2007年6月28日木曜日

6月24日 神の主権

 
この章を通して読まれたときに、「なぜヤコブはあっけなく殺され、ペテロは救い出されたのだろう」と考えない人はいないでしょう。そして、多分次に考えることは、「ペテロを救い出すことが出来た神さまは、どうしてヤコブも同じように救ってくださらなかったのか」ということではないでしょうか。
しかし、実はこの問い自体がすでに答えの一部を含んでいます。神さまは非常に難しい状況の中にあったペテロを、不思議な方法で救われました。それは、同時にヤコブをも救うことができたことを意味しています。ペテロもヤコブも、ともに簡単に助けることがお出来になるはずの神さまが、あえてヤコブを敵の剣から守ることをなさいませんでした。それは、神さまの主権において、深いみこころの中で行われることであって、人の思いや願いを超えています。それが「なぜ」なのかはわかりません。なぜペテロが救われヤコブが救われなかったのかという理由など、誰一人として答える事など出来ません。人は神のなさることに説明を求め、神御自身を理解したがります。しかし、神は人が納得することではなく、ただ信じることをお求めになっています。
教会はペテロのために熱心に祈っていました。教会はなぜ熱心に祈ったのでしょう。また、何を願って祈ったのでしょう。まず、「なぜ熱心に祈ったのか」という問いの答えです。それはヤコブにおこったような悲劇がペテロに及ばないようにということです。ヤコブの死が祈りを本気にさせたことは間違いないでしょう。次は「何を願って祈ったのか」という問いの答えです。もちろん、ペテロの身の安全と釈放を願ったのです。しかし実際は、ペテロ本人は獄中で寝ていますし、兄弟姉妹たちも、ペテロが無傷でただちに釈放されるなどとは全く思っておらず、獄から出てきたペテロを目の当たりにしても、なお信じる事が出来ずにいた様子が詳しく書かれています。  御使いがペテロ脇腹をたたいておこすくだりや、ロダという女中が解放されたペテロを見た驚きのあまり、門を開けもしないで中に入ってしまい、ペテロがずっと門をたたき続けていたというエピソードは、とてもリアルで、読んでいても非常におもしろいところです。4人4組の兵士合計16人が、民間人のペテロひとりを監視していたのですから、これはかなり厳重な監視です。ペテロはその監視の中で2本の鎖につながれていたのです。牢の中にも、外にも兵士がいました。洞穴に石や鉄柵というような簡単な牢ではなく、衛所が2箇所もあり、外に通じる門は鉄の門で閉ざされていました。このような脱出不可能な状況にあったにも関わらず、ペテロは何の努力もせずに脱獄できたのです。ペテロは、幻を見ているのだと思いながら、半信半疑で御使いに導かれ、町に出てからようやくことの次第を理解したのです。(使徒12:9~11)
兄弟姉妹はペテロのために祈りました。そして、ペテロは釈放されました。しかし、ただそれだけではありません。ヤコブが殺されたことによって、教会の祈りの質は、ずいぶん慎重で深い内容へと導かれたはずです。勿論ペテロが無事でいることは、一番基本的な共通の願いです。しかし、このときの教会の祈りは、「単にペテロが無事でいますように」という人間的な祈願とは、違った内容が含まれていたはずです。「ペテロがみこころの中を歩めるように」「神さまの御名があがめられるように」「ペテロがこの投獄を通してすばらしい証が出来るように」など、さらに深く主の思いに近づく祈りが捧げられたしょう。その中で、主は恵みであり、まことであり、愛であり、真実であり、はじめであり、終わりであることを告白し、主のみことばの約束に目を向け、その力強さの中に平安を見出すのです。
私たちの祈りを超えて、主がみこころのままにある人を助け、ある人を助けないのだとしたら、祈ることそのものが無意味なのではないかと思われるかもしれません。しかし、大事なことは、祈りの結果は、人の思いや願いと全く無関係というわけはないということです。ペテロのために教会が熱心に祈っていたことも、その結果としてペテロが解放されたことも事実です。多くの人は、それは偶然だと言うかも知れません。あるいは、この記事自体が作り話だと考えるかも知れません。一般の方は、御使いなるものが登場しただけで思考はストップするでしょう。ヘロデが急死したのも、神に打たれたからではなく、心臓発作か何かだということで納得するでしょう。
必死に祈っていた兄弟姉妹たちさえ、ペテロが解放されたことには驚いたのです。しかし、祈った兄弟姉妹は、それが決して偶然だとは思いませんでした。それは、確かに自分たちが祈ったからです。そして、そのことは主がしてくださったのです。このように、祈りは、神さまと私たちとの確かなつながりを教えるものです。それは、私たちと子どもたちや夫婦といった家族の関係と似ています。例えば、親は子どもが欲しがるものをすべて買い与えたりはしません。しかし、子どもに必要なものは、何でも与えうる限りのものを、ふさわしい場面で与えようとします。小さなこどもが欲しがるものは、本人にとってはとても重要なものでしょうが、それはつまらないおもちゃだったり、どうでもいいお菓子だったりします。もちろん、幼い子どもにはそうしたものも必要ですが、親は子どもの将来にわたって与えたいものを準備し、そのために働いています。親があえて子どもの欲しがる何かを与えないときには、それを与えないきちんとした理由があるのです。子どもには、そのときすべてを理解できず、ただ厳しいだけのケチな親だと見えるかもしれませんが、そうではありません。「不完全な人間の親でさえそうなのだから」という言い回しは、イエスさまも用いられました。
「してみると、あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすればなおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう。」(マタイ7:11)おそらく、イエスさまはこの話を何度か繰り返してされたはずです。マタイは、このメッセージを山上の垂訓と呼ばれている箇所にまとめて編集していますが、ルカは、弟子たちが「祈りを教えてください」とイエスさまにお願いした流れの中で書いています。(ルカ11:1~13)たとえの細かいところも、「パン」と「石」が「卵」と「さそり」に変わったりしています。これは、弟子たちが不確かな記憶をたどって書いたのではなく、イエスさまが何度もこの話をされた証拠なのだと私は考えています。ある時のお話はパンだったものが、ある時は卵に変わったりしたのです。目の前にパンがあった時にはパン、誰かが卵を持っていたら卵というように、きっとイエスさまはその都度、聞く者の理解度や関心に合わせて語られたのでしょう。そして、このふたつの平行箇所を読み比べて絶対気づいていただきたいのは、この部分です。マタイの方では「どうして、求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう。」(マタイ7:11)となっていますが、ルカの方では「どうして、聖霊を下さらないことがありましょう」(ルカ11:13)となっています。究極の良いものは聖霊です。聖霊は神御自身であり、すべてをすでに与えてくださっているのだと知るのです。
このように考えてくると、ただ単に効果や効率を考えるなら、長く熱心に祈り続けることはあまり意味がなさそうです。あらゆる点からみて、神さまが自ら予定もしていない、御自身が思いつきもしなかったことを、人間の提案に気づかされて、それを受け入れられるということは絶対にありません。また、その祈りの質の高さや熱心さによって、ある種の嘆願や署名に動かされるように、思惑を変えられるということもないのです。だとすれば、人は何のために祈らねばならないのでしょうか。また、神さまはなぜ失望せずに祈り続けることを求められているのでしょうか。
祈りは、神の必要のためではなく、人の必要のためにあるのです。すべての良きことにおいて、人が神をさしおいて出発点になるということはありません。 祈りは霊の呼吸であって、子である私たちと天の父をつなぐものです。祈りによって、私たちは父の愛と力を知るのです。何かが不足しているから、何かの問題の解決のために祈るのではなく、私たちはすでに主にあって満ち満ちており、そして何もかも十字架で完了したことを学ぶために、私たちは祈る必要があるのです。神さまのわざに不足や遅れがあるから催促するのではありません。また、立派なキリスト者のしるしとして祈るのでもありません。祈らなければならないというより、祈らずにはいられないはずです。私は祈り、そして答えられます。その答えは、常に私たちの願ったところを遙かに超えてすばらしいのです。「ああ、神の知恵と知識の富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:33~36)
最後に、後半のヘロデに関する記事を見てみましょう。ヤコブを殺し、ペテロを捕らえたヘロデは、ヘロデ・アグリッパ1世です。イエスさまがお生まれになるときに、幼子を虐殺したヘロデ大王の孫であり、バプテスマのヨハネの首を切ったヘロデ・アンティパスの甥にあたる人物です。教会の迫害は、ローマによるものではなく、ユダヤ人の指導者から始まり、ここではイスラエルの王が命令を出して、指導者のひとりヤコブを殺害するにまで至りました。続いてペテロを捕らえたのもユダヤ人指導者のご機嫌をとるための迫害でした。(使徒12:3)この後、ヘロデは演説の最中に虫にかまれて死にます。彼は栄光を生涯にわたって栄光を神に帰すことはありませんでした。そして、この件に関わったのも主の使いです。同じ死でもヤコブの死とヘロデの死は全く質の違うものです。地上での信仰や生き方は永遠を決定します。ヘロデは偉大な王の死、ヤコブは無名の庶民の死かも知れません。しかし、神の目には全く違います。大きな差があります。神の目にヤコブの死は極めて尊いのです。そして、神の主権と永遠の祝福の中では、ヤコブとペテロの祝福には違いはあっても差はありません。早死にしたヤコブへの祝福が乏しかったと考えてはいけないのです。これも大事な認識です。どんなに理不尽な迫害があっても、為政者がいかに神を知らず愚かであっても、この世界の主権者はイエスさまです。この世界に関することだけなら、働きの大きさだけを見て、祝福がアンバランスに感じられるかも知れませんが、イエスさまは来るべき世界においても、永遠に主権者なのです。ヘロデの虚栄は虫けらによって崩壊するレベルのものなのです。イエスさまは、金正日が北朝鮮に君臨するように、世界に力を行使されません。祈りがこの御方が確かに主権者であることを確信する唯一の手段です。「主の使いは、主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」(詩編34:7)私たちの回りには、主の使いがおられ、守られているのです。この約束を握っていることは、どんなすごい人脈を持っていることよりも、特約保険に入っていることよりも、安心でお得です。