2007年7月28日土曜日

7月22日 獄中の賛美


パウロはテモテに割礼を施しました。私は最初にこの箇所を読んだとき、「あれ」と思いました。割礼の慣習にこだわるユダヤ人を喝破しておきながら、いとも簡単に妥協しているではないかという印象を受けたからです。しかし、この後のパウロの言動や、晩年のテモテにあてた2通の手紙を見ると、パウロにとってテモテはどれほど大事な存在であったかということがわかります。そして、パウロは、「キリストにある自由」を本当に豊かに用いた人なのだとわかります。テモテが割礼を受けているかいないかなどは、パウロにとってもテモテにとっても本当にどうでもよいことでした。「割礼を受けなくてよい」ということは、「受けない」ほうが正しいという考え方に縛られることでもなく、「どうでもいいんだから、別に受けたっていい」ということも含んでいるのだとパウロは示したのです。割礼を受けないことで、相手の弱い良心と信仰をつまずかせるより、割礼を受けて後の良い関係を作るほうがよいだろうと考えたのでしょう。ガラテヤ人への手紙では、アンテオケにおいて、割礼のことで妥協したペテロについて激しく批判したことが書いてあります。ですから、パウロがテモテに受けさせた割礼がペテロのようにユダヤ人を恐れた妥協ではないことは明らかです。パウロの思いはこのひとことに尽きるでしょう。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:15)クリスチャンにとって大事なことは、この新しい創造の基準、すなわち、よみがえりのいのちによって歩んでいるか否かです。
「自由・自由」と口で言う人はたくさんいますが、本当に解放された自由な生き方を見せられると、けっこうとまどうものです。はっきり言って、それを見てとまどう人は本当の自由を得ていないのです。たとえば、KFCのルークさんは、自身がカリスマ化されることを嫌って、あえて「酒を飲んだ」だの、「映画を観た」だの、「プールやサウナですっきりした」だの「温泉が楽しみだ」だのと書いておられます。それは、確信犯的な自由の提言であって、「真理が人を自由にしたひとつのかたち」を示しておられるわけです。彼の日々のコメントを読んで、いろんな刺激を受け、自らを振り返る方は多いと思います。
しかし、「そういうのがお洒落なんだ」「それがホントのクリスチャンライフなんだ」と思いこんだりすると、今度はそうしたゆがんだ 基準でしかものが見えなくなり、今度は一見堅苦しく見えるけど、本当に解放されている人たちを見下したりする危険性も出てきます。 同じいのちに生きる兄弟姉妹でも、パウロのような人もいれば、バルナバのような人もいます。そして、マルコのような人もいます。さらに、テモテが割礼を受けなければ、いつまでも「彼のお父さんはギリシャ人だ」とこだわってしまうユダヤ人の兄弟だっているのです。パウロは、テモテに割礼を受けさせることで、そういうユダヤ人の信仰の弱い兄弟たちのつぶやきを消したのです。ですから、パウロがテモテに施した割礼は、人間的な妥協ではなく、与えられた自由な決定を聖霊が指示した結果だと見ます。その後の展開を見ても、「アジアでみことばを語ることを聖霊が禁じた」(使徒16:6)という表現や、「ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」(使徒16:7)という表現から、パウロの伝道の道のりが、完全な聖霊のみちびきにのっとったものであることが伺えます。それは、その辿ったコースだけではなく、その先々でのパウロの言動もまた、聖霊とともにあったと言えるでしょう。パウロはマケドニヤ人の幻を見て、アジアからマケドニヤへと完全に方向を転じることになります。パウロは確信を持って進んで行ったと記されています。
そのような聖霊の導きの中にありながら、妨害され、鞭打たれ、投獄されます。こういう状況で、人はいったい何を考えるでしょうか。おそらく、「みこころでなかったから戒められているんだろうか」というような過ぎたことについての葛藤や、「何でこんなことになるのか」という現状に対する不満や、「これから先どうなるのだろうか」と未来への不安などが、心に渦巻くことでしょう。しかし、パウロとシラスの心に沸き上がってきたのは賛美でした。彼らのまなざしは囚われた自分自身にではなく、神さまに向けられていました。ただの賛美ではありません。この賛美はただのゴスペルミュージックでも、礼拝の式次第の中の賛美ではありません。彼らは「祈りつつ」賛美を歌っていたのです。(使徒16:25)
賛美と地震の因果関係はわかりません。ある人々は、パウロとシラスの賛美と祈りの力が地を揺り動かしたのだと言うでしょう。でも私は、パウロとシラスが解放を求めて祈ったり賛美を歌ったりしていたのだとは思えません。むしろ、最善以下のことは決してなさらないはずの神が、みこころに従っている自分たちをあえて鞭打たせ、あえて獄につないだからには、何かがそこであるはずだと信じていたと思うのです。その証拠に、大地震がおこっても、とびらが開いて鎖がほどけても、驚きもせず、「今こそチャンスだ」とばかりに牢から逃げたりもしません。神のみこころの中にいる人たちは、どのような状況であろうと、神が神であるというただそれだけの理由で賛美できるのです。これは単なる私の偏見にすぎませんが、パウロとシラスの賛美が音楽的にとびきり素晴らしいものだったとは思えません。しかし、ほかの囚人たちが聞き入るような崇高な何かが感じられたのです。なぜ、そう考えるかというと、ただ音楽的に優れていただけなら、真夜中に歌われると、「やかましい」と感じるのが普通だからです。真夜中に聞かされてもやかましいと感じさせない何かがあったと考えるのが自然です。
さて、そこに突然の地震です。このような状況になれば、囚人は看守の目を盗んで逃げ出すものと決まっています。牢のあいたとびらを発見するや、看守は自害しようとしていました。パウロは大声で叫んでそれを止めます。この看守の自殺を免れただけではありません。パウロの語る福音を信じたことによって、彼と彼の家族全員が救われたのです。すばらしい証です。もし、彼が自害していたら、残された家族は何とみじめだったことでしょう。殉職と言うにはあまりにも馬鹿馬鹿しい死に方です。囚人が逃げてもいないのに、逃げたと思い込んで自らいのちを絶つのです。そんな間抜けな主人を失った妻子は、憐れとしか言いようがありません。しかし、彼は信じました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)家族全員の永遠の運命を変えたみことばです。
この素晴らしい出来事は、「獄中」でおこりました。これらの証のために、パウロとシラスは鞭打たれ獄につながれる必要があったのです。この獄中ということで、もう少し考えてみます。
新約聖書は、わたしたちのからだを「聖霊の宮」「神殿」また「幕屋」であるという表現を繰り返し使っています。それは、「私たちの存在の本質はからだではない」という意味と、「その本質を宿すからだも大切なものである」という二重の意味があります。からだがそれ自体汚れているとか、いないとかとは、全く別の次元の問題として取り上げています。  反面、旧約聖書の中には、「人間はただ生きているだけでその存在自体が汚れている」ということを意識させるような律法が細かくあります。それは、その人物がどういう人物で何をしたとか、しなかったとかいうこととは関係なく、「生まれながらの人間はそのままでは神に近づけない」ということを教えるためのルールでした。アダムの契約違反によって、人は善悪を知り、己の裸を知り、いのちへの道を閉ざされたのです。このように見てくると、ユダヤ人たちがきよめの儀式にことさらにこだわったのも、それなりの理由があったということがおわかりいただけるでしょう。この新旧の聖書の基準には何の矛盾もありません。当然ながら、神は全く同じ、変わらないきよさを保っておられます。神は、旧約では動物の血を、新約ではキリストの血を見ておられるのです。神は人間の心の動機や暮らしの隅々を、深い関心を持って見つめておられますが、きよさという点で人を評価されることはありません。人は生まれながらにきよくないのです。きよくないから、何の関係もない動物の血が必要なのです。人間が汚れを取り除くためには、無数の動物の血を必要としました。しかし、その動物の血が象徴していた神の子羊イエスの血が流されたことによって、生けにえは必要がなくなったのです。イエスさまは、世の罪を取り除く神の子羊ですから、イエスさまの血潮によって、もう罪は除かれているのです。ですから、罪や汚れという問題の葛藤へと陥るのは、十字架の意味が何もわかっていないのだと言えます。
さて、ただ一度の贖いのために、父なる神は「なだめの供え物として」の御子を世にお与えになりました。父は御子を十字架に架け、苦しみを与えるために肉体を与えたのです。永遠の神のロゴスなる御方が、人となって、肉体を持たれたとも言えます。「ことばは人(肉)となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)これは、幕屋を張られたという原語なのだと何度か申し上げているとおりです。神が肉体という牢獄につながれてくださったのです。それが人の子イエスの姿です。無限の御方が、人として時間や空間的制限を受け、みことばに服し、聖霊に導かれ、みこころの中を歩むがゆえに、人から侮られ、妨害され、そして鞭打たれ、それでもあえて肉にとどまってくださったのです。しかし、イエスさまは鎖につながれてはいませんでした。その門はいつも開かれていました。この御方は肉体の中にありながら、完全に自由でした。もうすでにおわかりのように、獄中のパウロたちの姿は、肉体を持たれたイエスさまの姿と重なって見えます。そして、自害をとめられた看守は私たちの姿です。私たちの家族も救われなければなりません。そのために、「救われるために主イエスを信じる」という意味をしっかりとらえる必要があります。
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル10:19~20)この道を通ってまことの聖所へはいることが、まことの救いです。
パウロは、肉体という幕屋にいるときの「うめき」や「重荷」について語り、さらに、「肉体にあってした行為応じて報いを受けること」を語っています。(Ⅱコリント4:16~5:10)また、「私たちが肉体にいる間は、主から離れている」(Ⅱコリント5:6)と言っています。 肉体にある状況は、決して喜ばしいものではなく、それは肉の目には「神殿」ではなく、「牢獄」です。だからこそ、私たちは見えるところによってではなく、信仰によって歩むのです。それこそが、牢獄の中の本当の賛美です。