2007年12月10日月曜日

11月25日 使徒の働き29章の証

使徒の働きを読んでも、それは初代教会のいきいきした時代に限られたことであって21世紀の教会というのはそうはいかないと考える人もいます。あるいは、それは誇張して伝えられたものであり、限りなくフィクションに近いものだと考える人もいます。しかし、私は言いました。「私たちは使徒の働きの29章以降の時代を生きている」と。私はそう信じています。みなさんはどうですか。私たちは聖霊の働きの最新のページを綴っているのです。もし、そうでないとしたら、私たちがこうして集まり続けることにはいたい何の意味があるでしょうか。
今日、新しい主の働きにあずかるクリスチャンの当然の姿とはどういうものなのかを、「証」という観点から、福音書の中から3つの例をあげて改めて確認したいと思います。福音書の中で起こったことが私たちのうちに成就していないなら、使徒の時代はやって来ないでしょう。使徒時代の現象だけを追ってみても、そこにはあるのは空騒ぎの占いや手品やイリュージョンです。
クリスチャンになってもなお、私には証をするのに十分な「力がない」「これが出来ない」「あれが足りない」と言って神と人との前に言い訳を続ける人がいます。しかし、私たちの無力は、私たちの証の無力とは何の関係もありません。問題は私たちが自分の力を勘定に入れて証を考えていることにあるのです。クリスチャンというのはまず第一に霊的に死んでよみがえった人でなければなりません。本当に死んでしまった人が主によってよみがえらされることはそれ自体が大変な証です。これは、生まれながらにどうような偉大な能力を持っているよりも強烈な証なのです。問題は、私たちの力が少ししかないことではなく、その少しの力にこだわって自分がすでに死んだ者であることを、依然として信仰によって受け入れられていないのです。
ベタニヤのマルタとマリヤの兄弟でラザロという人がいました。彼の性格や能力について、聖書は何ひとつ語っていません。なぜでしょうか。実は、それはどうでもいいからなのです。ただ聖書が語っているのは、ラザロを「わたしたちの友」(ヨハネ11:11)と呼ばれたこと、そして主は彼を愛しておられたということです。(ヨハネ11:5,36)そして、何よりも重要な事実は、「彼は完全に死んでいた」ということです。「死んでから4日も経ってその死体は臭くなっていた」のです。愛する友が病んでいるというのに、一刻も早くかけつけたいと思わない者はいないでしょう。しかし、ヨハネは極めて不可解なことを書いています。イエスさまはマルタとその姉妹とラザロを愛していたので、なお二日出発を遅らせたと言うのです。(ヨハネ11:5~6)姉妹たちは、死にかけのラザロがイエスの力を借りて癒されることを願っていたし、その可能性は信じていました。マルタもマリヤはそれぞれに信仰の質は違うものの、判を押したように同じことを言っています。「主よ。もし、ここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:21,32)つまり、「イエスさまの力を借りるには、たとえラザロが虫の息でも生きている必要があった」と思っているのです。私たちの信仰はどうでしょう。私たちはそれぞれに主に期待してはいますが、自分たちの何かが回復し、出来るだけ傷つかずにそのまま用いられること、持っているものを失わないでそのまま成長することを望んではいないでしょうか。導きは多様で個人差はありますが、死を経ていないものは、主の栄光にはなりません。
主の栄光が現れるためには、私たちは生きている必要はないのです。いいえ、生きていてはいけないのです。完全に死んで4日ほどほったらかしにされてはじめて、主のよみがえりの力をいただけるのです。私たちが主の友で、主に愛された者なら、私たちが死なないで生きていることは主のみこころではありません。私たちが死んで臭くなり、その上でよみがえることがみこころなのです。
主にあって死んでよみがえった者は、それだけで大きな証の力を持っているのです。ヨハネ12章はマリヤが香油を注ぐ極めて偉大な礼拝の型がありますが、これはラザロのよみがえりの次の章であること、その流れの文脈の中でしか読み解けないことを覚えてください。ヨハネは、このマリヤが香油を注ぐ場面によみがえったラザロがいたのだということを読者に印象づけようと繰り返して書いています。(ヨハネ12:1~2)マリヤの奉仕の背景には、当然マリヤがみことばに聞き入っていた姿がありますが、この兄弟たちの信仰がラザロの死を通ったことがさらに大きな証の力となっています。マルタは同じように奉仕する姿が描かれていますが、ここにはつぶやきや不平はいっさいありません。この箇所は香油を注いだマリヤにスポットを当てて書かれていますが、集まって来た人たちのお目当てはラザロでした。(ヨハネ12:9)人々は、死んでよみがえった人を見にやって来たのです。何かが出来るとか何かを語ったとかではない。イエスによみがえらされ、イエスの力で生きているということ、それが最大の証なのです。そんなわけで、第1のポイントは、まことの証は「死んで、よみがえって、そこにいる」ということです。
もうひとつの例はサマリヤの女です。サマリヤの女はイエスさまを信じたことによって、彼女の渇きが満たされたことは言うまでもないことですが、証ということについて考えるとき、劇的に変わったのは、「彼女と町の人との関係性」です。彼女は人目を避けて時間をずらして水を汲みに来ていたのですが、イエスさまを信じてからは、その自分の水がめを置いて町へ入って行き、そして、触れられたくないはずの自分の過去について、自分から進んで話をしています。これは驚くべき変化です。彼女は、「こうあるべき」とか「こうしなければ」とか考えたわけではないでしょう。しかし、サマリヤの人たちは、「あの方は、私がしたことを全部私に言った」と証言したその彼女のことばによって信じたのです。(ヨハネ4:39)イエスさまに渇きを満たされた者は、イエスさまとの出会いを語らずにはいられないものです。もし、そのような衝動がなく、語ることに喜びがないとしたら、その人はずいぶん霊的に不健康であるか、はっきり信じていないかのどちらかです。「あの方は、私がしたことを全部私に言った」というこの単純な証ですが、そこには非常に深いメッセージが含まれています。それは、女がイエスさまに自分の姿を映されたということです。それは、占い師にいろいろ過去を言い当てられたというようなレベルのものではありません。もっと本質的な自分のリアルな姿が、人となられたイエスさまの中に映し出されたのです。町の人たちは、自分の全ての愚かさを受け入れて、きっぱりと何かに訣別した女の大きな変容を敏感に感じ取りました。その証は決して胡散臭いものではありませんでした。このサマリヤの女の証が、今日広く語られているような道徳や処世術であり得たでしょうか。
本物の証は、聞く人をイエスさまの前に引きずり出すような力、主から直接聞きたいという渇きを起こさせます。(ヨハネ4:39~42)「この先生は立派だから、この先生につきたい、頼りたい」と思わせるようなメッセージは、それを語る人も、それを慕う人も怪しいものです。「もう私たちは、あなたが話したことばによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:42) そんなわけで、第2のポイントは、まことの証は「私と私の周囲との関係性を根本的に変える」ということです。信じてもなお、信じる前と同じような人間関係のしがらみをひきずっているとしたら、それはどこかに嘘や偽りがある証拠です。イエスは、「私がしたことを全部言った人」のはずです。大部分ではなく、全部です。全部が主の前に明らかになっていないと、人間関係にも必ずねじれやもつれが生じるのです。
 最後の例は、レビこと使徒マタイの例です。(ルカ5:27~28)レビが召し出される記事は、あまりにも唐突、あまりにもシンプルすぎて、読み流してしまうと、何が起こったのかほとんどわからないような記事です。しかし、しっかり読んでみると、重要な情報はすべてつまっています。 まず、レビは収税所にすわっていました。彼は仕事中でした。そして、仕事にとらわれていたのです。彼の人生、彼の価値観、彼の時間は、「取税人」という決して望まぬ仕事によって運命づけられているかのようでした。本来職業に貴賎はないのかも知れませんが、ユダヤ人にとって取税人という仕事は、間違いなく忌むべきものでした。そんな誰もが見向きもしない、むしろ目をそらしたくなるような人物に目を留めたのはイエスさまでした。レビがイエスさまに目を留めたのではありません。私たちが主を見出したのではなく、主が私たちを発見してくださったのは何と心強いことでしょう。私たちが「あなたについていかせてください」と言ったのではなく、イエスさまが「ついて来なさい」と声をかけられたのです。これも何と頼もしいことでしょう。レビはこのふたつの事実、即ち主に見出されおことばをいただいたからこそ、そこから、立ち上がることが出来ました。そのすわっていた場所から立ち上がったとき、彼は何もかも捨てていました。何もかも捨てることなしには立ち上がることは出来ませんでした。レビはイエスさまに従ったのです。 そしてどれほどの時間が経過したのでしょうか。どのような準備期間や計画があったのかわかりません。レビは自分の家でイエスのために大ぶるまいをし、そこに取税人や罪人たちを大勢招きました。(ルカ5:29) そこは、レビの自宅でした。「何もかも捨てた」人は、「自分の家」を「イエスのため」に開放する事が出来ました。友人たちを招いたのですが、それは友人たちのためである前に「イエスのため」に開かれた宴でした。すわっていた食卓は交わりです。そこに出た料理は決して貧相なものではありませんでした。相対的に見て、「大ぶるまい」と言って差し支えのないものでした。招かれた友人たちは、ちょっとわけのある、レビが声をかけたからこそ、イエスの食卓に出てくる事の出来た人たちでした。普通はそれが難しいものであったことは、パリサイ人たちの批判のことばを見れば明らかです。しかし、イエスさまのお答えにもあるように、レビのこの企画したこの食卓は、救い主の本質を表現するに十分な場面設定だったわけです。(ルカ5:30~32)このように、短いこの記述の中に、多くのメッセージが凝縮されているのです。そんなわけで、3つめのポイントは、まことの証は「イエスのために大ぶるまいをする」ということです。
 今日福音書の3つの箇所から紹介した3つの例は、すべての健全なクリスチャンに見られる健全な証の原則だろうと思います。それは「かくあるべし」という目標としてあげたわけではなく、自然な証はそのような性質を帯びているという説明にすぎません。 改めて自分の証がどうであるかを測り、もし不健全であるなら、健全なふりをして無理をするのではなく、彼らの場合とどこか違っているのかを吟味して、きちんとやり直そうではありませんか。