2007年11月2日金曜日

10月14日 イエスは生きている

ペリクスというのは実に中途半端な男でした。パウロの話も聞きたいし、金ももらいたい、しかもユダヤ人にもいい顔をしたい。ローマの市民権を持ったパウロを2年間も監禁していたことは、説明がつかないことでした。そんな中途半端な状況のまま、ペリクスは任期を終えます。ペリクスにも悔い改めるチャンスがあったわけですが、彼はその機会を無にしました。ペリクスは、24章でパウロを牢につないだままにして、25章ではその姿を消しています。
カイザリヤにおけるパウロの裁判は、新しい総督フェストの前で行われています。カイザリヤからエルサレムへ上ってくると、ユダヤ人たちは待ってましたとばかりにパウロのことを訴え出て、媚びて懇願しています。パウロをエルサレムに呼び出して途中で殺す魂胆なのです。ところが、フェストはパウロを思いやってでもなく、正義を貫こうとしてでもなく、ただ「自分の都合に合わない」という理由で、ユダヤ人の指導者たちの訴えを退け、逆にユダヤ人たちにカイザリヤに下って来ればよいとしました。こうして、カイザリヤからエルサレムにやって来るパウロを途中で殺害する計画は未遂に終わります。
フェストはカイザリヤへ戻るとすぐに法廷を開き、パウロに関する訴訟を取り上げます。エルサレムから下って来たユダヤ人はパウロを重い罪状を挙げて訴えますが、やはり証拠がありませんでした。パウロはあわてる様子もなく、「私は何の罪を犯して這いません。」(使徒25:8)と、毅然として答えます。本来ならこれで裁判は終わりです。無罪放免でよいのですが、ユダヤ人たちの歓心を買おうとしたフェストは、パウロに「あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを望むか」と尋ねました。前回はユダヤ人の懇願を拒んでパウロにエルサレム行かせなかったので、今回はちょっと点数を稼ごうと思ったのです。ところが、パウロはそのことを良しとせず、カエサルに上訴し、それが受け入れられました。
フェストもペリクス同様、非常に自己中心で、これといった信念もなく、欲望にまかせて日和見的な判断で生きています。もし、エルサレムで待ちかまえていたユダヤ人たちのはじめの要求を飲んで、パウロをカイザリヤからエルサレムへ上らせていたとしたら、パウロは途中で殺されたかも知れません。しかし、主がそれをお許しにはなりませんでした。結果的にパウロの安全が守られるように導かれたのです。しかし、そのまま釈放されるのがみこころだったのでもありません。「ローマで証をすることが自分の使命である」とパウロは信じていましたが、まさにそれこそがパウロに備えられた道でした。後でアグリッパ王がフェストに「もしカイザルに上訴しなければ釈放されたであろうに」と言っていますが、本当にその通りなのです。勿論パウロだって釈放が当然であることはわかっていましたが、あえてローマへの道を選んだのです。「勇気を出しなさい。あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」(使徒23:11)という主のおことばをパウロは一瞬たりとも忘れたことはないでしょう。
パウロをローマへ送る準備をしている間に、アグリッパ王と妻ベルニケがフェストのところにやって表敬訪問にやって来ました。フェストがパウロの裁判についての経過を説明すると、アグリッパ王は興味を持ち、パウロの話を聞きたがったのです。フェストはアグリッパに助言を求めていますが、ルカの書きぶりからすると、フェストがどうしてもアグリッパの意見や力を求めたというわけではなさそうです。(使徒25:14)言ってみれば、ローマの総督がユダヤの客人の暇つぶしのために設けたイベントでした。フェストからすれば、アグリッパは格下ですが、総督に就任して間もないのでうまくやっておきたかったのです。このアグリッパ王とパウロのやりとりは、次の26章にも詳しく出てきますので、彼の背景について、簡単に説明しておきます。ヘロデ・アグリッパの曾祖父にあたるヘロデ大王は、キリストの誕生を恐れて幼子を虐殺した人物です。  大叔父にあたる領主ヘロデ・アンティパスは、バプテスマのヨハネの首をはねました。そして、彼の父であるヘロデ・アグリッパ1世は、ヤコブを殺し、ペテロを投獄しました。このアグリッパ1世には3人の子どもがいて、一人がこのアグリッパ2世で、もうひとりが、総督ペリクスの妻であったドルシラです。そしてさらにもう一人の姉妹が、彼の妻ベルニケです。つまり、実の妹を妻としていたわけです。そんなとんでもない家系に生まれた人物ですが、同時に神殿の守護者であり領主でした。神様はこのような男にも、最高のメッセンジャーを通して福音を聞かせてくださるわけです。アグリッパとベルニケにも、ペリクスとドルシラの時と同じように救いの門は開かれていたのです。
福音は、私たちが自分の目で人を選んで語るものではないことがわかります。備えが出来ているしもべには、主が語る時を必ず与えてくださいます。聞く者よりも、語る者よりも、福音は偉大なのです。そして、福音を伝えるつとめが偉大なのです。救われて間もない人だろうと、大説教者だろうと、伝える人ではなく、預かっていることばが偉大なのです。
フェストがアグリッパに伝えていることばを見ると、フェストは福音を受け入れてはいませんが、パウロの主張のポイントがどこにあるのかは理解しているのがわかります。福音の中心は、「死んだイエスが生きている」ということです。使徒の働きには、何度も「復活の証人」ということばが出てきました。私たちがどうしても伝えなければならないことは、この十字架にかかって死んで生き返った「御方」のことです。決して、人生の成功の秘訣や、未来におこることの予告や、からだの癒しではありません。自分たちの信じ方や正当性の話ではないのです。私が批判しているのは、この中心から大きくずれている現状に対してです。特定の人やグループをターゲットにして貶めるつもりはありません。この御方を捨てるような福音などは、存在しないとパウロは語っています。「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたが急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです」(ガラテヤ1:6~7)パウロはたとえ、天の御使いであっても「福音を汚す者はのろわれよ」とさえ言っています。さらに、なぜそうなるかは「人の歓心を買おうとするからだ」と説明しています。(ガラテヤ1:8~10)
「ただ彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことであり、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。」(使徒25:19)とフェストは言っています。イエスがもし死んだままだとしたら、イエスがどれほど尊敬に値する偉大な人物だろうと、フェストとは関係のないことです。フェストが言うように、それは「彼ら自身」つまりユダヤ人だけの宗教上の問題です。しかし、パウロが主張していることが本当で、イエスがよみがえれたのが事実なら、フェストが無関心であろうと、よみがえられた御方は、今度は救い主としてではなく、裁き主としてフェストの前に立つわけで、フェストも無関心を装ってはいられなくなるわけです。しかし、イエスがよみがえられたことは、通常の感覚では受け入れることは出来ません。「それなら証拠を見せてみろ。よみがえったイエスよ現れよ。しるしを見せよ。不思議を見せよ」となるわけです。しかし、聖霊は、十字架に架かられた御方を示し、この方の死を見てよみがえりを信じるように導かれます。決して十字架から切り離された復活の証拠で人を圧倒するようなことはなさらないのです。イエスさまはトマスに現れたときに彼に向かってこう言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで信じる者になりなさい。」(ヨハネ21:26)これは、トマス自身が「イエスさまの傷跡を自分で確認しなければ信じるものか」となかまに対して語ったことばを受けたものでした。トマスには、他の弟子たちが主を見たという証言を信じられなかったのです。イエスは自分が主であるイエスさまを裏切ってしまったことの挫折感と、愛する御方を失ってしまったことの喪失感に打ちひしがれていました。何らかの理由で他の弟子達と行動をともにしていなかったトマスは、よみがえられたイエスさまと出会うチャンスを逃したわけですが、ただひがんでいじけていたのではなく、イエスさまが十字架にかかって死んだというリアリティーが強すぎて、よみがえられたことがわからなかったのです。よみがえられたイエスさまのからだに傷の跡を確認することは、自分とイエスさまの関係性を確認することです。トマスは、よみがえられたイエスさまが自分のためだけに現れてくださったので、ただただ恐れ入って「私の主。私の神」と言ったのではないと思います。その傷跡にもっともっと深いものを感じたはずです。
私は子どもの頃、母親から「へその緒」を見せてもらったことがあります。幼い私は、そのひからびたみみずのような物体が私と母親のいのちをつないでいた大切なしるしであることを知らされ、母親への感謝の気持ちを持ちました。 イエスさまの傷口を見せられたトマスの心情には、それに近い心情があったと思います。自分とイエスさまとの個人的な絆をその傷跡から感じ、それで「私の主。私の神」と言ったのです。イエスさまのからだの傷跡は、ローマ兵がつけたものです。しかし、それは私のいのちをつなぐための傷です。ただの傷ではない。それは私の罪が負わせた傷であり、その傷口から流れ出た血の贖いによって、私たちは直接神のいのちに結びつけられるのです。
イエスさまは生きておられます。このことを日々リアルに感じることが出来ますように。