2007年7月28日土曜日

7月15日 聖霊と私たち

使徒15章は、一般に「エルサレム会議」と言われている内容がその中心を占めています。ペンテコステから約20年、そして、異邦人が教会に受け入れられてから10年目くらいのことだと考えられています。ペテロが見た幻の中で示されたことは、異邦人を割礼なしで受け入れるということでした。ペテロから直接証を聞いたリーダーたちは、その事実を受け入れ神をほめたたえたことが記録されています。(使徒11:18)しかしながら、ユダヤ人のあるグループの者たちは、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていました。(使徒15:1)これは、この時代のこの問題に限ったことではありません。ここには、ふたつの大きな問題を孕んでいます。そのひとつは、「偏った教条・教理への頑なな固執」です。もうひとつは、「救いに関して十字架以外の何かの条件を付加する」ということです。この種のとんでもない間違いを、教会はその約2000年にわたる歴史の中で、延々繰り返し続けているのです。このときのポイントは、「モーセの慣習に従う」ということでした。そして、それを言い出すのはユダヤ人です。「律法の精神を守る」のではなく、「モーセの慣習に従う」という表現になっていることにも注目です。三島由紀夫は、「習慣は精神を凌駕する」と言っていますが、それは信仰にも当てはまります。人は容易に教条に支配され、形式にはめ込まれる弱さを持っています。そして、それは宗教的習慣となって、批判力や思考力を麻痺させるのです。こういう群衆の弱さを政治家や為政者たちは利用するわけです。コミュニストたちがよく言う「宗教はアヘンである」というのはまさにその通りなのです。
そして、サタンは、自分たちの救われる前の何かや、少しでも他の者よりも優位に立てる何かを盛り込ませようと、人の自尊心を刺激します。ユダヤ人にしてみれば、自分たちが軽蔑していた異邦人が、自分たちと同列に置かれることが喜びというよりは不快なのです。しかし、「それは喜ぶべきことである」という建前があるので、異邦人との差別化を図るために、救われる前に、まずユダヤ人並になるべきだと要求するのです。 これは非常に大きな問題です。十字架はすべてのものをひとつにするのです。ユダヤ人と異邦人の間の隔ての壁をぶちこわすのが十字架です。福音は、知識のある人にとってもない人にとってもローマ人にも未開人にも有効です。 ですから、信じる前の状態を強調して、キャンペーンを行ったり、グループを形成するのは、聖霊が導かれることではないというのが、私の強い意見です。ミッション・○○など、元○○だったことを「売り文句」に使ったり、過去の何事かを人間的な結束のよりどころにしようとするのは大間違いだと思っています。もちろん同じつらさを体験した人たちが、その痛みを分かち合うのはすばらしいことだし、そんなつながりの中で人が救われる可能性は高いでしょう。そういうことを否定しているのではありません。福音書を書いたマタイが救われたとき、彼は大きな宴を開きました。彼の主催だからこそ、多くの取税人が集まったでしょう。しかし、彼は取税人なかまのためにそのパーティ―を開いたわけではありません。「イエスのための大ぶるまいをした」(ルカ5:29)のです。最初の弟子たちの仲にガリラヤ漁師組合とか、売春婦同盟とか、そういうのはありませんでした。私たちの集まりだけが唯一正統などという主張もあやしいものです。コリントの手紙には、「私はパウロにつく」「私はケパにつく」というグループだけでなく、「私はキリストにつく」という人々も分派と見なされています。私たちカナン教会のスタイルは、イエスさまを心から信じて、十字架を受け入れ、あたらしいよみがえりを経験している人は、どこの人であれ兄弟姉妹であり、神の家族として受け入れるというものです。逆に、十字架以外の要素を持ち込み、「霊とまことの礼拝」を乱そうとする人は、どんな肩書きをもった方であろうと、ご遠慮願います。
また、世襲牧師が、他人の献金に支えられる生活をしながら、「自分は立派な献身者で、自分の生活を支えてくれている兄弟姉妹は世俗の手垢にまみれている。自分が相談にのったり、お世話をしたりして、面倒を見てあげるのだ」と、主にあって家族とされた兄弟姉妹を一段下に見て関係性を構築する様子は、あるべき教会の姿とは全くかけ離れています。そして、こういう職業的世襲牧師の発想の根源は、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」(使徒15:1)というのと全く根は同じです。「神学校に行かなければ牧師になれない」「仕事をやめなければ献身できない」と主張している人が、聖会などで「献身」を呼びかけることがありますが、私はいつも、全員が手を挙げたら、一体誰がこいつの生活を保障するのだろうと心配になります。こういう心配のために、教団組織から給料を出すようになるわけです。リーダーたちは、主に信頼するのではなく、そのシステムに信頼するようになります。そして、主に献身するのではなく、教団に就職する人たちが出てくるわけです。
こういう愚かな主張をする人たちと、パウロやバルナバとの間に激しい対立と論争が生じるのは当然のことです。パウロとバルナバは自分たちの考えではなく、主がしてくださったことを証します。ところが、パリサイ派で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また律法を守ることを命じるべきである」と言いました。
このさらなるパリサイ派の反発がきっかけになり、使徒たちと長老たちは、おおまかな信仰のアウトラインを出すことになりました。ここで、決められた項目もさることながら、このとき、ペテロが語ったことばは非常に重要です。このペテロの発言の前にも激しい論争があったのだとルカは書いています。(使徒15:7)しかし、ペテロのメッセージで全会衆は沈黙してしまいました。(使徒15:12)ルカは激しく交わされた論争のすべてを割愛し、ペテロのことばだけを記録しました。ペテロは、非常に平易なことばで、本質を語っています。「兄弟たち。ご存じのとおり、神ははじめのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたのと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」(使徒15:7~11)大事なことが3つあります。1つ目は、すべての兄弟姉妹は同じように聖霊を与えられており、そこには何の差別もないということです。もちろん、この世における社会的地位や能力や財産などには、驚くほどの差があり、教会の中での役割にも違いはありますが、すべての兄弟姉妹に同じ聖霊が差別なく与えられているということです。2つ目は、すべての兄弟姉妹の心は、神の御目がご覧になったとき、完全にきよめられているということです。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」(使徒10:15)のです。その事実から離れると、人は「邪悪な良心」と呼ばれるものに蝕まれます。そして、かつてペテロも口にしたことば、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)というような身勝手な謙遜に陥るのです。そういう自己の内面を見つめる戦いからは解放されるできなのです。3つ目は、すべての兄弟姉妹は、例外なく100パーセント恵みによって救われたのです。恵みが15パーセントの人も、85パーセントの人もありません。サタンは、「十字架も有効だが、あなたの何かも必要だ」と必ず言うのです。しかし、それは間違いです。十字架のみわざにあなたのわずかな何かをつけたそうと考えることは、何も信じていないのと同じくらい間違っているのです。例えば、一流の料理人が最高の料理をふるまってくれたとしましょう。あなたは、さらにそれに何かを加えて味付けしたいと思いますか。バッグの中から塩こしょうや味の素を出して、料理にふりかけ始めたら、これは料理人にとっては、耐え難いほどの侮辱ではないでしょうか。そして、ユダヤ人の提案は、「自分たちが負いきれなかったくびきを、他人の首に掛けるようなもので、それは神を試みることになる」とペテロは言っています。人は、自分の負っているものを他人にも負わせようとする傾向があります。自分が何かを我慢している人は、また、ずっと我慢してきた人は、他人にもそれを強要しようとするし、自分が耐えてきた分をプラスに評価しようとするものさしを手放そうとしないものです。それは、放蕩息子のお兄さんの弟に向けられた冷たいまなざしの中に表現されています。解放されていない牧師の病気に巻き込まれると、教会中がそのくびきを負わされることになるのです。私たちはひとりひとりがキリストのもとに行き、自分の荷をおろすべきです。そして、キリストのくびきを負うのです。
この会議で決められたことは、聖霊の導きと承認によることがはっきり書かれています。その決定責任の主体は「聖霊と私たち」(使徒15:28)です。その内容は、旧約聖書の律法の細かい規定とはかけ離れた、とても大まかで寛容なものでした。異邦人には割礼は不必要であるということ。そして、異邦人世界では普通に行われていた偶像礼拝と不道徳を避けることです。(使徒15:29)この決議内容のポイントは、「これを守れ」ということではなく、「どんな重荷も負わせない」ということです。(使徒15:28) 真理は常に信じる者を解放し、本当の自由へと導きます。聖霊の働かれるところには、自由があるのです。  その自由は、時としてすばらしい信仰をもった有能なリーダーが反目するというかたちうで現れたりもします。(使徒15:36~41)パウロとバルナバがヨハネに対する評価でもめたことを、ルカはわざわざ記しています。そのことで、エルサレム会議での衆議一決がシャンシャンと決められたのではなく、本当に高い次元の「聖霊」の一致によったものであることを現し、同時に、パウロとバルナバの選択がいずれも、明らかに間違いとは言えない「私たち」の側の選択の幅であることを伝えてくれているように思います。パウロとバルナバは、ともに主のみこころを選んで生きる人たちですから、いつまでも反目してはいません。後のパウロの手紙の中には、バルナバやマルコを受け入れ、主にあってともに労している姿を証することばがあります。(Ⅰコリント9:6,コロサイ4:10)
人間というのは、絶対妥協してはいけない部分ではだらしなく寛容になり、逆に赦ししあい受け入れあわならなければならないところで、対立しては、憎しみを募らせるものです。新約聖書がなかった時代に、初期の兄弟姉妹たちが、聖霊のみちびきに従った結果、今日の真理が保たれ、66巻の聖書が成立していることに驚嘆します。私たちが与えられた自由を、聖霊の働きを妨げることに用いないようにしたいものです。