2008年6月5日木曜日

5月11日 家と土台 (イエスのたとえ話 ⑫)

マタイ7:24~29  ルカ6:47~49

 エジプトのピラミッドに代表されるような古代の大きな建造物を見ると、そのスケールの大きさに圧倒されます。どうやって石を削ったのかな、どんなふうに運んだり持ちあげたりしたのかなと思いめぐらすだけでも楽しいのですが、見える部分だけでなく、見えない部分の基礎工事がしっかりしていたからこそ、何千年を経ても、その姿を今に留めているわけです。みなさんは大昔にこのような大きな建造物の土台を据えるとき、どうやって水平を測ったかご存じですか。まず建物を建てたい土地に碁盤のように溝を掘って、その溝に水を流し水面のレベルに合わせて地面を削るのです。単純ですが非常に合理的な方法です。それは、聖霊が私たちの心の凹凸をみことばの標準に合わせて導いてくださるのに似ています。
今日は「家と土台」という主題でお話します。「家」よりも「土台」の話が中心になるはずです。いくつかのたとえを見ていきますが、まず「家と土台のたとえ」を読んでいきましょう。マタイとルカはそれぞれにこのたとえを記録していますが、細かいところは多少異なっています。イエスさまがこの話をされたのは一回きりではく、同じ内容のたとえをいくつかのバージョンで何度かお話になったのではないかと私は考えています。決して弟子の記憶が曖昧なために、福音書の記事がまちまちな表現になっているのではないと思います。まして、弟子が適当に創作したわけでは決してないはずです。
まずは、マタイの福音書の記述から見てみます。「岩の上に建てられた家」は、洪水や強い風にも耐えて倒れることがありません。しかし、「砂の上に建てられた家」は、洪水や強い風が襲いかかるとひどい倒れ方で倒れました。つまり大事なのは「家」ではなく「土台」であり、その土台は「砂」ではなく「岩」でないといけないことがわかります。「岩の上に家を建てる」というのは、「みことばを聞いて行う人」のことで、「砂の上に家を建てる」というのは、「みことばを聞いても行わない人」のことを指しています。続いてルカの福音書をマタイの記事と比較すながら読んでいきます。「岩の上に家を建てた人」は、「地面を深く掘り下げて岩を置いた」と書かれています。愚かな家の建て方として挙げられているのは、「砂の上」ではなく、「土台なし」で地面に家を建てたと書かれています。また、家を破壊するものについて、ルカでは「洪水」はかかれていますが「風」はありません。また、愚かな人の家のダメージについて、マタイは「倒れ方のひどさ」だけに言及していますが、ルカは「倒れるまでの速さ」にもこだわって、「一ぺんに」(ルカ6:49【新改訳】))「たちまち」【新共同訳】ということばを添えています。共通する「岩」とは、人の子イエスは神の子キリストであるという「信仰告白」です。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」というペテロのことばに対して、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」(マタイ16:18)と主が答えられたのは、ペテロの名前やペテロ個人の権威に関することではなく、ペテロの信仰に対する評価です。その後、イエスはご自分の受難について語られますが、ペテロは「そんなことはあり得ない」と答えて、「下がれ、サタン」という厳しい叱責を受けます。つまり、正しい土台とは、岩となる信仰告白であり、それは「キリストの十字架と復活の事実」を受け入れることと結びつかなければなりません。キリストの犠牲が岩の信仰の実質なのです。ペテロが正しい告白の直後に、その告白を根底から覆すような間違った意見を言っているのはとても大事です。最初の告白は、天の父が明らかにされたのであり、(マタイ16:17)後の意見はサタンの意見です。(マタイ16:22)いずれも、ペテロ自身のオリジナルなものではないのです。
告白とは口で言い表すことですが、その告白を直後に否定するような言動は問題です。このように、「あなたはキリストです」といい口での言い表しだけでは不十分だということを考えるとき、思い出されるもうひとつのたとえがあります。「ふたりの息子のたとえ」(マタイ21:28~32)です。 お父さんが息子ふたりに「ぶどう園へ行って働きなさい」と命じます。兄は「お父さん、承知しました」と調子の良い返事をしますが、実際には出かけませんでした。弟は、「いやです」と答えますが、考え直して後から出かけます。「二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」という話です。当然弟の方ですよね。ここで弟にたとえられているのは、取税人や罪人たちです。それは「ヨハネが示した義の道を信じて従ったからだ」とイエスはおっしゃっています。
 ヤコブも、「信仰と行いは切り離すことの出来ないひとつのものであり、行いのない信仰は死んでいる」と書いています。(ヤコブ2:14~26)「魂のない肉体が死んだものであるように、行いをともなわない信仰は死んだものです」(26) 父が命じた仕事は、ぶどう園へ行って働くことです。ぶどう園は、神の祝福そのものを表しています。「私たちの働き」は、いのちであるぶどうの木につながり、みことばにとどまることです。ぶどうは、からし種のように不自然に大きな成長をしません。背は高く上に伸びるのではなく、一定の高さで横に広がるのです。その実は房状になって、ひとつひとつは実を主張しません。それがぶどうのいのちの特徴です。祝福を受けるとは、楽をして遊ぶことではなく、主と共に労し、兄弟たちとともにその恵みにあずかることです。
 先週見た「放蕩息子のたとえ」の場合は、放蕩の限りを尽くした弟が我に返り、悔い改めて帰ってきたことは、「交わりの土台」となりました。弟は父のところへ帰ってくるという具体的な行動によって、父に対する信頼を明らかにしたのです。その土台は弟の側の罪の告白と行動によって完成されたのですが、父の側の「赦しと贖いの備え」がなければあり得ないことです。考えてみてください。弟は自分ではどうしようもなくなってただ父の力と憐れみにすがるために帰ってきただけです。父の元にいて「財産の分け前をください」と要求したときとは、全く違う態度でお願いするためです。自分が父から何かを得られるとしたら、それはもらう資格がないもの、すなわち「恵み」であることをちゃんと理解したわけです。この認識が交わりの土台に必要なのです。一方兄はずっと父のそばにいましたが、交わりの土台がありませんでした。自分は忠実なのだから父は自分を評価すべきだと考えていました。このように土台のないところに、奉仕の家を建てていたのです。ですから、ろくでもないと思っていた弟を受け入れた父を見て、怒りと不満が爆発します。兄にしてみれば、日々の奉仕という建てかけの家は、弟が帰ってくるという突然襲ってきた洪水のような出来事によって流されてしまったわけです。
賢い建築家であったパウロのことばに学びましょう。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」(Ⅰコリント3:10~11)パウロの仕事は建築にたとえれば、「家」を建てることではなく、「土台」を据えることだったと言っているのです。しかも、それはパウロのオリジナルではなく、「すでに据えられている土台を据えただけだ」と言っているのです。それは、「家を建てるものたちが捨てた」ことによって礎石となったのです。パウロはその捨てられた石であるキリストをみことばのとおり礎石としたということです。この礎石の上に何を建てるかということよりも、この素晴らしい礎石が据えられていることに感謝すべきです。もし、私たちの働きが金や宝石の建物にたとえられるようなものだとしても、その建物の中に主が住まれるのではありません。私たちが神殿であって、そこにこそ主は住まれるのです。(Ⅰコリント3:12~17)「火が各人の働きの真価をためす」ということに怯えたり不安になったりする必要はありません。私たちが神の神殿であることを喜ぶことの方が大切です。
もう少し土台を据える条件について考えてみましょう。「土台となる岩」を置くためには、「地面を深く掘り下げる」ことが必要だとルカは書いています。(ルカ6:46)種まきのたとえでも、土の浅いところに落ちた種はすぐに芽をだすが、根がないために枯れてしまいました。「地面を深く掘り下げる」とは、みことばに照らして人間性をしっかり見つめるという作業です。神の義に触れ、自分の罪を見つめ、悔い改めるということです。みことばによって深く掘り下げられた心には神の光が差し込みます。そこではじめて罪がわかり、神の贖いの必要を感じるのです。
「ぶどう園に行って働け」と言われた弟は、なぜすぐに「はい」と言えなかったのでしょう。また、後から何を思い直して出かけたのでしょうか。そればバプテスマのヨハネのメッセージと関係がありました。(マタイ21:32)「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての谷と丘は低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が神の救いを見るようになる」(ルカ3:4~6)これがヨハネのメッセージです。このたとえの中の弟とは、取税人や遊女たちでした。彼らは、ヨハネの語ったみことばが正しく、自分たちは間違っていると感じたのです。そして、水面に合わして地面をけずるように自分自身を掘り下げたからこそ、平らになり、その上に贖いの礎石を置くことが出来たのです。悔い改めがなければ贖いを受けることは出来ません。キリストという土台を据えるための本当の信仰告白は出来ないのです。
すべての家の混乱は、土台が異なっていることに起因するものです。すでに据えられている土台は、「家を建てる者たちが捨てる石」です。それはキリスト・イエスです。どの教会もキリストが土台だと言うでしょう。果たしてそれは本当でしょうか。それは、まず、深く己を掘り下げるところから来る「悔い改め」であり、「信仰告白」であり、「私ではなくキリストによる行い」を伴っているはずです。それらをすべて同時に満たすのは、私たちとキリストをつないでひとつにする十字架の死そのものを受け入れることです。「私ではなくキリストによる行い」と言いましたが、今日のメッセージの中心になった「家と土台のたとえ」は、いずれもいわゆる「山上の垂訓」とよばれる一連のお話の結びとして語られたものです。山上の垂訓を罪人である私たちが行うのことは不可能です。律法で聞いていた基準よりもいっそう高い道徳性を示されて、それを自分なりに薄めて目標にするのは、それこそ「お父さん行きます」と言って実際は行かないようなものです。正しい反応は、「私には無理です。でも、これを命じた方自身が私を通して行ってください。」私の正しい行いの可能性を見出すことができるとしたら、それはキリストのいのち、キリストの恵み、キリストの力なのです。
このように考えてくると、私たちの伝道奉仕や信仰のあり方という建物よりも、私たち自身がその土台にふさわしい神殿そのものであることを喜び、そこに住んでくださる主がご自分のいのちを表現してくださることを期待するはずです。ところが多くの場合、「私たちが神殿である」という事実をそれだけでは十分だとは感じず、さらなる伝道奉仕や正しい信仰のあり方を追求しようとしているのではないでしょうか。教会に問題が起こるのは建物が悪いのではなく、土台が間違っており、腐っているからです。建物は立派に見せかけるために、どんなにリフォームしても、それは何の解決にもなりません。既に据えられている土台をそのまま据えることが大事なのです。そしてそこにとどまることが大事なのです。人間的な動機で家を建てるものたちは、見捨ててしまう石、それが十字架の霊的な意味です。十字架はキリストの死であるとともに、同時に私たちの死です。私たちがキリストの死とともに終わらなければ何も始まりません。「家を建てる者たちが見捨てた石。それが礎の石となった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」(マタイ21:42)