2007年8月27日月曜日

サマーキャンプ 子どもたちへのメッセージ 「あなたはどこにいるのか」

「あなたはどこにいるのか」
教会の子どもたちもずいぶん成長しました。今日集まったメンバーの中には、身長も親を追い越した子もいます。そして、電車に乗っても大人料金を払わないといけない子がほとんどですね。社会的にも「大人」になりつつあるわけです。
もっと小さい頃は、男の子と女の子が一緒でも裸で走り回っていましたが、今はそういうわけにはいきません。今日はこの後、宿泊しますが、たとえみんなが「気にしないよ」と言っても、夜、男の子と女の子を同じ部屋に寝かせるわけにはいかなくなってきました。
3歳くらいの子どもでも、良いこと悪いことはだいたいわかります。でも、10歳をこえ、12歳、15歳、17歳と進むに従って、「自分の裸」が見えてきます。「裸」というのは、ただ服を脱いだ状態という意味ではありません。自分のありのままの姿や能力という意味です。そういう裸の自分が客観的に測れるようになってきます。
勿論一定の年齢に達しても、幼児的万能感の強い人や、自己中心のナルシストはいます。幼児的万能感というのは、小さい頃、まわりの大人が負けてくれているのに、「本当は自分のほうが強いんだ」と思い込んだりするような性質を色濃く残していることを言います。ナルシストというのは、自分は恥ずかしくて罪深い存在だと思うのではなく、「自分はなんてきれいで、すばらしいんだろう。」と錯覚する傾向の強い人のことを指します。たいていの人は、大人になるとそんなふうには思わず、「自分はどこか足りない、不安定で、汚れた存在であること」に気づきます。そして、これはとても大切な認識です。
「アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べて人類に罪が入ったのだ」と本気で信じている人は、残念ながらあまり多くはありません。しかし、聖書はそう言っていますし、事実そのとおりです。創世記の3章を読みましょう。(創世記3:1~13)神様のみことばを軽んじ、契約を破ったふたりは、「善と悪」を知りました。「自分が裸であること」を知ったのです。これが、先ほどから繰り返している大人になることの最も本質的な部分です。だいたいこの地球上を見渡しても、服を着ている生き物なんて、人間以外にはいません。人間だけが万物の霊長だと言いながら、なぜか「服を着ている」のです。動物は裸ですが、「自分が裸であること」を知りません。人間は「自分が裸であること」を知っているので、「服を着ている」のです。「動物は裸だ」という言い方も、人間を中心に考えた比較から生まれて来た表現であって、動物にとっては迷惑な話です。動物から見れば、「どうしてそんな窮屈で不便なものを身にまとっているのだ」となります。
大人になると、今まで見えなかったいろんなものが少しずつ見えてみます。今までは絶対だと思っていた大人、例えば親にしても先生にしても、とんでもなく馬鹿で嫌な奴に思えたりします。自分の裸だけでなく、相手の裸も見えてきます。大人になると、誘惑も増えてきます。してはならないこと、やめておいたほうがよいことにもどんどん引っ張られていきます。神様を知らない人たちにとっては、それが「ばれるか、ばれないか。」「損か得か」ということが判断や行動の基準になるので、一緒に行動すると、ついていけない場面もたくさん出てきます。
今日、大人への入り口にさしかかっている君たちに伝えたいことは、神様の前の君たちの態度についてです。教会の子どもたちだから、悪いこと、恥ずかしいことをしちゃいけないよというような話はしません。もちろん悪いこと、恥ずかしいことはしてはいけません。でも、そう言われて正しく生きられるくらいだったら、わざわざイエスさまは十字架にかかる必要はないのです。
Ⅰサムエル2:26 3:18サムエルという預言者がいました。彼はダビデに油を注いだすばらしい預言者で、生まれたときから神さまに捧げられた子です。幼い頃から福音を聞いてきた君たちには、サムエルのように生きてもらえればと思いますが、みんなの母親は、多分サムエルの母ハンナほど、完全な子離れが出来ていません。勿論、父親にはもっと重い責任があります。親たちもさらに成長することが必要です。決して子どもたちだけに重い荷物を背負わせる気はありません。
サムエルの置かれていた状況には、君たちの現状と似ている点があります。それは、とんでもない大人の権威のもとにいたということです。サムエルが仕えていた祭司エリはろくでもない人で、その子どももめちゃくちゃでした。このエリのもとで仕えたサムエルの様子は大変参考になるので、しっかり学んでください。みんなのまわりにも信用できない大人たちがたくさんいて、みんなを嫌な気分にしたりするでしょう。でも、そんな君は誰に仕え、何を大事にして生きていますか。いつも神様の声を聞いて、恥ずかしくない選択をしていますか。サムエルは、いつも主が何を自分に語ってくださるのかを聞こうとする姿勢を持っていたということです。この姿勢を見習って欲しいのです。それは、素直に従う心から生まれます。主の呼びかけに対して、「はい、ここにおります」とすぐに返事をして近づいていく、素直さです。「あなたはどこにいるのか」というのを、今日のお話のテーマにしました。あなたはどこにいるのか。「はい、この部屋にいますよ。」という物理的なことではありません。神様の問いかけです。神様は私たちがどこに隠れようが、何を隠そうがすべてをご存じです。そのことを喜んで、「神様ありがとうございます。」「私はここにいますよ。」いつも良いお返事が出来ますかという意味です。人は罪を犯すと、「あなたはどこにいるのか。」という神様の問いかけが聞こえにくくなります。仮に聞こえても、「はい。ここにおります。」と答えられなくなっているのです。創世記3章1~13節をテキストに学んでいきます。
この機会に、この箇所からわかる罪の特徴について、整理してみます。ひとつめは「取り繕うこと、ごまかすこと」です。腰のまわりの覆いは、いちじくの葉で造ったのです。これは、神様の声を聞くより先に、目が開かれてすぐにとった行動です。つまり、「裸である」という意識は、「正しく覆われていない」ということです。
2つめは、「神様ではなく自分を見ること」です。いいですか。善悪の知識の実を食べたから、衣服をはがれたのではありませんよ。人間は造られてからずっと裸だったわけです。善悪を知り目が開かれたので、自分たちが裸であること気づいたのです。3つめは、「恐れること」です。罪が入った結果、人はいろんなものを恐れるようになりました。4つめは、「隠れること」です。罪が入った結果、きよい神様のまなざしに耐えられなくなった人間は、隠れても隠れきれないのに、とにかく、神様から逃れようとする性質を持つようになりました。5つめは、「責任転嫁」です。男は女のせいにして、女は蛇のせいにして、「ごめんなさい」とはすぐに言えなくなっています。罪の結果、多くの夫婦はバラバラになってしまいました。 創世記4章に入ると、壮絶な兄弟げんかが起こります。(創世記4:1~8節)実は、人類最初の殺人は兄弟どうしによるものでした。人類ではじめて死んだ人は、老衰でも事故でも病死でもなかったわけです。カインにはアベルを殺すつもりはなかったでしょう。そもそも人が死ぬと言うこと自体どういうことだかわからなかったのです。カインは神様へのいけにえのことで、弟が神様に受け入れられて、自分が拒まれたことに腹がたったのです。カインの間違いは、神様と自分の関係のまずさを兄弟との関係に置き換えたことです。これは罪の5つめの特徴である責任転嫁ですね。カインもアベルもアダムとエバの子どもです。自分たちの失敗と神様の贖いの方法をふたりは幼いころから聞かされていたはずです。(創世記3:21)だから、アベルは信仰によって正しい捧げものを捧げることができたのです。しかし、カインは失敗しました。ふたりが聞いていたのは、いちじくの葉ではなく、皮の衣で造られた着物の話でした。裸を覆うためには、罪のない動物の血が流されなければならないことを、ふたりは子どもたちに伝えていたのです。
人間にとって一番大事なことは、神様との縦の関係です。人との横の関係は、縦の関係がうまくいかなければうまくいかないのです。「横」という漢字を含むことばにも、「横着」「横暴」「横やり」「横流し」「横取り」など、あまり良い意味のものがありませんね。
イエスさまは言われました。「昔の人々に『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって、『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21~22)
幸いみんなは一人っ子ではなく、兄弟姉妹がいるので、その関係の中で、「自分がいかに罪深いか」というのを毎日感じることができるはずです。いいですか。これが兄弟げんかでどちらが言い分があるかという話ではないですよ。私たちの心の中をご覧になるイエスさまがお話になったことばが基準です。
神様が問われるのは、私たちの心の思いや動機であって、「結果」ではありません。思いや動機が正しければ、結果は神様が変えることがおできになります。私たちが足りない部分も祝福して補ってくださることができます。一番大事な神様との縦の関係をしっかり保ち、その上で、横の関係についても大事にしていってください。縦の問題は簡単ですが、横の問題は複雑です。しかし、簡単な縦の問題が解決できれば、難しい横の問題は考えなくても、自然に流れていくのです。
今日は「あなたはどこにいるのか」というテーマでお話しました。毎日、神様はみんなのことを呼んでいます。子は親をさがし、親も子をさがします。そこにいてくれること、笑顔でいてくれることに安心します。たとえ笑顔でも、それが間違った行為からもたらされているなら、そんな姿を発見したときは悲しくなるでしょう。神様の問いかけを聞き取り、素直に答えられるみなさんでいてください。