2007年8月27日月曜日

7月29日 知られない神に

 「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」(使徒17:21) このアテネ人の暮らしぶりの描写は、簡潔にして本質をついています。これは当時のアテネのみならず、古今東西のあらゆる神無き文明の虚しい奢りを表すものだと言えるでしょう。今日の日本にもぴったり当てはまりそうです。彼らは、退屈をしのぐ刺激の強いものや流行のものを追い求めたのです。
 アテネには、人が欲するあらゆるものが溢れていました。アテネは古くから、古代世界における科学、芸術、哲学、スポーツの中心地です。オリンピック発祥の地として知られていますし、現在もギリシャの首都であり、初めてギリシャを旅して、アテネに立ち寄らない人は殆どいないでしょう。BC404年、ペロポネソス戦争でスパルタに降服し、BC86年にはローマの支配下にありましたが、それでも、アテネの住民はその高い文化を持っていました。パウロと論じたエピクロス派やストア派というグループの人々が出て来ますが、これらの著名な学派から学ぶために、ローマをはじめ周辺の町から多くの人々が集まっていたようです。ですから、外国人もただ何となくそこに住んでいるだけでなく、情報発信基地であるアテネに憧れて住んでいる人たちなのです。
人は都会を求めます。自分たちの欲望をかなえるシステムをこしらえます。言ってみれば、都市は「巨大な遊園地」です。そんな遊園地のアトラクションよろしく、飛び入りのパウロの話も聞いてやろうと、アテネの有識者たちは最初は余裕を見せたのでした。彼らがパウロの話を聞きたがった動機は、その「新しさ」「珍しさ」でした。
 アテネには、偶像があふれていました。偶像は神の属性を分解して、神以外のものに結びつけることによって誕生します。パウロは心に憤りを感じたのです。このような霊的な憤りを持つことは大事な感性だと思います。これは、聖書以外の教えやそれを奉じる人々を敵視して目くじらをたてることとは違います。イエスさまの栄光が忘れ去られ、横取りされ、踏みにじられていることに対する悲しみ、祝福と恩恵をただ取りしながら、その愛に気づくことなく、その良いことがこれからも続くように、災いを避けられるようにと、別の権威を祭り上げていることへの痛み、そして、そのシステムを利用して、利益を得ようとする人たちへの怒り、またそこにはめ込まれて疑問を感じない多くの群衆への憂い、そういう思いがこの憤りの中にはあると思います。
しかし、パウロは冷静に、アテネの人たちのプライドを傷つけずに福音を聞いてもらおうと、さらに優れた知恵でメッセージを組み立てました。まず、彼らの宗教心を褒め、話の糸口を見つけようとしています。そして彼らの拝むものの中にあった「知られない神に」と刻まれた祭壇に注意を引きつけます。アテネの人々は考え得る限りの神を作りだし、自分たちの拝みたいものを拝んでいました。しかし、自分たちが拝み忘れた神もあるいはあるかも知れないという一種の洒落のような感覚で「知られない神に」という祭壇を設けていたのでした。おそらく、それはまともな信仰の対象ではなく、誰もが顧みることのない祭壇だったでしょう。そういうものがあることを知らない人、忘れている人もいたと思われます。しかし、パウロはアテネに評価できるものがあるとしたら、この祭壇しかないと見たのです。「あなたがたが生み出した神以外のまだ知らぬ神こそが真の神であり、唯一の神である」とパウロは、逆手にとって論じるのです。パウロはギリシャで尊敬されている詩人のことばも引用しつつ、語るべきことを語り終えます。語るべきこととは、「お立てになったひとりの人イエス」のことであり、「死者のよみがえり」のことです。逆に言えば、これ以外のことはそれほど重要ではありません。私たちも福音を伝える際に、どうでもいいような枝葉のことを語っていることが多いことに気づかされます。パウロは、アテネの人々に媚びたのではありません。きちんと語るべきことをまっすぐに語っています。
「しかし」と言うべきか、「だから」と言うべきか、アテネの人たちは、死者の復活をあざ笑いました。(使徒17:32)この世の宗教は、いのちの福音とは全く異質なものです。多くの人が似ているところを論じたりしますが、似ているところを論じても始まらないのです。本質的な違いを語ることができなければ、よく似ているのであれば、「別にイエスさまでなくてもいいじゃないか」ということで落ち着いてしまいます。
何度も繰り返してお話していますが、宗教というのは人間の発明品です。それは、「下から上への上昇のベクトル」です。人間が神のように、よりすぐれた者になり、名をあげるための教えや救いです。ここで常に問題になるのは、善と悪の葛藤とそこから生じる努力です。「アダムとエバの食べた実とその隠蔽のためのいちじくの葉」、そして、「カインのささげもの」さらに、「バベルの塔」が、人間の宗教のモデルです。一方、福音は「天から地への下降のベクトル」です。人は神になることができないので、神が人となりました。人は自分で罪を贖えないので、神が罪を贖ってくださった。これが福音です。そこには人が準備するものは何もなく、善悪の葛藤もなく、ただ神による贖いといのちと祝福があります。「アダムとエバの腰を覆った皮の衣」「アベルのささげもの」そして、「天から地にむかってかけられたヤコブのはしご」が福音のモデルです。
アダムとエバは神の園エデンに住んでいました。彼らは善悪を知りませんでした。善悪を知らない人間が、「自分は何者であるのか」「どう生きればいいのか」そうした意味や善悪を問うことなしに生きていたのです。これは、とても不思議なことです。行為の意味を問うことのない世界、善悪の葛藤のない世界には、悩みなどないでしょう。まさにそういう世界がエデンでした。ところが、人は罪を犯し、善悪を知り、己を知ったのです。「裸であることを知った」と書かれています。善悪を知るということは、自分を客観的に見ることです。悪を知っただけでなく善も知るからです。神を知らずに己を知ることは不幸です。宗教は、こうした葛藤のひび割れから生まれてくるのです。
ですから、宗教から解放されるためには、「善悪の葛藤」から解放される必要があります。エデンにいたアダムとエバのように善悪を問うことなく、神の恩恵に浸っていることが大事なのです。しかしながら、神は贖いによって、ただ単にエデンの状態を回復しようとしておられるのではありません。十字架がエデンを回復するためだけのものなら、人間が罪を犯したことは「単なる失敗」であり、十字架は人間の失敗を帳消しにするための「本来必要ではなかった行為」言わば、「後から付け足した計画」になってしまいます。聖書を見る限り、十字架というのは、そんな安っぽい救済の手段ではありません。福音は、もっともっと壮大な計画なのです。神は世界の基の置かれる前から、つまり、エデンの園などどこにもなく、そこに、まだアダムもエバもいないときから、ご自分の助け手として、神の理解者としての存在を産み出そうとされた計画なのです。善悪を知り、己の裸の恥を思い知った上で贖われた者の喜び、神がしてくださったことの意味とその価値を知った者の喜び、感謝、礼拝は、エデンにいたときのアダムやエバとは比較にならないほど深いものです。これが福音の大きさです。
自分の悩みの解決や地上での生き甲斐に心が集中している者には、そうしたスケールでの福音は心に届かないでしょう。「このことについては、またいつか聞くことにしよう」(使徒17:32)となるでしょう。
 ギリシャ人の価値感は、現代の先進諸国の価値観へとつながっています。そこで崇められるのは、美しいもの、強いもの、能力のあるものです。それら中の特に優れたものが賞賛を受けます。知・真・善・美・そして、力といった本来神の属性であるものをバラバラにして、造られた者に貼り付ける勲章にするわけです。イエスさまは、そうした神の属性をあえて封印して、人の前に現れ、そして死なれました。すべては十字架に何を見るか。果たして、イエスはよみがえり、そのよみがえりは、あらゆる死者の復活の魁となりうるか。パウロは言いました。「なぜなら、神はお立てになったひとりの人により義を持ってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒17:31)これが福音の方法であり、しかけです。それは、相対的な比較の中でいわゆる偏差値的指標として、神であることを承認される存在として来られ、みなが理性的に納得させられて、有無を言わさずこの方に服したとして何の意味があるでしょうか。福音は、世界の基が置かれる前からの永遠の計画なのです。罪を犯した人間が、傷ついた良心を癒すために発明したその場しのぎの教えと決して同列におかれるものではないのです。ですから、最も腹立たしく情けないのは、教会が宗教化することです。福音がいのちに基づいて活動するのではなく、教えになり、道徳になり、形式になることです。私たちの集まりにも、こうした危険は常に隣り合わせにあると思っています。私はみなさんの平素の暮らしぶりや心の中のことまで知りませんから、責任も持てないし、安っぽい保障もしません。宗教の出発点は何かご存じですか。先にも少し触れましたが、いちじくの葉です。その本質は、ごまかし、取り繕いです。
この世界に関するどんなに広くて深い知識を持っていようが、神がお立てになったひとりの人イエスを知らないなら、それは無知なのです。逆にこの御方を知っているなら、あらゆる知識に勝る知識、知恵にまさる知恵をもっているわけです。胸を張って証しましょう。