事とみことばを具体的にリンクさせることによって、霊的な祝福を実体化することができます。気がつけば、目に見える状況も私たち自身もよみがえりの力によって変えられています。それは、自分で「変わろう」「変わらなきゃ」と思ってもかなわなかったことですが、神がそうしてくださるのです。つまり、「目に見えないみことばの現実」を見つめる信仰を通して、「目に見える経験の現実」を評価することがどうしても必要です。だからこそ、「たとえ」の正しい理解が求められるのです。「たとえ」がこのふたつの世界をつなぎ解き明かすからです。前回は「家と土台」について分かち合いましたので、関連するテーマでお話してみたいと思っています。今日は「家と神殿」という主題です。「家」も「神殿」も、イエス御自身と私たちのからだを指している重要な型ですが、それぞれの表現には異なる意味合いがあります。今日のメインテキストは「宮きよめ」と言われている箇所です。およそ3年間にわたるイエスの公生涯の中で2度の宮きよめがあったことはご承知だと思いますが、それは、公生涯に出られた間もない頃と、十字架に架かられる直前の頃の2回です。ヨハネは前半の出来事について書き、マタイ、マルコ、ルカは後半の出来事について書いています。
「わたしの父の家を商売の家としてはいけない。」(ヨハネ2:16)とイエスは言われました。イエスは宮にいる牛や羊や鳩を売る者たちや、両替人を蹴散らして怒りを露わにされました。それは病人を癒し、幼子を胸に抱くやさしい御方とはまるで別人のような形相だったに違いありません。罪深い女や取税人が心を開いて近づけるほど心の広い御方のイメージとはかけ離れた行動のようにも思えます。何がイエスをそれほど怒らせ、通常の感覚からすれば、極端に思えるような激しい行動へと導いたのでしょうか。一般常識から見れば、イエスの行動は常軌を逸したもので、営業妨害、器物損壊にあたります。やられる側からすれば相当な迷惑です。今日の近代民主国家であれば、誰であれ、他人に対してこのようなことをする権利は持ってはいません。当時のエルサレムにおいても、ローマ皇帝でも軍でもないのに、同じユダヤ人どうしでいきなりこのような破壊行為に及んだわけですから、やられた者たちは、イエスに対して「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのか」と問うのは、ある意味正当で冷静な反応です。牛や羊や鳩が宮で売られていたのは、生贄にするためです。生贄には、律法の規定に従って最良のものを捧げなければありませんでした。しかし、実際には病気のものや不完全なものが堂々と捧げられていたようです。生贄ということは、すぐに殺してしまうのです。だから、家畜としては価値の低いものを捧げたのです。旧約の最後の預言者マラキの書を読めば、当時の形骸化された礼拝の様子がよくわかりますし、それは、時代を超えてすべての人が何を悔い改めるべきかという罪の本質が指摘されているように思えます。(マラキ1:6~14)両替人たちのやっていたことは、汚れたローマ帝国通貨をユダヤ通貨に両替することです。表向きは礼拝のためですが、その実はお金儲けです。上手に商売をしてお金を儲けることそれ自体は、決して卑しいことでも犯罪でもありません。「不正な管理人のたとえ」では、その抜け目ないやり方は賞賛を受けているほどです。問題は、私腹を肥やす目的が第一でありながら、「神をあがめるふり」をしていることです。
自己実現や生き甲斐のためにキリスト教を利用している人々は、キリストの名を借りて自己主張しているだけです。こういう人々は、直接お金儲けをしていなくても、もっと薄汚い取引をやっているわけです。牛や羊や鳩を売る者たちは、見た目は礼拝者が生贄を捧げるためにそこにいます。両替人についても、彼らがやっていることは「両替」ですから、純粋な泥棒や詐欺ではありません。いずれも「礼拝」のためだと看板を掲げながら、「利ざや」を抜いていたわけです。そこが問題なのです。神殿に礼拝に来る人たちは、かたちだけの生贄や献金を捧げたのです。彼らに「利ざや」を抜かれ、特に「両替」という手続きを踏むことによって、日常とは切り離された礼拝のモードに入れたわけです。家という表現は、「日常性」や「親しさ」を表します。神殿という表現は、「神聖さ」と「特別な尊厳」を表します。言わば、この両替という手続きが、「家」から「神殿」のモードに切り替えるスイッチの働きをするわけです。愚かな指導者は、みことばを使いながら自分の権威を主張したり、自分を潤すための献金を強要したりします。自分に従うことはキリストに従うことだと、本質をすり替えるのです。キリストの贖いを着るのではなく、特別な衣装を身につけます。特別なことばを使い、飾られた祭壇から、特別な権威をもって、みことばを組織ぐるみで粉飾して語るのです。こういうものにイエスは怒りを燃やされるのです。イエスははじめの宮きよめのときには「商売の家としてはならない」とおっしゃっていますが、後の方では「強盗の巣にした」と表現を変えておられます。それは、彼らが警告を無視したことによってさらに堕落しているという指摘です。牛や羊や鳩を売る者と両替人だけでなく、それを認めて利用する人たちにも責任はあります。勿論レベルは違いますが同質の罪です。その商売を繁盛させることで偽りに加担しているからです。その手続きによって神への義理を果たしているような感覚になり、薄っぺらな宗教心を満足させるわけです。不完全な生贄を売る者も買う者も、「家」を大事にして「神殿」を軽んじているわけです。「家」のために良いものを残し、「神殿」に関するものは、かたちだけでよいと横着さがあるわけです。両替によって「利ざや」を抜かれても、その何だかわりきれない不当な算術を受け入れることこそが信仰だなどと思っているわけです。両替が、「家」から「神殿」に関することへ切り替えになっているわけです。まさに、宗教を組織化し儲ける連中と、それを利用して安っぽい安心を買おうとする人たちのあさましさが見事に描かれています。イエスは、目の前の商売人に対してだけでなく、神の神殿に関わる人たちのこのような現実のすべてに怒っておられるわけです。このとき、商売人たちは、イエスの怒りに触れて、自らを恥じ悔い改めた様子はありません。イエスの行動に対してとまどい、目に見える被害に腹を立てただけです。彼らの目にはイエスの言動はただ怒りの感情にまかせた暴挙でした。ところが、弟子たちはそれを見て、ひとつのみことばを思い起こします。それは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」ということばです。弟子たちの心に焼き付いたのは、目に見える怒りの激しさや荒々しさではなく、むしろその動機の聖さと熱意だったのです。神のまなざしは、もっぱら神の家にむけられています。この家には神の御名という表札がかかっており、神の民はその管理を任されているにすぎません。主人は帰って来てご自分の家に関するさばきをなされ、最終的に責任をとられるわけです。つまり、これは、この当時のユダヤ教の実態である以上に、今日のキリスト教の姿なのです。まあ、本質的にはそういうことなのですが、罪のただ中にいる人たちにとっては、いささかレベルが高すぎるやりとりであって、このときもメッセージは届きませんでした。今日はどうでしょうか。
イエスは、ユダヤ人たちの「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるし見せてくれるのですか」という問いに対し、「この神殿をこわしてみなさい。わたしはそれを三日で建てよう」(ヨハネ2:!8~19)とお答えになっていますが、これは人を食ったような答えで、一般的には答えになっていません。彼らは、まさかそれがイエス御自身のからだを指しているなどとは思いもしませんでしたし、イエスのからだのことだとわかったとしても、「こわしてみなさい」とか「3日で建てる」とか全く意味不明です。弟子たちにもわかりませんでした。わかるはずがありません。イエスも、この段階で「ああそういうことか」と意味を理解する者がひとりでもいると期待されたわけではありません。弟子たちがこのことばの本当の意味を理解でき、信じることが出来たのは、ヨハネが書いているようにイエスが復活されてからです。(ヨハネ2:22)ですから、イエスが神殿のことを言われても、聞いていた者は誰しもが目に見える神殿のことだと思いました。だから、「この神殿は建てるのに46年もかかったのにどうやって3日で建てるのか」と、トンチンカンな話になったのです。それは当たり前なのです。ポイントは、イエスがなぜみなが理解できないとわかりきっていることをあえて語られたのかということです。イエスは彼らを彼らの常識のレベルで黙らせてしまう別のことばを語ることが出来たはずです。たとえば、姦淫の現場で女に石を投げようとしている人たちに「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と言われたように。私はこう思います。それは弟子たちが復活後にこの出来事を思い出すためです。そして、私たちがこの記事を読んで、神の家とは何か、神殿で何を捧げるべきかを、正しく悟るためです。当時のユダヤ教のためでなく、まことの「家」であり「神殿」であるキリストの教会のためです。「この神殿をこわしてみなさい。わたしはそれを三日で建てよう」というイエスのことばは、平たく言い換えれば、「あなた方がわたしを十字架に架けてみなさい。3日後によみがえるから」ということです。「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白したペテロでさえ、「エルサレムへ行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」というよりわかりやすく控えめな説明でさえ、意味がわかってもあり得ないと思えたのです。商売人にわかるわけがないし、意味がわかればいっそう受け入れられません。しかし、この記事にもしこのことばがなければ、最良の生贄をささげ、正しいレートで両替すれば良いのだという話になってしまうでしょう。このときは、意味不明のことば、しかし、イエスが実際に十字架で死に、3日目によみがえられたことによって、確かになったこのキリストの贖いという土台にこそ、永遠の神の家、神の神殿は建つのです。その十字架の前と後の違いははっきりしています。(ヘブル3:1~6)モーセはしもべとして神の家全体のために忠実でしたが、それは、ご自分を立てて方に対して忠実であったイエスに注目させるためであり、この方が治める家こそ、まことの神の家です。旧約の時代に会見の天幕や神殿に入って、わが家にいるような安心感や交わりの親しさを感じた者は誰もいません。むしろ、そこでは自分の罪や愚かさを深く意識させられたはずです。十字架の贖いが土台で、自分の何かによらずに近づけるからこそ、そこに本当の安息があるのです。それ以外の手続き、すなわち、妙な生贄や両替制度を持ち込むのは許されぬことです。
さて、「家」と「神殿」ということばの違いについてもう少しだけ述べたいと思います。家は「日常性」や「親しさ」を表し、神殿は「神聖さ」と「特別な尊厳」を表すと申しましたが、それは私なりの表現です。みなさんなりにその表現が妥当かどうか吟味して、イメージをふくらませてください。全ては語りきれませんので、いくつかのヒントを差し上げます。イエスは12歳のときに宮詣をされましたが、家族が帰るときにはともにおられませんでした。ルカの筆によればこうです。少年イエスは、「いつ」「どこで」見つかりましたか。いつ?「3日後」です。どこで?「宮の真ん中」です。そして、イエスは両親に何とお答えになりましたか?「わたしは必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか」このことばから、イエスが自分の家を神殿の真ん中ととらえ、親たちが年中行事である礼拝を終えて、文字通り「神殿」から「家」へ帰ろうとしていたと全く違う感覚を持っておられたことがわかります。母はよく理解できなかったけれど、心に留めました。そして、この経験が十字架でわが子を失うマリヤを支えるのです。十字架の上に建つ「家」と「神殿」はひとつであるべきです。しかし、たとえの理解が不十分であれば、家と神殿は離れていきます。たとえば、聖餐式も食事の交わりから分離することによって形骸化したり、混同することで、霊的価値を失ったりします。(Ⅰコリント11:22)いつのときも、正しさのキーワードは「わたしを覚えて行う」(Ⅰコリント11:24)であり、間違いのキーワードは「めいめい我先に」(Ⅰコリント11:21)です。