2008年2月8日金曜日

1月27日  毒麦のたとえ(イエスのたとえ話④)

          マタイ13:24~30 36~43

毒麦という種類の植物があることはよく知られています。毒麦というくらいですから、その特徴は、まず麦によく似ていているということ、そして毒性があるということです。それは区別がつきにくいほどよく似ていて根が絡み合うので、毒麦を抜こうとすると良い麦をも傷つけてしまう危険があります。これをもしあやまって食べた場合は、吐き気やめまいや嘔吐やしびれを引き起こす危険があると言われています。こうした特徴を逆手にとって、「麦をまいたばかりの敵の畑に毒麦をまく」ということは、復讐の方法のひとつとして行われていたようです。 毒麦は麦という名がついていますが、麦角(ばっかく)という麦に寄生する菌が正体です。麦角に寄生された穂は、まるで黒い角のような穂があちこちに顔を出す。これを食べてしまった麦角病はペスト・コレラとともに恐れられた病気でした。毒麦被害の記録は、BC7世紀のアッシリアに始まり、17世紀になってようやく菌の正体がわかって次第に被害は減りましたが、20世紀になっても、まだ大被害の記録が残っています。日本は米が主食であったため、あまりなじみがないのですが、麦を作る地域で毒麦は長年にわたって大きな被害をもたら続けています。
良い麦と毒麦はそれぞれに何を指していて、誰が蒔いたのでしょうか。イエスさま御自身の解説によれば、良い種は「御国の子どもたち」で、毒麦は「悪い者の子どもたち」です。 良い種をまくのは人の子すなわちイエスさまであり、毒麦をまくのは悪魔です。こうしてイエスさまと悪魔によって正反対の目的で別々にまかれたものが、ひとつの畑の中で混じり合っている。これがキリスト教界の現状です。良い種が単に「みことば」ではなく、「御国の子どもたち」と書かれていることに注目してください。イエスさまが語られたことばは、霊でありいのちです。いのちのことばであるイエスさま自身が、一粒の麦として地に落ちて死なれたことによって、イエスの霊が私たちのうちに宿り、ひとつひとつのみことばの約束を聖霊がよみがえり力によって成就させるそれが本当の御霊の実だからです。
良い種が途中から毒麦になるということはありません。毒麦は初めから毒麦であり、サタンが悪意をもってまいたので、良い種と混じり合って成長し、根を絡ませては混乱させます。また、毒麦としてまかれたものが途中から変質して良い実を実らせるということはありません。これは絶対にないことなので、毒麦を良い麦に変えようという努力は無駄だということです。当然、異質なものが混じり合って収穫を損なうかも知れないことを知った者は、心を痛めて、「では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」(マタイ13:28)と言うでしょう。しかし、主は「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい」と答えておられます。その理由は「毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかも知れない」ということです。つまり、麦と毒麦はそれくらい判別が難しく、麦と毒麦をより分けることは、「収穫の麦」である私たち自身の仕事ではないのです。実際には穂が実ると本物の麦よりもひげが長かったり、色が黒っぽかったりして区別がつくそうですが、まさに収穫寸前までは区別がつきにくいのだそうです。さらにここで配慮されているのは、良い麦を誤って抜いて傷つけてはいけないということで、毒麦に対する憐れみではないということも覚えてください。毒麦はあくまでも最後に焼かれるために成長するのです。正しい者と悪い者を分けるのは、クリスチャンの本来的な役割ではなく、そのことに責任もありません。終わりなき神学上の論争や異端審問や正当派争いには意味がないのです。
悪魔が毒麦の種をまくのは、「人々が眠っている間」と書かれています。これは、怠惰というよりは、「人の関知できないところで」という意味でしょう。毒麦の毒性というのは、極めて霊的な悪意に満ちた、人よりも上位の者のしわざだということです。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)たとえが私たちを選ぶと申しました。私たちの聞き方が私たちを選別するのです。イエスさまが、「あなたがたは悪魔から出た者だ」と言われたのは、彼らがイエスさまが語られたことばに耳を傾けられなかったからです。「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。」(ヨハネ8:43)植物であるならば、神様は麦は麦、毒麦は毒麦に造られたわけで、麦や毒麦に選択の余地はありません。しかし、人は無抵抗にサタンに任命され操られるわけではありません。自分の意思でみことばを受け入れたり、また、拒んだりうして、自分のあり方を選択するのです。ヨハネ8章にあるやりとりの前半でも、イエスさまは、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とおっしゃっています。初めから拒まれているわけではなく、彼らがみことばを拒んだのです。それなのに、ユダヤ人たちはイエスさまが与える自由を求めず、すでに自由だと言い、逆にイエスさまを殺そうとします。さらに、「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります」と言っているのです。このように今日にもこの類のキリスト教徒は毒麦として混在しています。真理の霊と偽りの霊をより分け束ねることは命じられていませんが、見分けることは出来ます。霊だからといってみな信じてはいけないのです。見分けるポイントはひとつです。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって、神からの霊を知りなさい。」(Ⅰヨハネ4:2)と書かれています。イエスの受肉をどうとらえているかというのが鍵です。先ほどのユダヤ人たちもひとりの父である神を強調し、神の子であるイエスさまの人の子としての受肉を真っ向から否定しています。イエスを告白する霊です。「聖霊さま」ではありません。「唯一の神」でもないのです。(Ⅰヨハネ4:3)
「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして、世に勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、あの者よりも力があるからです。」(Ⅰヨハネ4:4)これもまた慰めに満ちたことばです。私たちは弱くていい。これから勝つのではなくすでに勝っている。勝利の理由は、私たちが成長するからでも、がんばるからでもなく、私たちのうちにおられる方が悪魔よりも強いからです。
「彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。」(Ⅰヨハネ4:5)この世の神の入れ知恵によって語られる、自己啓発や道徳やお涙ちょうだいのエピソードや御利益話は大いにこの世に受け入れられるでしょう。みことばをみことばのまま語ることは、非常に分が悪いように思われます。しかし、その中で、淡々とみことばを語り続けることによって、それに耳を傾け、反応する人たちが起こされます。私たちはすでにそのことを見ています。私たちのような田舎の小さな教会を通して発信されるメッセージに応答される兄弟姉妹が各地におられ、事実交わりが広がり、祈りがつながっている。いのちが流れている。これはすごい奇跡を見ているようです。
「私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊を見分けます。」(Ⅰヨハネ4:6)このヨハネの言葉は、見方によれば非常に独善的なものとうつるでしょうが、それほど、まっすぐにみことばを語っているという強い核心に基づいた宣言だと言えます。私たちもこのヨハネのように、私たちの言うことに耳を傾けない者は偽りなんだと言いきれるほどのメッセージを携えていたいものです。収穫はすぐにはありません。収穫はこの世の終わりだからです。借り手は御使いです。やがて、麦と毒麦の違いが明瞭になります。御国の子どもたちとは誰なのかはっきりします。それは、「あの教団は駄目」「この教会はすばらしい」というようなものではありません。このたとえのように、根が絡み合っていて、人目にはなかなか見分けがつきにくいのです。
毒麦にあたる人たちは、「そこで泣いて歯ぎしりする」と書かれていますが、この表現はマタイの福音書に6回出てきます。これほど頻繁に出てくるこということはとても大事なことで、出来ればそうならないようにというイエスさまの思いがこめられているようです。この機会にすべての箇所をチェックしてみてください。1. 百人隊長の場面(8.12)2. 毒麦のたとえ(13:42)3. 地引網のたとえ(13:50)4. 王の披露宴のたとえ(22:13)5. 悪いしもべのたとえ(24:51)6. タラントのたとえ(25:30)
なぜ彼らは「泣いて歯ぎしり」するのでしょうか。それは激しい悲しみと悔しさの表現です。それは自分たちの受けた報いが当然であることがはっきりわかり、選択を誤ったことを思い知るからでしょう。彼らには選択を迫られた機会がありました。みことばに触れるチャンスがあったのに生かさなかった、みことばを軽んじた、みことばよりも自分の考えを選んだ人たちです。いっさいの言い訳を取り去られた世界で、正しい神の前で自分の愚かさや罪深さと向き合わされるというのは恐ろしいことです。中には確信犯もいるでしょうが、多くの人は、神に従っていると思って、この世の神であるサタンに従い、サタンの為に準備された罰をともに受けるわけですから、たまったものではないでしょう。