2007年7月12日木曜日

7月8日 自分の足でまっすぐ立ちなさい

パウロとバルナバのふたりは、ピシデアのアンテオケを追い出され、東へ約80キロ離れたイコニオムへ移動します。ここでも、大ぜいの人たちが信仰にはいりました。しかし一方では、「信じようとしない人たち」がいました。(使徒14:1~2)13章で、「自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めた」(使徒13:46)「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った」(使徒13:48)というふたつの文から、みことばが聞いた人々を二分したことを見ましたが、ここでも状況は同じでした。これらの記事を見るとき、まっすぐに語られたいのちのことばは、心地よく聞き流せるようなものでも、すべての人に歓迎されるようなものでもなく、聞く人たちを混乱させる結果を招くことがわかります。聖書の真理に対して、ある人々は激しく反発し、攻撃するようになるのです。
そのことを検証するため、ヨハネの福音書からいくつかの具体的な場面を四箇所見てみます。人々は、イエスさまが奇跡を行っているときは、人々は次の奇跡を待ち望みました。また、道徳について語られると「それはよい話だ」と耳を傾けました。しかし、悔い改めやいのちに関する本質的なことについて話が及ぶと、今まで喜んで聞いていた人たちが、見事なほどに混乱する様子が描かれています。イエスさまがメッセージの核心に迫られると、直ちに、議論が巻き起こり、激しい対立が始まるのです。
例えば、イエスさまがパンの奇跡をなさって、その意味について解き明かされた場面ではどうでしょうか。「パンの奇跡は、ただ飢えた者の腹を満たすことが目的ではなく、まことの食べ物はイエスご自身の肉であり、まことの飲み物はその血であるということを教えるためなのだ」という趣旨の解説をされました。聞いていた人たちの反応は次のとおりです。「すると、ユダヤ人たちは、『この人はどのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることが出来るのか。』と言って互いに議論した」(ヨハネ6:52)さらに、「そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておれようか。』」(6:60)と反発します。そして、「こういうわけで弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」(6:66)と書かれています。
また、イエスさまが後に注がれる御霊について証されると、ここでも分裂が起こりました。「このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、『あの方は、確かにあの預言者なのだ。』と言い、またある者は、『この方はキリストだ。』と言った。また、ある者は言った。『まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る。と聖書が言っているではないか。』そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。」(7:40~43) 
生まれつきの盲人が癒された場面でも、盲人が見えるようになったことを喜ぶのではなく、そのことが安息日であったかどうかにこだわって分裂が起こります。「すると、パリサイ人の中のある人々が、『その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ』と言った。しかし、他の者は言った。『罪人である者にどうしてこのようなしるしを行うことができよう』そして、彼らの間に分裂が起こった」(9:16 )
そして、イエスさまが自分からいのちを捨てるのだと語られたときにも、当然分裂が起こりました。「このみことばを聞いて、ユダヤ人の間にまた分裂が起こった」(10:19)
これらのイエスさまを取り巻く人々の反応を見ても、パウロとバルナバの伝道の結果を見ても、いずれの場合も、真理が語られることによって、それを聞いた人たちが見事に二分されているとがわかります。真理に従う人たちには自由が保障され一致が生まれますが、その裏側では、真理に従う人たちに敵対することによって偽りの一致が生まれる構図があることがわかります。(使徒14:4)
おそらく、ルカは福音書に記したこのイエスさまのことばを思い返したはずです。「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるために来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」(ルカ12:49~53)
 イエスさまが投げ込んだ火とは何でしょうか。イエスさまは、それが燃えていることを願っておられるのです。ルカの福音書の文脈から見れば、それは、「目を覚ましていること」(ルカ12:37)「主人の心を知り備えをしていること」(ルカ12:47)とつまがります。つまり、そこに聖霊の支配があり、具体的に信仰を働かせているということです。そして、そこに分裂がおこるのは、生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れる事が出来ないからです。(Ⅰコリント2:14) 私たちがこの世の知恵ではなく、御霊のことばを語るなら、生まれながらの人間は、これに強く反発します。逆に言えば、生まれながらの人間が葛藤もなく、反発もせず、心地よく聞けたり、聞き流したりできるとしたら、それは、御霊のことばではなく、この世の知恵なのです。パウロとバルナバは、御霊のことばを語っていたので、信じる人たちも獲得しましたが、同時に彼らをはずかしめ、殺そうとする人たちも現れます。(使徒14:5)  ルステラで生まれながらに足のきかない人がいました。この人はパウロの話に耳を傾けていました。そして彼に「いやされる信仰があるのを見た」のです。 パウロは、大声で言いました。「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」(使徒14:10)生まれながらに自分の体重を支えたことなどない足です。きっと筋肉もなく、細くて短くて弱々しい足です。誰の目にも、とうてい使い物にならないと見えたに違いありません。信仰ということを無視すれば、自分の力で一歩も歩んだことのない人に対して、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」ということばはあまりにも思いやりを欠いた残酷なものです。ところが、「彼は飛び上がって歩き出した」(使徒14:10)と書いてあります。ゆっくりよろめきながら、歯を食いしばって立ち上がったのではなく、飛び上がって歩き出したのです。この後、群衆はパウロとバルナバを祭り上げる大騒ぎをしますが、そんな気持ちになるほどの奇跡でした。
「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」ということばは、もちろん、このとき、この男に対して、個人的に語られたことばです。しかし、私は主がすべての信じる人たちに語っておられるように思えるのです。イエスさまは、38年間病気だった男には、「よくなりたいか」とおたずねになり、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われました。また、生まれつきの盲目の人には、その目に泥を塗り、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と命じられました。これらの例には共通点があります。すべてのことは、主がしてくださいます。いっさいが恵みです。しかし、信仰はただ受け身ではないのです。信じた者は、自分が信じたことを表現する必要があります。神は私たちをずっと受け身でいさせるようなことはありません。信仰は「たなからぼた餅」のような祝福を受けることではありません。よみがえりのいのちによって立ち上がり、イエスさまとともに歩むことです。
いつまでも、自分の足で立とうとしない人がいます。その人は、自分の足がいかに不自由かを詳しく語ります。今まで自分は一度も自分の足で立ったことがないし、まっすぐになど立てるわけがないと考えています。そして、「誰かが自分を支えて立たしてくれたらいいのに」「誰かが手を引いてくれるべきだ」と思います。そして挙げ句の果てに、「神さまは自分をこんな足にして、その上、立たせてもくれない」と言うのです。これでは、全く状況は変わりません。自分の現状から出発して考えていたのでは、足なえはいつまでも歩けず、依然として病気は治らず、死ぬまで目は見えないままです。すべてはみことばから出発し、みことばの約束を握って一歩踏み出すことです。私たちは萎えた足で立ち上がることができます。一歩も歩いたことのない足で、飛び上がり走り回ることができるのです。自分の中の可能性はゼロです。ただ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」という命令に力があるのです。それが主によって出来ると信じれば出来るのです。信仰というのはそういうことです。丈夫な足で飛び上がってもそれは、丈夫な足の力です。一歩の歩いたことのない萎えた足で飛び上がり、歩き出すから、それは主の力なのです。
その奇跡を見た群衆は、パウロとバルナバにいけにえを捧げようとしました。それは、間違っていました。癒された本人には信仰がありましたが、それを見ていた群衆には信仰がありませんでした。確かな主のわざを見ても、それが正しく理解され、評価されるわけではありません。生まれつきの人間は、現象を賛美し、人間を崇拝します。目に見えるものにしか反応できないのです。
イコニオムでは石打を逃れたパウロとバルナバでしたが、ルステラでは、そういうわけにはいきませんでした。神様扱いされて、的はずれな賞賛を受けたかと思えば、群衆に囲まれ、石打にされ、死ぬほどの目にあっています。(使徒14:5~6,19)これは、とても不思議です。神様はいつも災いから守ってくださるわけではありません。パウロは、この問題に関しては、次のように語っています。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14:22)私たちが聞いた福音は、家族を分裂させ、多くの苦しみを経験させるものです。本当に聖書が語っていることは、調子の良い人集めのキリスト教が言っていることと何と異なっていることでしょう。私たちが語らなければならない福音は、イエスご自身です。それは、人となられた神の御子キの人格なのです。イエスさまという御方から切り離された祝福や恵みではありません。哲学でも道徳でもありません。教えではなくいのちなのです。
アンテオケに戻ってきたパウロとバルナバから、残っていた弟子たちは、異邦人に信仰の門を開いてくださったという報告を受けました。(使徒14:27)しかし、弟子たちはその嬉しい報告とともに、石に打たれた痛々しいあざや傷跡を、ふたりの顔やからだに見たはずです。パウロは晩年に、この時期を振り返ってこう語っています。「また、アンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ:11~12)
ですから、時に、逆風が吹き荒れ、つらい思いをするのも当然なのです。しっかりその中で、立ち上がり、イエスさまとともに歩みましょう。信仰の力が無力に感じるときがあるからこそ、パウロは「しっかりと信仰にとどまるように」勧め、弟子たちの心を強めたのです。(使徒14:22)