2007年11月22日木曜日

11月11日 熱と蛇

        
パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために1匹のまむしがはい出して来ました。それはパウロの手にとりつくのですが、その毒はパウロに害を与える事は出来ませんでした。 その様子を多くの島の人たちが驚きを持って見守っており、大きな証となりました。
この事件は、いったい何を意味しているのでしょうか。かつて主は、「燃える柴」の中からモーセに語られました。(出エジプト3:1~7)モーセが見た大いなる光景とは、「火で燃えていたのに柴は燃え尽きなかった」というものです。ここには、「神が人となる奥義」が隠されています。神の本質がイエスというひとりの人間の中に完全に表現されているのです。それはまさに「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」(ヘブル1:3)でした。「ひとかかえの柴」は、人としてのキリストを象徴しています。その中からはい出した1匹のまむしはサタンです。 蛇であるサタンはイエスさまを誘惑し、その人間性の弱さに訴えましたが、イエスさまはそのすべてに、神の子としての権威を行使されず、人の子としてみことばをもって勝利されます。それは肉の弱さの極限状態の中です。律法は、罪の入った人間の不義を示すものです。しかし、イエスは肉において律法を成就されたのです。それが燃える柴です。
現地の人々は、「パウロがまむしにかまれたのは彼が悪い人だからだ」と思いました。(使徒28:4)多くの人はこの世でうまくいかなかったり、災難にあったりすると、それはその人に原因があると思い込みます。これは、人が共通に持っている生まれながらの価値観です。(ヨハネ9:2・ルカ13:2,5・ヨブ)そして、自分自身ではなく、自分の身にふりかかる自分以外の何かを変えようとするのです。しかし、人間におこることはすべて、神の計画によって許されたことのみです。みことばによるならば、「一羽のすずめさえ神の許しなしに地に落ちるということはない」のです。みことばは、正義と愛の神様がこの世のすべての出来事を見守っておられると言っていますが、私たちの目に見える現実は、「神様なんて本当におられるのだろうか」と疑いたくなるような様相を呈しています。飢えや貧困や、病気や戦争、犯罪被害者や重度の障害は、神の存在を否定する証拠となりうるでしょうか。私は目に見える明らかな不公平の背後に、極めて公明正大な正しい裁き主の存在を期待できます。この世界を偏見なく見つめるとき、誰もが不公平だと理解できます。不公平を誰もが理解できるということは、共通の公平の基準があるのです。そんな達し得ぬ基準を誰が人類に教えたのでしょう。それは神です。「この世は不公平じゃないか」というのは、公平な神がおられることのひとつの証拠なのです。また、私たちの身にふりかかることのすべてが、クイズの正当数とポイントのように、納得ずくで増えていくものなら、交通違反と罰金額のようなわかりやすいものなら、納得ずくで奪われていくようなものなら良いと思われるでしょうか。  私は決してそうは思いません。「善を行うこと」が、即時的、即物的に「報いを伴う」ものであるなら、人は容易に「善」を「報い」に置き換えるでしょう。そういう価値観は、級友を顧みない点数稼ぎの学級委員みたいな連中を増やすことになるわけです。宗教に熱中するのはこのタイプです。がまん大会の勝者が偉いとなれば、みんな死ぬ直前までがまんするみたいな・・・。
良いことも、悪いことも、幸運に見えることも、不運に感じることも、なぜかはわかりませんが、ある人には起こり、ある人には起こりません。私たちにその理由の一部を知らされる場合もありますが、多くの場合は、どうしてそうなるのかは隠されています。神には明確な理由があるのですが、人にはわかりません。なぜでしょうか。人が神を神として信じ、あがめるためです。すべてが神から発し、神によって成り、神に至ることを学び、この神にのみ栄光を帰すためです。人が何であり、神が何であるかを教えるためです。(ローマ12:33~36)
柴の中の熱気はまむしを追い出したのでした。まむしは、パウロの手にとりつきますがパウロは全く害を受けません。イエスを信じる者は、もはや分かち難いほどにイエスと一体であり、まむしの毒、即ちサタンの影響からも完全に解放されているのです。これは霊的な事実です。クリスチャンも蛇にかまれます。信仰は蛇をよける鎧にはなりません。祈りは、災いを遠ざけるまじないではありません。クリスチャンも、この世の人と同じように、サタンの誘惑を受け、被害を受けることもありますが、本質的にサタンのもたらす死の害から解放されているのです。そして、私たちが人々の目の前で、自分にふりかかる目に見える災いを振り落とす時に、人々はその証に圧倒されます。何の害も受けず、涼しい顔をして立っているので、「あの人は神だ」となるのです。
まむしを追い出したのは、柴の中の熱気でした。イエスさまが宮の商売人たちを追い出される姿を見た弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」(ヨハネ2:17)というみことばを思い出しました。イエスという人間の中に宿った聖霊の義憤と情熱が、細なわでむちを作って忌むべきものを追い出したのです。この記事には「宮きよめ」という見出しがつけられますが、社会的には、正当な商売を営んでいるところ男が乱入し、器物を破損し、営業を妨害した事件です。現代なら犯罪としても立件可能な事例です。
燃える柴の熱気は、宮をきよめます。聖霊の宮である私たち自身の中に両替人や商売人を住まわせないという決意が必要です。パウロのように、主イエスの勝利を自分のものにしている人は、サタンの影響も受けず、まむしを手から振り払うでしょう。しかし、多くのクリスチャンは、未だに心の宮に両替人や商売人を何人もかくまっているのです。これは、実に恥ずべき事であり、解決しなければならない問題です。島の人々の考えを変えさせ、心を動かしたのは、パウロが蛇を振り落として何の害も受けなかったからです。私たちを騙す蛇であるサタンに、決してつけ入る隙を許さない態度が必要です。それは容易なことではないかも知れません。イエスさまのように、「みことば」によって切り返す必要があります。サタンも「みことば」を巧みに使います。エデンの園でエバを誘惑したときも、イエスさまを誘惑したときも、「みことば」を使っています。サタンは、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)を刺激して、心の中の両替人や商売人に話しかけます。明らかに罪だとわかるようなものに誘惑されているうちはかわいいものですが、これが正しいと確信しながら、みこころから外れていくことほど怖いものはないでしょう。サタンは私たちより遙かに賢く、「みことば」をすみずみまで知っています。しかし、信じてはいないのです。私たちは「みことば」を信じています。サタンに対して、まず勝利宣言をし、具体的に約束を握って、聖書にこう書いてあると明確に答えることです。「みことば」を知っていても意味がありません。「みことば」を信じて、サタンに向かって宣言することが大切です。両替人や商売人を追い出さずそのままにしておくと、彼らは強盗となって、私たちの心の宮を支配するでしょう。(ルカ19:46)
マルタ島で三ヶ月を過ごしたパウロの一行は、いよいよ執着地であるローマにやってきました。 いよいよローマです。私はもう何度も使徒の働きを読んで来ましたが、初めて読んだときは、正直に言うと、「あれ、ここで終わっちゃうの?」という感想を持ちました。たぶん終わりは当然パウロの壮絶な殉教の場面だろうと思って読み進んで来たのでしょう。ところが、劇的に展開してきた使徒の働きは、唐突に終わります。 パウロは「淡々と朝から晩まで証をした」(使徒28:23)と書いてあるだけで、おもだったユダヤ人に自分がローマにやってきたいきさつを語っただけで、詳しいメッセージの内容は出てきません。その上、聞いていた人々の反応はどうかというと、「ある人々は彼の語ることを信じたが、ある人々は信じようとしなかった」(使徒28:24)と書かれています。あまりにも当たり前すぎて、何だか拍子抜けしてしまいます。そして、それはすべてイザヤの預言の成就だということです。「一体何なんだ」と思いました。
しかし何度も読むうちに、これこそが唯一の神の方法であり、神髄なのだとわかってきました。伝道は、特別な方法で、ある種の効果や、顕著な結果を期待するものではなく、神のことばを神のことばとしてふさわしく、淡々と語るべきものなのです。いたずらに興奮もせず、聞き手にも媚びず、真理をていねいに解き明かす。それだけです。語るべき事は、「神の国のこと」であり、「イエスのこと」です。それらは当然みことばに基づいています。決して「この世のこと」や「聖霊のこと」ではありません。「私たちの幸福の秘訣」や「人生訓」ではありません。
今回、改めて読んでみると、結びの2節が実に素晴らしいものであることに気づかされました。「こうして、パウロは満2年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(使徒28:30~31)ここでも、パウロが伝えた2つのポイントは、「神の国のこと」と、「主イエス・キリストのこと」です。
ルカは、「使徒の働き」の冒頭でこう書いていました。前の書「ルカの福音書」は、イエスの行い始めであり、教え始めだと。「使徒の働き」はその続編であり、継続しているイエスの行いの続き、教えの続きであると断っていたのでした。聖霊の働きは、今も途絶えることなく脈々と続いています。言い換えれば、私たちは使徒29章の世界を生きているわけです。
燃える柴は人の子イエスの姿であり、腕にからみつく蛇を振り落とすパウロは、教会がイエスさまの蛇に対する勝利を宣言する姿だと言えます。