2007年11月2日金曜日

10月28日 この鎖は別として

パウロはフェストとアグリッパに対して、非常に力強くシンプルな証をしました。それはエルサレムでのメッセージとほぼ同じ内容で、特に彼がイエスさまと出会った個人的な体験が盛り込まれています。イエスを迫害していた自分が、その名を信じ宣べ伝えることになった180度の人生の転換は、天からの啓示によるものであり、この自分の証こそが、預言者やモーセの語ってきたことの実現なのだというものです。
しかし、ローマ人であるフェストにとっては、そもそも死者の復活などあり得ないことで、パウロが非常に博学であることは認められても、その賢さゆえにあまりにも物事を突き詰めすぎて極端な考えに取り憑かれているようにしか見えませんでした。「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたを狂わせている。」(使徒26:24)とフェストは大声で叫んでいますが、自分の理解や経験を超えた内容について確信に満ちて語るパウロの、圧倒的な迫力に飲み込まれそうになるのを否定したかったのでしょう。だから自ずと大声になったわけです。ある意味では正直な感想です。一方、ユダヤ人であるアグリッパ王は、フェストとは少し捉え方が違います。彼はパウロに向かって、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」(使徒26:27)と言っています。つまり、旧約聖書の預言やエルサレムでの一連の出来事を詳細に知っている分、パウロのメッセージの内容については、フェストよりもよくわかっていたはずです。しかしながら、「信じない」と言えば預言者を否定したことになるし、逆に「信じる」と言えば社会的立場を危うくするし、どうしたものかと困ってしまいました。そこで苦し紛れに、「自分がパウロに対してどうか」ではなく、「パウロが自分に対してどうか」を述べてごまかしたのでした。結局、結論としてふたりともパウロのことばを受け入れてはいません。ただフェストやアグリッパは勿論のこと、同席していた人たちは、みなパウロが無罪であると感じていました。
このパウロのメッセージをテキストにしながら、証ということについて、改めて考えてみましょう。カナン教会がスタートした頃、私はみなさんに「救われた証を大事にしてください」というお願いをしてきました。クリスチャンであるなら、誰でも具体的な証を持っています。そんな証を持っていないクリスチャンは偽物です。証をすることは信じる者にとって非常に大きな喜びです。証を尻込みするようなクリスチャンがいるとしたら、その救いはなはだ怪しいものです。それは、ある日ある時たまたま「気分や状況が救われた」だけで、「新しい生まれ変わり」がないのかも知れません。いのちを得ることと宗教心を満たすことは根本的に違います。いのちに基づく健全な証の特徴は3つあります。まず第1に、パウロが語ったように決まった骨組みがあるということです。回心する前、回心した時、回心した後の3点が非常に明確であることです。イエスの死とよみがえりが、そんな自分の体験とぴったり重なるはずです。第2に、回心を決定づける具体的な「みことば」が主から直接語られているはずです。それは、教理を理解することではありません。みことばがその人の信仰と結びついていのちをもたらすと、そのみことばの種はやがて花を咲かせ実を結び、さらに豊かにそのいのちをつなごうとします。それはとても自然で自動的なもので、苦労も無理もありません。第3に、主の光の中で、新しく進むべき方向性を見出しているはずです。証を持っている人は、信じる前とは違ったものを求めて全く別の平面に立っているはずです。選ばれたこと召されたことを明確に感じているはずです。
もう一度この3つのポイントで、パウロの証を振り返ってみてください。第1のポイントです。パウロは信じる前、「信仰以前」の姿をはっきり書いています。(使徒26:5,9)信じた瞬間のこと、時、場所、状況を明確に語っています。(使徒26:13)第2のポイントです。語られたことばについても非常にはっきりしています。(使徒26:14)第3のポイントです。自分の奉仕者・証人としての選びと召しを具体的にとらえています。(使徒26:16~17)
ご自分の救いについても、是非この3つのポイントで振り返ってみてください。きっと、誰かに無意識に証しているときも必ず、このポイントを押さえておられるはずです。聖書のさまざまな箇所で、主に導かれたしもべたちの大きな変容のポイントになったときの証は、非常にはっきりしています。名前まで変わっています。シモンはペテロとなり、サウロはパウロと呼ばれます。ヤコブではなくイスラエルなのです。ヤコブは虫けらですが、イスラエルは12部族の父です。
後半は、さらに細かいポイントについて、学んでいきましょう。私は、この26章のパウロのメッセージの中で、とても気に入っている表現がふたつあります。そのひとつは、「とげのついた棒をけるのはあなたにとって痛いことだ」(使徒26:14)という表現です。これは人の良心の葛藤について鋭く言い得たことばだと思います。前にも一度ふれたことがありますが、9章に出てくるパウロの回心の場面では、この「とげのついた棒」は出てきません。(使徒9:4)エルサレムのメッセージでも、この表現は使われていません。(使徒22:7)パウロが後になってから、その場面を思い返して、証をする際につけ加えられたものではないでしょうか。パウロはヘブル語で語りかけられたのを聞いたと言っています。(使徒26:14)それは耳に響いたことばではなく、霊に直接語りかけられたものなのかも知れません。
「とげのついた棒をけるのは痛い」というのは、「無意味で不可能なことを意味するギリシャの格言で、クリスチャンを迫害するのは無意味で不可能という意味だ」という解釈もあるようですが、私はもっと深いものを感じます。これはヘブル語で語られたイエスさまのことばです。仮にそのような慣用句が古代ギリシャで使われていたとしても、ただそれだけのことを喩えるために、イエスさまがわざわざギリシャのことわざをギリシャ語がわかるパウロにへブル語で語られたことの説明としてははなはだ不十分だと思います。「とげのついた棒をける」というのは、非常に詩的な表現です。イエスさまの弟子たちを迫害することが正しい神の道だと信じてきたパウロの良心の葛藤や痛みを指しているのですが、具体的に何のことなのかはよくわかりません。それだけに、はっきりイエスさまのよみがえりの力を経験するまでのあらゆる人の葛藤とぴったりくることばだと思います。誰であれ、イエスさまに出会うまでは、「とげのついた棒」を知らずに蹴っているものなのです。とげのついた棒を進んで蹴りたい人はいません。「とげのついた棒をける」とは、「こんなはずじゃない」「どこかおかしい」「なんかへんだ」というような違和感や不快感と同義語なのです。
パウロは「ナザレ人イエスの名に強行に敵対することこそ正義」だと信じていたのですが、同時にそんな自分の心の中に分裂を起こし、強い痛みを覚えていました。そこに痛みが発生するのは、パウロの神を求める思いや渇きが本気だったからです。私たちも間違った教えや思い込みの中で、それが神のみこころだと信じて、大いに間違っていることがあります。しかし、その間違いに薄々気づいていても、また間違いを示されても、その間違いを間違いと認めず、誤魔化したり、すり替えたりするうちに、「正しい痛みの感覚」が少しずつなくなって麻痺してしまうのです。ヨハネ4章に出てくるサマリヤの女を思い出してください。彼女は人の目には男をとっかえひっかえして生きてきたふしだらな女です。5人の男と結婚し、6人目の男と同棲していますが、そこにも幸せは見出せません。しかし、イエスさまは彼女の渇きを知っておられ、彼女に会うためにわざわざサマリヤを通り、井戸の傍らに自らも喉の渇きを覚えた状態で待っておられたのでした。イエスさまこそ、彼女の渇きを満たすまことの夫、7人目の男でした。真実を求める者に、イエスさまは必ず現れてくださるのです。もし彼女が3人目か4人目の夫で「結婚はこんなもの」「人生はこんなもの」「幸せはこんなもの」と妥協していたなら、イエスさまと出会いはなかったでしょう。棒を蹴っても痛くない靴など欲しがるべきではないのです。私はあきらめずに、真実を希求する姿勢は大切だと思います。既存のキリスト教会にどこかアーメンできないものを持ち続け、イエスさまの真実、本当の聖霊の助けや、みことばの光を求めておられた方が、インターネットなどを通して、この小さな集まりにつながってくださっているのだと思います。それは私に人を満たす何かがあるのではありません。私にあったのは、ただこのサマリヤの女のようなリアルな渇きだけです。イエスさまがくださるのは井戸からくんだひしゃくいっぱいの水ではありません。決して枯れない井戸そのものを私たちの内側にくださるのです。自分の渇きに対して妥協しない人は、渇きを満たされます。妥協は罪なのです。渇きを満たすための誤魔化しやすり替えが、すなわち偶像礼拝なのです。彼女はただの男好きではなく、ただ水を求めていたわけでもありません。そして対人恐怖症の臆病者でもありませんでした。彼女は水をくみに来たはずなのに、水がめを置いて町へ行きました。人目を避けていたはずなのに、自分から証をしにいったのです。このサマリヤの女にも、健全な証の特徴はすべて当てはまります。
私が気に入っているもうひとつの表現は、「この鎖は別として、私のようになってくださることです。」(使徒26:29)ということばにある「この鎖は別として」です。これは、囚人や被告人が自分の運命を左右する人々に対して発することばとしては、はなはだ不適切ですが、超越したことばです。私たちはこの世にいる以上、何らかの鎖に縛られるでしょう。しかし、パウロは何にも縛られてはいませんでした。むしろ多くのしがらみに縛られているのは、フェストやアグリッパの方でした。パウロをとらえていたのは、ローマではなく主でした。パウロはローマの囚人ではなく主の囚人でした。(エペソ3:1,4:1)(Ⅱテモテ1:8)そして、パウロの心を縛っていたのは聖霊でした。(使徒20:22)このパウロのことばには、「縛られているのは私ではなくあなたがただ」という痛烈な皮肉が含まれているのです。
何であれ、不自由を感じる鎖に縛られている人は、自分を縛っていた鎖で他の人を縛ろうとする傾向があります。親が子どもをしつけるとき、先生が子どもを教えるとき、その人が何に縛られているのかがけっこう明確に見えます。過干渉も放任も根は同じで、ともに中心がずれているのです。同様に、牧師のメッセージにも、その人の育ちや価値観が繁栄されます。「~であるべき」を押しつける人は、みことばより、自分自身の不自由な経験が基礎になっています。「縛られている」と言っても、それは「厳格すぎる」という意味だけではありません。縛られているとは、「自由がきかない」ということです。緩みすぎているのも、デタラメな状態から抜け出せない不自由さに縛られているわけです。聖霊に縛られていることは自由であり、そこには喜びがあります。(Ⅱコリント3:17)パウロが持っていた主にある自由を私たちも得ることができます。それはあらゆる境遇の対処することのできる力です。(ピリピ4:11~13)