2007年12月12日水曜日

12月2日 救い主の誕生 ①

12月は3週間にわたって救い主の誕生をテーマにお話したいと思います。私たちは救い主の誕生について、この当時のユダヤでは、結婚は今日以上に重要な意味を持っていたでしょう。それが突然、救い主を身ごもるわけです。しかも、特別変わった様子もない生まれた子どもはごく普通の赤ん坊です。救い主だからと言って3ヶ月で生まれたわけでもなく、生まれて話し始めたわけでもありません。近くの羊飼いや、遠くから博士が数人拝みにやってきたくらいで、後は時の王様にいのちを狙われるというものでした。夫婦の関係によらずに赤ん坊を抱えたふたりは、故郷にも帰れず身を隠すわけですから、一瞬だけ拝みに来る羊飼いや博士よりも、いのちを狙われることの方が、印象に残ったとしても不思議ではない状況です。後から考えてみると、生まれる場所と育った地域が一応預言通りというだけで、公に現れるまでのまでの資料はほとんど皆無です。12歳のときのエピソードが残っていますが、それも見方によれば単なる迷子事件で、少年時代のイエスさまは、地域でも評判の神童というわけでもないし、ヨセフとマリアとの間に普通に生まれてきた兄弟姉妹たちとそれほど大きな違いを誰もが感じないで過ごされたのです。それは当時の家族の反応や、ナザレの人たちの評判を聞いても明らかです。これが、人間イエスに関する誕生、成長の事実です。
どのような時代に描かれた聖画や彫刻を観ても、イエスさまは一見してそれとわかる描かれ方をしています。しかし、その全ては現実とは全く違っています。そうしたものがどれほど人間的には敬虔な思いや祈りをこめて描かれたものであるとしても、それは人間の勝手な思い込みであり、宗教心を自己満足させるものに過ぎません。そうした偶像の類を神様が喜ばれるはずはないのです。イエスさまは外見上他の人と全く同じでした。神が全く「ごく普通の人」となられた。ここに意味があるのです。それは聖書の最大のメッセージであり、福音の根幹を成すものです。罪人が神の子となる特権を得るためには、神の子が人の子となる必要があったのです。
ですから、「神の子が神の子らしく」現れても意味がないのです。もし、誰かが神の子らしく現れて、その特別な人の特別な何かにあやかろうとしているなら、これは宗教なのです。イエスさまは人々が期待するような御方ではありませんでした。多くの人々はイエスさまご自身にというより、自分自身の欲望を重ねたメシア像に裏切られたわけです。聖書をよく学び知っていると思っているものほど、その字面に裏切られました。神が人に近づいてくださるのであって、決して人が自力で神に近づくのではないのです。人が神を理解するのではなく、神が人に啓示を与えてくださるのです。これはいつも繰り返してお伝えしているように極めて重要な認識です。キリスト教はキリストではありません。むしろ、その現実とはほど遠いものです。今日世界の多くの地域でクリスマスは最もポピュラーなキリスト教イベントとなり、非キリスト教圏においても、宗教性さえも排除した年中行事になっています。本来主人公であるべきイエスさまを抜きにしたお祭りになっています。それは新郎新婦不在の披露宴のようなものです。イエスさまが来られた時も、ユダヤではキリストを予表するさまざまな祭りがありました。勿論それらは厳粛に行われてはいたのでしょうが、そこにイエスさまの居場所はありませんでした。今日の教会の礼拝、聖餐式の中に、またクリスマスやイースターやさまざまなイベントの中に、果たしてイエスさまにご臨在の余地があるでしょうか。
聖書を本当に神のことばとし、これを至上の価値として認めているクリスチャンが、巷に蔓延する非聖書的なクリスマスとどう関わればよいでしょうか。もちろん「こうしなければならない」というようなものは何一つありませんが、ひとつの提案としてお聞きください。まず、クリスマスに行われている習慣が、聖書的には何の根拠もなく意味もないのだということを知り、キリストの誕生に関して預言者たちは何を語り、福音書の記者たちは何を記録しているかをきちんと学ぶことです。そして、キリストの誕生の真実について、この機会を生かして発信していただきたいと思うのです。いかがですか。自信がありますか。イエスさまが私たちにとってかけがえのない御方であるなら、その御方の真実が踏みにじられていることは、我慢ならぬはずです。かと言って、目くじらを立てて批判しても始まりません。知恵が必要です。クリスマスは、親が子にプレゼントを贈ったり、恋人同士が愛を確かめあったり、仲間が楽しくすごしたりするお祭りになっていますが、それ自体が無意味だと責めるのではなく、本来そこになければならないものや本質について、丁寧にご紹介するのがよいでしょう。そして、サンタクロースやトナカイやツリーやケーキなどのクリスマスの登場人物やアイテム、そして12月25日と言った日程についても、聖書の根拠がないことを伝えてあげれば、けっこう目から鱗かも知れません。