2007年6月22日金曜日

6月17日 キリスト者と呼ばれて

アンテオケは、ローマ、アレキサンドリアに次ぐ当時第3の都市でした。この異教の空気に満ちたアンテオケが伝道の拠点となり、この場所で弟子たちは「キリスト者」と呼ばれ始めます。(使徒11:26)このキリスト者という呼び方は、弟子たちが自らそのように名乗ったのではなく、周辺の人たちが軽蔑をこめてつけてあだ名であったと言われています。そして、これ以降、アンテオケが教会の働きの拠点となり、エルサレムは姿を消します。兄弟たちの群れは、ナザレ派というユダヤ教の小さな異端グループから、「キリスト者」という全く新しい性質の群れとして認知されたのです。今日は、このアンテオケにおいてキリスト者と呼ばれ始めた兄弟たちの信仰の本質に迫ります。
エルサレムに上ったペテロは、ユダヤ人の兄弟たちから批判されました。批判を受けた理由は、異邦人と交わったということです。先週もお話しましたが、当時は異邦人がユダヤ人と等しい扱いを受けるという発想自体がなかったのです。異邦人が救われてキリストにあって兄弟姉妹となるなど思いもよらないことだったのです。そこでペテロは、異邦人が神のみことばを受け入れることになった経緯を説明します。「そこで、ペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。」(使徒11:4)と書かれています。10章に書かれていたヨッパで見た夢の中身が、11章でも同じように丁寧に繰り返されています。これは非常に重要な証です。パウロが自分の救いの証にこだわって何度もそれを語ったことはお話しました。「主が私をどう導かれたか」というのが、本来証のベースなのです。キリスト者はキリストの復活の証人であって、私の証人ではありません。「私が祝福された」とか、「悩みが解決した」とかは、「私の証」であって「イエスの証」ではありません。ペテロのような証をすれば、神学論争に巻き込まれることはありません。「異邦人も救われるべきだろうか」などというトピックについて論じても始まらないのです。神学の論争は、自らの主張を正当とし、そうではないものを異端として排斥します。こうして「~派」が誕生するわけです。神のみこころを人間の知恵で体系化しようとする試みは、ことごとく失敗します。「神はこれこれこうだから、かくあるべし」という主張は、常に、神の権威を借りて、人が人を支配する口実を生む危険性を孕んでいます。理屈は不毛です。イエスさまに論争をしかけたパリサイ派やサドカイ派は、結局真理に触れても悔い改めはしません。神学がもたらすものは「敵意」です。教えを守ることは律法です。いのちを生きるのが福音です。キリスト教は教えですが、キリストはいのちなのです。愛することには方法なんてありません。たとえば、「子どもを1日3回抱きしめましょう」なんて決まりに従って、親が子どもを抱きしめるなんて不自然でしょう。勿論「抱きしめることで愛情を表現することが無意味だ」と言っているのではありません。私たちはプロミスキーパーズになる必要なんてないのです。主は常に生きておられ、私たちを個別に導かれます。キリスト者とは、キリスト教の教えに従って歩む者ではなく、キリストのいのちを生きる者です。 日本史で習う踏み絵などのイメージが強烈に刷り込まれてしまっているかも知れませんが、キリストにあって生まれたものは、決していのちを失うことなどないのです。キリスト教徒は教えを捨てるかも知れませんが、キリスト者となった者はキリスト者でなくなることはないのです。子どもはいくら親不孝をしたって子どもでなくなるということはありません。子どもでいられるための条件を守ることによって、子どもとしての身分が保障されるわけではありません。
「主はこのように導かれました。以上、終わり」です。ペテロの証は単純ですが、教えではなく、体験した事実を語っているので非常に説得力があります。さらに、ペテロは自分が見聞きしたことともに、「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる」という主のみことばを思い出ことを語ります。そして、「神がなさることなら、自分は妨げるわけにはいかない」と証を締めくくります。ペテロの証は、彼を批判していた兄弟たちを沈黙させました。彼らはこの証を受け入れ、神のみこころを理解し、神をほめたたえたのです。(使徒11:18)みことばの裏付けがあることが、説得力の鍵です。たとえ3度にわたって同じような夢を見て、その夢の内容が何らかの事実と当てはまったとしても、単なる偶然かも知れません。みことばの裏付けがあることが、批判していた兄弟たちを黙らせることにつながったのです。現代における主の導きも全く同じです。聖霊がみことばと矛盾するような導きを与えることは絶対ありません。みことばと矛盾した聖霊の働きを強調する人たちは、それが人間わざではないことにその証拠を求めようとしますが、間違いです。確かにそれは人間わざではなく、サタンのわざでしょう。超自然的な出来事はどんな宗教にでもあります。そういう摩訶不思議が、陳腐な教理でも飲み込ませるオブラートになるわけです。真の神が、みことばと矛盾するような現象をおこされることは100パーセントあり得ません。神さまが私たちを導かれるときには、必ずみことばを思い起こさせます。具体的な出来事にみことばをどのように適応するかは、非常にデリケートな問題です。「汚れた動物を食してはならない」というのもみことばなら、「神がきよめたものをきよくないといってはならない」というのもみことばです。このふたつのみことばの間の関係性を正しくとらえることが必要です。後のみことばに従うなら、表面上は「汚れたものを食べる」という先のみことばに明らかに反する行為に導かれるからです。汚れた動物は確かに汚れています。しかし、神がきよめられたのできよいのです。後から語られたみことばは、先のみことばと矛盾しているのではなく、後のことばが先のことばを包み込むような関係になっているのがわかります。みことばの断片を自分の願いや現状と結びつけて、都合よく解釈する人もいますが、みことばは複数のみことばの関係性や文脈の中でしか正しく理解できません。そして最大のポイントは、イエスさまはどのような御方であるかという主のご人格です。聖霊はみことばの中にイエスさまを浮き上がらせます。みことばから道徳しか受け取らない人がいますが、その人は自己中心の傲慢さで聖霊の働きを封じているのです。
エルサレムにおける迫害が、異邦人世界への宣教を導きました。また、大ききんによって、兄弟たちが不足を補って支え合い、それぞれの地方におこり始めた教会を結びつけます。これらはすべて主が導かれたことです。迫害もききんもそれ自体は決してありがたいものではありません。しかしなから、この世で起こるさまざまなマイナスの出来事さえ、主は大きなプラスに転じてくださるのです。主が地上のマイナスをプラスに転じるためには、主に委ねられた人をお用いになります。ここでは、バルナバという人物がまずアンテオケに導かれ、そこで異邦人の兄弟たちに会います。そして、パウロを捜すためにタルソへ行き、アンテオケにパウロを連れて来ます。そこで1年間ともに教会を指導し、ユダヤききんがあったときには救援物資を送ります。このバルナバという兄弟の働きについてともに分かち合いましょう。バルナバは、「りっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。」(使徒11:24)と書かれています。聖霊と信仰に満ちているというのは、抽象的な評価ではありません。それは必ず具体的な行動となって現れるものです。まず、バルナバというのは、「慰めの子」という意味で使徒たちが彼の個性をとらえてそのように呼んでいたのです。彼の本名はヨセフです。彼は、自分のすべてをキリストと教会のために捧げた人でした。畑を売り払って、その代金を使徒たちの足もとに置いたという記述もあります。(使徒4:36~37)また、多くの弟子たちが回心したパウロを受け入れられないでいるときに、間に入ってとりなしたのも、バルナバでした。(使徒9:26~28)パウロがエルサレムに自由に出入りし、大胆に証することが出来た背景には、バルナバの助けがあったのです。 バルナバは、パウロの信仰やこだわりを最もよく理解していた兄弟です。彼はパウロとともに自分の生活費や行動の費用は自分で働いてまかなっていました。(Ⅰコリント9:6)バルナバは、「人間的な報酬をもとめず、主にゆだねてくださった仕事を淡々とこなすこと自体が報酬なのだ」(Ⅰコリント9:17~18)というパウロの信仰の誇りを指示するだけでなく、自分も同じように働いたのです。 バルナバは、他の使徒たちにとってもそうでしたが、とりわけパウロにとって、その名前のとおり「慰めの子」だったと思われます。
今日は「キリスト者と呼ばれて」という主題でお話しました。今日の私たちの姿や証はどうでしょうか。私たちの周囲の人たちは、私たちをキリスト者として見ているでしょうか。また、私たち自身は、自分をどのようなものとして評価しているでしょうか。私たちは、キリストの焼き印をおびたキリストの使節です。すべての信者はそれ以上でもそれ以下でもありません。私は、まずクリスチャン自身の自己評価、いわゆるセルフエスティームが低すぎると感じています。だから、人の評価や慰めが絶えず必要なのです。私たち自身がみことばが規定するところの自分を、信仰によって正しく評価できないのに、この世が私たちを本来の意味での「キリスト者」として、世の光、地の塩として見なすことなどあり得ません。
主につくがゆえに、信仰を選ぶが故に、嫌われてもかまいせん。しかし、何を大事にしているのかも、わからない妥協を繰り返して、この世からなめられるのはキリストの恥、教会の恥です。この世と意味無く敵対する必要はありませんが、調子を合わせてはいけません。人の歓心を買おうとする人は、教会でも用いられず、この世でも相手にされません。
私は、パウロやバルナバの信仰のゆえの誇りを大事にしたいと思っています。