2007年6月13日水曜日

6月3日 目からうろこ

 急にものごとの真相や本質がわかるようになることを、「目からうろこ」と言います。この表現は、よくご承知のように今日ともに学ぶ使徒9章が出典です。「目からうろこ」には3つ重要なポイントがあります。ひとつめは、徐々にではなく急にわかるということ。ふたつめは、その明らかになる真相や本質は常に変わらず自分の外側にあったといこと。みっつめは、遮られていたものが取り除かれることが解決の糸口だということです。「目からうろこ」が落ちたことによって、迫害者サウロが、兄弟パウロとなります。これ程劇的に人生の転換が描かれている例は他にないでしょう。「目からうろこ」ということばが、パウロから離れて一般的に世界中で使われる慣用句となったのもうなずけます。
パウロはなぜ激しくイエスさまを信じる人々をこれほどまで激しく憎んだのでしょうか。パウロにとってみれば、神が人になることなど、断じてあり得ないことでした。たとえ万にひとつ神が人の姿をとったとしても、人となった神が抵抗することもなく人の手によって惨めに殺されるということなどあり得ないと信じていたのです。ですから、イエスさまを神として信じている人々は神を侮り冒涜する者であり、そのような人たちを罰することこそ神のみこころにかなうことであると考えていたわけです。勿論、ご自分を神だと宣言されたイエスさまは、大嘘つきのとんでもない男で、激しい憎しみの対象だったのです。アナニヤのことばにもあるように、パウロの名前は情け容赦のない迫害者として、クリスチャンたちの間に知れ渡っていました。(使徒9:13)そんなパウロですが、ステパノの死後、ますます迫害の度合いに拍車がかかったようです。(使徒8:3,9:1~2)ステパノの殺害に賛成の票を投じ、その死に様を見たときに、パウロは何か特別なものを感じ取っていたはずです。ルカはステパノの殉教の場面で、証人たちの着物がパウロの足元におかれたことを唐突に記録しています。(使徒7:58)パウロはステパノを殺すことに賛成していたとも書いています。(使徒8:1)これらは、文学的な伏線といような技巧として記されたのではなく、パウロの霊的な葛藤のポイントを明確にしているのだと思います。
パウロの回心については、使徒の働きに3回出てきます。この9章の部分がルカの客観的記録だとしたら、後の2回はパウロ自身の主観的な回想だと言えます。26章におけるアグリッパの前の証言では、パウロは、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」(使徒26:14)というイエスさまの声を聞いたと言っています。しかし、9章には、後半の「とげについた棒」に関することばはありません。私は実際にパウロが聞いたことばは前半の部分ではないかと思います。後半は、そのパウロ自身が耳に聞こえたことばの裏に感じたメッセージだったのだと思うのです。「なぜ私を迫害するのか」ということばの裏側に、パウロの複雑な心のうちを察しつつ、とりなしておられるイエスさまの姿が、ステパノをはじめ、パウロが縛り上げ引きずり出して牢に入れた人々のいくつかの表情と重なったのだと思うのです。だから、クリスチャンを迫害することが正しいと信じながらも、その信念に基づいて行動すればするほど、苦しくなるという矛盾の中で葛藤していたのです。パウロはたずねます。「主よ。あなたはどなたですか。」それは疑いようもなく、自分が仕えてきた主であるとわかっていました。しかし、それはイエスのようでした。そんなわけがないという強い否定の気持ちが働いていました。
神は光です。いくら視力がよくても光がなければ人はものを見ることができません。しかし、強すぎる光は眩しすぎて見ることを妨げます。そこで光なる神は、闇の中にご自分を示され、その光を見るようにと十字架の上で輝かれました。しかし、パウロはその光についてのあかしを拒みました。その結果、パウロは目が見えなくなりました。パウロが見えなくなったのは、光が眩しすぎたからではなく、自分の視力で神を見極めようとしたからです。パウロの目にはイエスは大嘘つきか、精神異常者でした。パウロの知識、経験、彼の積み上げてきたすべてのものが、「イエスは神の御子ではない」と判断していました。しかし、自分が憎み嫌うイエスが自分が真実に仕えてきた神の声で語られるのを聞いたのです。パウロは混乱しました。それは一瞬の混乱ではなく、3日間続きました。そして飲み食いもできませんでした。まさに3日間死んだようになり、そして、アナニヤに手を置いて祈ってもらって初めて見えるようになりました。そのとき、目からうろこのようなものが落ちたのです。「うろこのような」というのは、落ちた物質に関わる比喩ですが、「目からうろこのようなものが落ちた」というのは、目が見えるようになったことの比喩ではなく、本当に物質が落ちたのです。これ以降、別に目から何も落ちなくても、思いもかけない新しい知識を得たり、考え方が少し変わっただけで、「目からうろこ」という表現を使いますが、パウロの場合は、本当に目から何かが落ちたのです。3日間、目が見えず、飲み食いも出来ず死んだようになりました。本来キリストを信じるということは、それぐらい決定的な出来事です。キリストを信じる前と後のビフォー・アフターがはっきりしていることは、当然のことなのです。人は自分が育ってきた延長線上に信仰をプラス・アルファすることは出来ません。キリストを信じることは、自ずと生活のすべてを変えるのです。それはパウロの意思や正義感の強さによってもたらされる変化ではありません。それはキリストの光がもたらす変化です。暗闇の中でいくらあがいても私たちは変わることはありません。大事なことは、恐れずに光の方に来ることです。「立ち上がって町に入りなさい。そうすればあなたのしなければならないことが告げられるはずです。」(使徒9:6)パウロには当面なすべきことだけが簡単に伝えられました。パウロは自分の予定を捨てて単純にそれに応じたのです。その結果、パウロはアナニヤと出会い、本来縛り上げて引きずり出そうと思っていた相手から祝福を受け、目が開かれたのでした。こうして、主にあって最も大きな働きをすることになる人物が誕生します。
「目からうろこの回心」はパウロ特有のものではありません。すべての信者にとって、パウロが経験したターニングポイントがあったはずです。しかし、サタンはこの事実を曖昧にしようと必死に働くのです。私たちはいつどんな風に主と出会い、どんなみことばに従った結果、何が変わったのでしょう。パウロはここぞという場面で、自分が救われた証を単純に繰り返し語りました。それはこの世の知恵者や権力者の前には、あまりにも特異な馬鹿馬鹿しい体験であると映りました。パウロはステパノよりも詳細に民族の歴史を語ることも出来、アポロよりも雄弁に論理的なメッセージを伝えることも出来たでしょうが、あえてそれをしませんでした。パウロがそこにこだわったのは、すべてのことを主がしてくださったということです。パウロは目からうろこをとってくださったのが主であることを知り、他の人たちの目からうろこをとってくださるのも主であると知っていたからです。パウロは自分で自分になったのではないと知っていたのです。勿論、説得力のある話し方や、わかりやすい解き明かしは大切です。しかし、人を変えることができるのは人の何かではなくただ主によります。主の語りかけに聞く者が応じるかどうかです。みことばを聞いた者が示された光の中へ一歩踏み出してくるかどうかにかかっているわけです。私たちは、この世での知識や経験を増せば増すほどに、両目に硬く張り付いたうろこを厚くしています。それは真実を見極めることを妨げるに十分なものです。人の目には人の子イエスの中に秘められた神の本質が見えません。人の目には神の子のイエスの中に秘められた完全な人間性が見えません。クリスチャンを自称する多くの人々は、聖霊の光なしに、当てずっぽうで嘘を言っているのです。ターニング・ポイントのはっきりしない人のことばは信用ならぬものです。その人は、聖霊のはたらきを魔術の延長線上に考えたサマリヤの魔術師シモンのように、信じてはいても信じてはいないのです。ペテロも悔い改めを命じています。「御子を信じる者はさばかれなない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったのですでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみ出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし。真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかになるためである。」(ヨハネ3:18~21)
教会の交わりの光の中で、メッセージや賛美の光の中で、自分を晒すならばどんどん変えられていきます。しかし、どんなみことばを聞いても、闇の中で心を閉ざしていては何も変わりません。私たちの目のうろこは本当に落ちたでしょうか。そのうろこは、信仰を働かせていなければ、いつもで私たちの目に張り付いているものです。私たちがみことばによらず、自分の見たところにより、知恵と経験とに基づいた過去の行動パターンで、漫然と日々を過ごしているなら、それは闇の中の歩みです。目に厚いうろこをつけているので、私たちの行く先々でともにいてくださる主が見えません。闇の中でもがいている人は、その手探りの苦労を語り、その闇の中での感情の変化に振り回されます。話の座標軸は「楽かしんどいか」「嬉しいか悲しいか」自分の状態に関することです。一方、光の中を歩む人には、常に喜びと感謝があります。もちろん、状態の良し悪しや感情の起伏はあっても、決してそれには振り回されないのです。
最後に、もう一度パウロのビフォー・アフターの違いの大きさに考えてみましょう。本当にイエスさまに出会えば、人は180度変わります。あの激しい迫害者が、最も福音の奥義を理解し、いのちがけで誰よりも広く深く福音を伝える人となるからです。 私たちは、善良でまじめに生きている人こそ福音に近い人だと思いがちです。信仰に関して取り立てて強く反対せず、一定の理解を示してくれる人たちを何となく認めてしまったりもします。しかし、人間の資質に関することや、過去の経歴などは、何の関係もないのです。イエスさまとの出会いは全てを一変させます。神のはたらきが、牧師や宣教師の子どもたちに世襲で受け継がれていくことや、自動車学校や三流大学よりもレベルの低い学校によって保障されることがいかに馬鹿馬鹿しいことであるかは、聖書をまともに読めば誰でもわかることです。
神さまはサウロを「選びの器」として選びつつ、彼の無茶な活動をある程度放っておかれる方です。(使徒9:15)さらに、アナニヤやバルナバといった優秀なしもべに、直接指示して導かれるのです。神さまの導きは大胆にして繊細です。私たちはこの偉大な御方の御手に自分を委ねれば良いのです。