2007年7月12日木曜日

7月1日 イエスの証人

 初代教会は、ステパノの殉教に続く迫害を受けて、その難を逃れるかたちで、福音をユダヤとサマリヤに伝えました。その結果、それぞれの町に信じる者たちの集まりが出来始めました。その頃、迫害者パウロは、ダマスコの途上で目からうろこの回心を果たし、一方、ペテロによるローマのは百人隊長コルネリオとの出会いで異邦人への救いの計画について目が開かれました。 イエスを信じる弟子たちの群れは、シリヤのアンテオケで、「キリスト者」と呼ばれるようになり、次第に大きな影響力を持つようになりました。そして、町ごとの集まりは、それぞれの力に応じて助け合う交わりを持ち始めました。使徒13章は、そのような背景の下、エルサレムへの救援物資を届ける任務を終えて戻って来たバルナバとパウロが、休む間もなく、さらに新しい任務に遣わされるところから始まります。(使徒12:25)それは、本人たちの意思を超えた完全な聖霊の導きでした。(使徒13:2)いよいよ第一次伝道旅行の始まりです。  これから、たくさん地名が出てきますので、頭の中におおよその地図が描けるようになっておくと、読んでいて臨場感が増すと思いますので、簡単に示しておきます。一度に全部は覚えられませんが、知らない地名が出てきたら、どのあたりかなと地図で確認してみてください。さて、シリヤ領のアンテオケが、これから伝道の拠点になっていきます。バルナバとパウロは、地中海に浮かぶバルナバの故郷キプロスに渡り、さらにパンフリヤのペルガに入り、ピシデアのアンテオケへ移動します。これらの町は現在のトルコ領です。出発したアンテオケはシリヤですから、同じ名前ですが実は別の場所です。いずれも、セレウコス・ニカトルが父親のアンティオコスの名前にちなんで建てた町です。この13章のメッセージは、ピシデアのアンテオケのユダヤ人シナゴーグで同胞のユダヤ人向けに語ったものです。パウロは2週にわたってメッセージをしますが、2週目にはほとんど町中の人が集まり、ここでみことばを拒否するユダヤ人と受け入れる異邦人とに二分され、そこに住むユダヤ人たちに見切りをつけたバルナバとパウロは、さらにイコニオムへと進みます。21世紀の日本に生きる私たちが、バルナバやパウロの華々しい活躍ぶりを見ると、彼らの信仰の素晴らしさや賜物の豊かさに圧倒されるかもしれません。しかし、私たちも彼らと同じいのちを共有し、同じ聖霊をいただいています。今日は「イエスの証人」というタイトルにしましたが、バルナバやパウロをはじめ、私たちクリスチャンがイエスの証人たり得るのは、イエスさまの約束のみことばが支えているからです。イエスさまご自身が語られた重要なみことばの約束を確認します。
「そこで、イエスは聖書を悟らせるために彼らの心を開いてこう言われた。『次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、3日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』」(ルカ24:45~49)「イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお決めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた」(使徒1:8)
私たちは「イエスの証人」です。それは、私たちの資質や努力によるのではありません。すべては神さまの召しと聖霊にかかっているのです。宣教を支えるのは、教会の組織力でもなく、ペテロの積極性でもバルナバの寛容さでもパウロの才能でもありません。大事なのは、聖霊の力です。使徒の働きに展開していることは、これらのイエスさまのみことばの成就なのです。バルナバとサウロ(パウロ)を遣われたのは、聖霊がそう言われたからです。資格試験をしたり、話し合いをしたりして決めたわけではありません。(使徒13:2,4)サラミスでエルマという魔術師を叱責したことも、人間的な対立や感情によるものではなく、聖霊による憤りからのものでした。(使徒13:9)パウロの激しいことばは、エルマという人物の本質を捕らえ喝破しています。これは、パウロの並はずれた知識や豊富な経験から得た洞察ではなく、ただ聖霊に満たしによって、エルマの霊を見抜いたのだとわかります。
エルマは、神のことばを聞きたいと願っていた地方総督セルギオ・パウロを、信仰から遠ざけようとしていたのです。(使徒13:7~8)みことばのあるところには、常にそれを聞きたいと願う人たちと、それに敵対する人たちがいます。(使徒13:42,45)人間的な性格がどうとか、好き嫌いとか、そういうものを遙かに超えた関係性が露わになります。みことばを拒む人たちは、その自らの意思決定によって、「自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者」と決めるのです。(使徒13:46)一方、信じる人たちは、自分たちが「永遠のいのちに定められていた」(使徒13:48)ことを感謝します。この救いと選びに関するふたつのみことばは同じ事実について語っています。それは難しい教理ではありません。それは、神が決めるのではなく、証人の証の上手・下手や熱心・不熱心が決めるのでもありません。みことばを聞いた当人が自分の意思で受け入れたり、拒んだりするのです。聖書の最重要事項は、イエスを信じるか信じないかという、たったそれだけの極めて簡単な意思決定によるのであり、それがすべてです。
救いにはふたつの側面があります。ひとつは、罪からの解放であり、もう一つは、この世からの解放です。聖書の中では、罪からの解放は、出エジプトで表現されており、世からの解放は、カナンの相続で表現されています。私たちは、罪の赦しを受けてもなお、自分の資質や賜物、状態にこだわっていることが多いものです。これは「世の領域」のことです。そういうところにいつまでもとどまっていてはいけないのです。私たちが依然として自分にこだわっているなら、シナイ山のまわりをいつまでもグルグル回っている荒野でいのちを落とした人たちと同じです。こういう状態にとどまる人たちを神さまは怒っておられるのです。(ヘブル3:17)ヨシュアとカレブのように、約束の地で具体的に勝利を得るためには、信仰によってそこから抜け出す必要があります。ヨシュアとカレブは、自分たちの力を過信したのでも、とびきり勇気があったのでもありません。彼らとて、みことばの約束がなければ、おじけづく要素は目の前にいっぱいあったのです。ただ、勝利を得たふたりは、そういう自分や自分のまわりのマイナス条件を全く考えなかったのです。そういう問題から解放されていたわけです。パウロは、13章に記されたユダヤ人へのメッセージの中で、先祖の歴史を振り返りながら、こう言っています。「モーセの律法によって解放されることのできなかった全ての点について、信じる者はみな、この方によって解放されるのです」(使徒13:39)本来クリスチャンは、律法に引っかかるすべての問題から解放されていなければいけないのです。「解放される」というのは、実は、「義と認められる」という意味です。これは、欄外の脚注にも書いてあります。「解放される」というのは、これから何かが起こって義と認められるのではなく、すでに義と認められていることを知り、その事実にとどまるということです。さらに進んだ状態へ変えられることではなく、完全な立場を確認することなのです。今日多くのクリスチャンは、この「解放」がきちんと確認されていないので、「証人」としての力が弱いのです。私たちとバルナバやパウロの差はここにあります。解放されていることを日々の暮らしの中で経験して、勝利を宣言することが大事です。エルマのようなでたらめや悪巧みは許さず、にらみつけ、叱責する姿勢も大切です。
神から義と認められる確信が得られない人は、絶えず人からの承認を得ようとします。自分のあり方にも常に自信が持てないでいるので、自分の心の中で互いに責め合ったり弁明し合ったりして、いつまでも前には進めないでいるのです。この「彼らの思いは互いに責め合ったり、弁明し合ったりしています」(ローマ2:15)という言いまわしは、パウロが異邦人について語っている箇所に見られる表現ですが、福音も律法にしてしまうクリスチャンは、「ああでもない」「こうでもない」といつまでも葛藤を繰り返して、いのちの道を歩めず、聖霊の力もほとんど味わうことがありません。礼拝も奉仕も、すべてが形式的、組織的になってしまうわけです。
キリスト者であるなら、私たちはイエスの証人です。証人の理想的な態度は、バプテスマのヨハネに見られます。パウロはピシデアのアンテオケでのメッセージの中で、バプテスマのヨハネについて、次のように語りました。「ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は後からおいでになります。私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません。』兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々、この救いのことばは、私たちに送られているのです。」(使徒13:25~26)
 バプテスマのヨハネは聖霊に満ちた人でしたが、何の奇跡も起こしませんでした。この「一生を終えようとするころ」に語ったと言われる短いことばの中に彼の信仰がはっきりと伺えます。 バプテスマのヨハネが一生をかけてこだわったのは、ただ「その方」です。イエスをキリストとして紹介することがすべてでした。聖霊に満たされた人は、聖霊そのものを主張しません。「御霊はわたしの栄光を現わします。」(ヨハネ16:14)とイエスさまは言われました。バプテスマのヨハネは、「あなたはどなたですか」と問われ、自分は何者でもないと、不思議な返事を繰り返します。「私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」と問われ、ようやく答えたのが、「預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」(ヨハネ1:23)というものでした。この箇所は、イザヤ40:3のみことばです。KJVでは、『荒野で叫んでいる者』は、The voice of himです。エルサレムはherと表現されています。ヨハネは「自分は声だ」と言いました。声の主は神ご自身です。証人は「声」であるべきなのです。自分が声の主になって、主が語られてもいないことを語る人々は、イエスの証人とは言えません。
この使徒13章におけるパウロのメッセージにしても、あのステパノのメッセージにしても、まるでグーグル・アースのように、歴史全体を鳥瞰し、ものすごいスケールで、的確に語っているのに驚かされます。信仰によって神の主権と、歴史に浮かび上がるキリストの姿を見ているのです。私たちは、たぶんその最終ランナー、ゴールに近いところを走っているという自覚をもう少し持つべきでしょう。