2007年11月8日木曜日

11月4日 荒れ狂う波にゆられて

人生はしばしば航海にたとえられます。「順風満帆」や、「波瀾万丈」ということばにも、やはり「風」や「波」、そして「帆」が出てきます。人生には激しい逆風や荒れ狂う波がつきものだというわけです。私たちを乗せた人生の船も、思うようにはいかないことが多いですが、大きな困難を乗り越えて目的地にたどりつく感動もまたすばらしいものです。
今日もハラハラドキドキの人生を送る人たちはたくさんおられるでしょうが、文字通り難破して死ぬような目に会う人は稀です。パウロという人は、ご承知のように人類史上もっとも重要なメッセージを託された「特別な召しを受けた人物」です。ですから、確かに「特別な人生」を歩みましたが、しかし、それは一般的に期待されがちないわゆる特別待遇ではありません。その真逆で、とんでもない困難の連続でした。いのちを狙われたり、実際に鞭打たれたり、難破したり・・・・と、いわゆる宗教的御利益や恩恵には何一つあずかることなく、多くの宗教指導者のような尊敬やリッチな暮らしとは縁遠い一生を送ったことがわかります。同胞からは忌み嫌われ、兄弟姉妹の中にもパウロを誤解し批判する者もいました。限られた献金しか受け取らず、自分で仕事をしながら伝道を続けました。人というのは偉くなってしまうと、あの防衛省の元事務次官のようなVIP待遇を求め、それに甘んじる弱さを持っています。偉くなる実力がない者は、何か拝んだり、うまい話にのっかたりして、幸運を求めるのです。パウロはそういう人ではありませんでした。
いつも申し上げるように、私たちもまた「特別な人生」送るために「特別な召し」を受けています。「特別」というのは、他の人より好待遇であるという意味では決してなく、人それぞれの導きや生き方、つまり唯一無二の人生設計があるということです。ペテロはヨハネのみちびきを気にかけましたが、イエスさまは、「あなたはわたしに従いなさい」と言われました。それは、主に従い抜くことを決めた人に成就していきます。状況が有利に展開したり、思わぬ幸運が舞い込むということではなく、どのような状況にあっても主がともにおられ、折りにかなった慰めや助け、平安と勝利をお与えになるということです。
パウロはカイザルに上訴した他の数名の囚人たちとともに、ローマに向かって船で護送されることになります。護送の指揮者はユリアスという親衛隊の百人隊長です。彼はパウロに敬愛していたので、その取り扱いは寛大でした。ルカとアリスタルコはパウロの世話係として同行を許されていました。この27章を自分たちもパウロと同じ船に乗っているような気もちで読んでいけるのは、同船していたルカが、「私たちは」という語り方で、そのときの経験を具体的に書いてくれているからです。シドンに入港して停泊中も、パウロは友人にもてなしを受ける自由を与えられます。百人隊長はパウロには逃亡や反逆の危険が全くないと判断したからでしょうが、通常はあり得ないことです。パウロ一行を乗せた船はシドンから出帆しますが、向かい風が強かったので、風を避けながら島影の航路をとりつつ進みました。船がクレテ島まで進んだとき、パウロはこの先の航海の危険を警告しました。しかし百人隊長はパウロのことばより船主や船長を信用して、航海に踏み切ってしまいます。(使徒27:11)いくらパウロを尊敬し信頼しているとは言っても、パウロは航海に関しては素人です。船主や船長の言うことを重んじたとしても仕方がありません。結果として、パウロの警告を無視して出航することになりました。穏やかな南風が吹いて順調に進むかに見えましたが、まもなくユーラクロンと呼ばれる暴風が吹き下ろして大嵐になり、船は巻き込まれて航行不能に陥ります。島影に入ってようやく救命用の小舟を船体に巻き付け、浅瀬に乗り上げるのを恐れて流れに任せます。翌日には積み荷を、三日目には船具を捨てて船を軽くして浸水を防ぎます。いのちの危険を感じる危機的な状況です。太陽も星も見えない真っ暗な海の上です。どれほどの不安や恐れがあったことでしょう。体は疲れ果て、気力も萎えています。「私たちが助かる最後の(直訳:すべての)のぞみも今やたたれようとしていた」(使徒27:20)と書かれています。そのような場面で、パウロだけは、他の人々とは全く違ったことを考えていました。パウロは「失われるのは船だけで、誰も命を奪われるものはない」と確信していたのです。それはパウロの希望的観測ではなく、御使いのことばです。(使徒27:21~26)パウロは他の人よりもいくらかは我慢強かったかもしれませんが、人間的に何の希望も見いだせない状況で神さまのみことばがなければ、パウロだってどうしょうもないわけです。私たちの歩みは過去のうまくいった経験や余力で乗り切れるほど甘くはないのです。パウロがそのことばを受けたのはいつだと書かれていますか。それは昨夜です。昨夜までは、パウロだって不安や恐れがあったはずです。ただし、「主が無駄に苦しみを負わせるはずはない。自分は無意味な死を遂げるわけがない。」という信仰はあったでしょう。
ここまでのポイントを整理します。パウロは囚人です。しかし、彼をローマに護送する責任者である百人隊長ユリアスは、信仰はありませんが、パウロによくしてくれます。パウロの船には、ルカとアリスタルコという兄弟たちも乗っています。同時に多くの囚人も乗っています。ローマに行って証することは、あきらかに神のみこころです。パウロはこれまで経験と霊的判断から、出帆の日を延ばすようにあらかじめ忠告を与えますが、責任者がそれを聞き入れず強行したため、予想通り逆風が吹かれ、いのちの危険にさらされます。
信仰の途上では、パウロの経験したこと同じではなくても、この逆風や嵐にたとえられるような多くの困難があります。自分の気もちはあっても、前に一歩も進めない状況におかれることがあります。まわりの人を巻き込んで、逃げられない同じ船の中で、自分の信念や生き方を問われる場面もあります。信仰があるから、運良くそういうところを逃れられるというわけではありません。私たちは、信仰のある人やない人、権力のある人やない人と一緒に、運命を同じくする船に乗って、不安定な海の上を旅しているのです。
私たちは一体何のためにこの船に乗り、どこへ行こうとしているのでしょう。そして私たちは何を信じているのでしょう。船は私たちの家族でもあり、地域でもあり、会社やその他の人間関係でもあります。私たちがその関係性を煩わしく感じて、別の船を用意したとしたら、福音は正しく伝わるでしょうか。ことさらに学校や仕事や生活を、この世から分離ささたようとするあらゆる考え方は、主に対する愛からではなく、むしろその反対であると私は思っています。
しかし、同じ船に乗っていればいいのではありません。自分の選びや召し、そして役割がわかっていないと、船はただ風に流されるまま、運命を風任せにする他ないでしょう。もし、クリスチャンである私たちが同船する人に対して忠告も助けも与えられずにいるとしたら、その存在価値とは一体どこにあるのですか。 今日のメッセージの中心は、私たちは自分の乗っている船の中で、責任を負い、どんな発信をしているのかというチャレンジです。パウロは囚人であり、276人いた乗組員のひとりです。しかし、この船におけるパウロの影響力と存在価値はどれほど大きかったでしょう。私たちは自分の乗っている船の中で、どれほどの影響力を持っていますか。目立たず忘れられている人ですか。何の発言も発信もなく、人知れず教会に来ていますという人だとしたら、それは間違いです。それはクリスチャンの姿ではありません。教会は、船からはみ出た人どうしが、嵐を避けて肩を寄せ合う場所ではないのです。また、みことばをあずかる人々が、波も風もない向こう岸にいては、嵐の渦中にいる人に対して説得力がないのは当然です。
では、教会のこの世における役割は何ですか。嵐のただ中で出来ることは何ですか。もう少し先へ行きましょう。
 アドリア海を漂流して14日目の夜、激しい嵐もどうやら納まり船が島に近づく気配を感じました。水深を測ってみると次第に浅くなっているので、暗礁に乗り上げるではないかと心配して、錨を投げおろして夜明けを待ちます。ところが水夫たちは、自分たちだけ助かろうとして錨をおろすふりをして小舟をおろして逃げ出そうとしますが、パウロは全員を助けるためにそれを止めます。そして、彼らに食事をするようにすすめます。パウロは一同の前にパンを取り、神に感謝の祈りを捧げて食事をします。それはまさに聖餐式の雛型です。このような状況で、パウロは人々を神への感謝の中に招き入れました。もう一度思い出してください。パウロはローマへ護送される囚人のうちのひとりに過ぎません。しかし、パウロは乗船者一人ひとりの命に心を配って、まるで主人のように振る舞っています。 クリスチャンは、この世の人たちの出会う苦しみや悲しみをともに分かちあいながら、その逆風の中でも神のことばだけを信じ、希望を告白し続け、そして、十字架と復活の恵みの中へ招き入れることです。
 ついに浅瀬に乗り上げ座礁したので、兵士たちは囚人が逃げることを恐れて、殺す計画を立てます。しかし、あくまでもパウロを救いたかった百人隊長の好意によって、結果的に全員のいのちが守られることになります。パウロが語ったことばどおり、船は失いましたが、全員が無事に陸に上がることが出来ました。
 当然のことながら、この世の人々の判断は、ことごとくみことばにはよりません。まず、権威を信頼します。百人隊長は、パウロがせっかく知恵のある忠告をしても、航海士や船長の方を信用しました。(使徒27:11) そして、そのときの状況だけ見て判断します。穏やかな南風が吹けば、「この時とばかり」(使徒27:13)出帆したのです。大多数の人がクレテの港へ早く行きたかったので、判断を誤ったのです。さらに、責任のある人たちが自分の利益だけを考えた行動に出ます。このような状況で水夫が逃げ出したらどうなるのでしょう。残された人たちのことは何も考えていません。嫌らしいのは、皆の安全のために錨をおろすように見せかけて、自分たちだけが逃げるための小舟を準備していたのです。(使徒27:30)今日の日本で行われている偽装や隠蔽の現実を見ると、本当に何を信じてよいのかという気分になります。さいごに、「船が壊れてしまったら、もうおしまいだ」というような絶望的で破壊的な価値観による判断と愚かな行為です。パウロとシラスが捕らえられていた牢のとびらが大地震によって開かれたときも、看守は囚人たちが逃げたと思って自害しようとしました。この場面では、「船がなくなると囚人が逃げる。囚人に逃げられると兵士としての責任が果たせない。だから殺そう」という単純な考えです。職場放棄して逃げ出そうとする水夫よりはましなのかも知れませんが、他に考えようはないのかと思います。これらが、合体したものがこの世の価値観を作り上げているわけで、そういう人たちと同じ船に乗り合わせて、風や波にもまれて生きているわけです。私たちが、強くみことばを信じ、具体的な展望を持ち、そんな世に対して本当の希望を伝えるのです。「岩なるイエスに錨おろせば流さるることなし」という聖歌がありますが、まさにそのとおりです。