2007年8月27日月曜日

8月19日 この町にはわたしの民がたくさんいるから

アテネを後にしたパウロは、いよいよコリントにやってきました。コリントという都市は、南ギリシヤの政治・経済の中心でした。ローマ帝国の行政区としては、アカヤ州の首府で、そこには、ローマから派遣された総督がいました。(使徒18:12)ユダヤ人もたくさん住んでいて、会堂管理者クリスポのように一家をあげて信じる者もいましたが、反対する者たちもいました。ルカは結構スペースを割いて、アカヤ州の地方総督であったガリオの決定について触れていますが、これは当時のクリスチャンたちにとってはかなり重要なものでした。福音に反対するユダヤ人は、ローマの権威にすがり、「ローマに認められているユダヤ教の教えとは違うから取り締まってほしい」(使徒18:13)と訴えたのですが、異邦人で信仰のないガリオにとっては、それは全く関心のないことで、「おまえたちの宗教上の問題など勝手に始末をつけろ」という意味のことを言っています。要するに、アカヤ州においては、暗に福音の伝道についても、ユダヤ教と同じレベルで、容認してしまったわけです。
コリントの町は、いろんな人種が入り混じり、貧富の差が激しく、その生活ぶりは軽薄で不道徳だったと言われています。神殿にはたくさんの売春婦がおり、性的な堕落が当たり前に受け入れられていました。こうしたモラルの低さや生活のでたらめさは、みことばの基準によってその間違いを照らし出し、御霊の導きに委ねて矯正されなければ、どうにもなりません。教会の中でもその生活の腐敗ぶりは、すさまじいものでした。この世の価値観がみことばを超えて大きな影響力を持っていました。「コリント式」や「コリント風」と言えば、不節制と性の放縦を意味したそうです。これは、今日の自由主義の先進諸国でも同じことで、みことばを大切にしない信者の暮らしぶりは、とてもクリスチャンとは思えないいい加減なものになるのです。
そんなレベルでありながら、「何が正しいのか」とか、「誰が知恵や権威があるのか」とかという最もらしいテーマでは激しく争って分裂し、それ以外の些細なことでも、兄弟どうしで訴えあっていました。性的な乱れも半端ではなく、普通に遊女と交わり、近親相姦までありました。挙げ句の果てには聖餐式で酔っぱらって大騒ぎする者も大勢したようです。クリスチャンになった人たちがそういう暮らしにどっぷりつかっているような町だったのです。そんな様子は、パウロが書いたコリント人への手紙を読めばよくわかります。(Ⅰコリント1:10,3:3,5:1,6:1,6:15、11:21)
私は、この町に出来た教会に当てられた2通のパウロの手紙は、先ほども少し触れたように、今日の自由主義の先進諸国のキリスト教会にとって、とても重要なものだと思っています。いったい教会とは何であり、その中で何を大切にするべきなのかを丁寧に読む必要があります。それは、「暮らしを清く正しく」とかいういわゆる宗教的なことではありません。神のみことば全体が言わんとするところを無視して、自分たちの組織の教理に都合の良い断片に切り刻むのではなく、この当時のコリントという町に働くサタンとそれを矯正しようとする聖霊の働き丁寧に見ていくべきでしょう。当時コリントの教会に語られたメッセージをきちんと読み取って、その上で、今日の私たちの現状に正しく当てはめる必要があります。コリント人への手紙に限ったことではありませんが、背景や文脈を無視して、耳障りの良いみことばの断片だけを切り取るのは、大きな間違いのもとです。それを相田みつをのカレンダーみたいに、ぺたぺたと教会や自宅に貼るのはどうかと思うし、一部分を教会の中の式典の次第として読むのも、逆にみことばの権威を損なう結果になっていると思います。勿論、本当に必要があって個別に与えられた約束のみことばであるなら別です。でも、すりきれそうな甘ったるいことばとして、みことばを十字架のペンダントのように扱うのは許し難いという思いが、私には常にあるのです。
話は使徒行伝に戻ります。パウロが生まれてから一度も拝んだことのないような無数の偶像に溢れた町アテネの次は、口にするに汚らわしいふしだらな町コリントです。このような町から町へと遣わされたパウロはどんな思いだったでしょうか。100人教会や1000人教会を目指すような牧師や伝道師の暑苦しい使命感に燃えていたと思いますか。
主は、そんなパウロの心を一番よく知っておられ、幻によって励まされました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町にはわたしの民がたくさんいるから。」(使徒18:10)パウロはこの主の励ましのことばを握りしめながら、1年半に及んでこの地に腰を据えて神のことばを教え続けたのです。その町に主の計画があり、主の用意された民がいるかどうかがパウロの関心事でした。ただ単に少しでも大きな成果をあげるために伝道旅行をしていたわけでは決してないことがわかります。目に見える現状は、私たちを恐れさせます。それは人間の弱さの常であって、パウロであっても同じです。パウロの偉大な足跡は、パウロの知恵や力がもたらしたものではありません。イエスさまがパウロとともにおられた結果です。パウロが励ましを受けたように、私たちも神様に遣わされてここにいるのなら、私たちが遣わされている町には、私たちがまだ出会っていないだけで、神の民となるべき人たちがたくさん住んでいるのです。だから、私たちは語り続けなければなりません。黙ってはいけないのです。コリントを離れたパウロたちは、続いてエペソへ向かいます。しかし、そこには長く留まらず、カイザリヤに上陸し、エルサレム、そしてアンテオケへと移動します。アンテオケにはしばらくいましたが、また出発し、ガラテヤやフルギヤを次々に巡って、弟子たちを力づけました。(使徒18:22~23)
この一連のパウロの行動は、ケンクレヤで髪をそって立てた誓願と何か関係があるのかも知れません。具体的な誓願の内容はわかりませんが、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」と言うことばから察すると、これからの具体的な導きに関して、自分の願うところと神のご計画との葛藤の中で、心に整理をつけるために髪をそったのでしょう。当然、パウロの心の中心を占めていたのは、みこころは何かということです。みこころの中で自分は何をすべきなのかということです。神のみこころを実現していくのは、当然パウロひとりではありません。パウロの働きを補うかのように、パウロが去ったエペソにはアポロという有能な弟子がやって来ます。そして、そのアポロをさらに深い真理へと導くのはプリスキラとアクラという夫婦でした。アポロは雄弁で聖書に通じていた人物です。そ雄弁さも、ただ口がうまいというのではなく、深い学識に基づいたものだったようです。知識においてだけでなく、霊に燃え、イエスのことも正確に語っていました。(使徒18:24)彼が通じていた主の道とは、イザヤの預言にもあったバプテスマのヨハネのメッセージに要約されるものでした。(マタイ3:1~3)アポロのメッセージは間違ってはいませんでしたが、それは福音のほんの入り口にしか過ぎないものでした。それは、罪を悔い改めてキリストを待つという単純なものだったと思われます。
プリスキラとアクラは、そんなアポロのメッセージを吟味し、彼が聖書に通じていること、また、まっすぐにイエスさまを証していることに一定の評価をしましたが、まだ福音の本質や奥義に通じていないことを見て取って、彼を招いてさらに正確に神の道を伝えます。(使徒18:26)これは、非常に麗しい光景です。ここでは、人が人に屈したり、誰かが誰かを師として仰ぐのではなく、そこによみがえられたイエスさまがおられ、ただ偉大な神の道があり、みことばだけが権威を持っています。
いのちに甲乙はなく、兄弟姉妹に優劣はありません。プリスキラとアクラは、有能な働き人を教える勇気と力を持っていました。それは日々よみがえりの主を経験しているところからくる自然な流れでした。アポロもまたさらに正確な道について耳を傾ける謙虚さと真理に対する渇きや主への愛を持っていました。このような兄弟姉妹の交わりは、何と素晴らしいことでしょうか。このような交わりには、組織や派閥や肩書きが入り込む余地はどこにもありません。もし、プリスキラとアクラが、アポロを大センセイとして家に迎えていたら、こんな交わりはあり得なかったでしょう。アポロはさらにアカヤへ渡ろうという願いを持っていましたが、兄弟たちは紹介状を書いて送り出し、アポロはその期待に応え、ますます賜物を豊かに発揮する姿があります。(使徒18:27~28)
最後にもう少しだけ、プリスキラとアクラという夫婦について触れておきましょう。この夫婦は天幕づくりを職業としていました。はじめは同業者ということで、仕事をする都合で一緒に住んでいたようですが、やがてふたりは、パウロの信頼のおける信仰の友、また同労者となりました。パウロは、この夫婦を高く評価し、感謝のことばをのべています。(ローマ16:3~4)彼らの拠点として、家の教会がありました。(Ⅰコリント16:19)家の教会ですから、自宅を開放したのでしょう。家族を中心としたそれほど大人数の集まりではないでしょう。その小さな集まりを持ちながら、周辺の教会を励ましたり、助けたりしていたのだと思われます。
プリスキラとアクラがアポロに対して、さらに正確に説明した神の道とは何だったのでしょうか。大聖会を持ち、大リバイバルを導く秘策でしょうか。そうではないはずです。それは淡々としたいのちの歩みです。主がしてくださったことの大きさと深さを伝え、それぞれに恵みの測りにしたがって、みこころの中を歩むことに他なりません。パウロにはパウロの、アポロにはアポロの、そして、この夫婦にはこの夫婦のみちびきや働き、役割がありました。すべてがアーメンです。それがみこころなら、自由と喜びがあり、他の兄弟たちとも調和や交わりがあるはずです。まさに、プリスキラとアクラは、継承すべきクリスチャン夫婦のモデルです。もちろんかたちだけ真似したって意味がありませんが、同様の働きをするカップルが今日もたくさんあっていいのです。使徒18章以外は、プリスキラという名前が先に出てきますが、アクラが夫です。その理由はよくわかりませんが、信仰を持つ夫婦の間で妻が果たす役割の大きさというのを感じさせられます。
「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」(Ⅰコリント3:5~8)