2007年12月12日水曜日

12月9日 救い主の誕生 ②

 先週お話したマリヤとヨセフにおこった出来事は、実は私たちクリスチャンの新生の雛型でもあります。マリヤは、言わば「すべてのクリスチャンのさきがけ」として神を宿したわけです。ですから、クリスチャンはマリヤの身に起こった出来事を自分自身の霊的な経験と重ねて読むことができます。
もうひとつの雛型であるアダムとエバの場合と比較して考えましょう。アダムはキリストの雛型です。(ローマ5:14)パウロはひとりの罪人アダムとひとりの義人イエスとの比較の中で、全人類がひとりの人の不義によって罪と死に至り、ひとりの人の義によっていのちを得ると語っています。(ローマ5:17~18)まずエバがサタンにそそのかされ、神のことばよりも自分の感覚を優先した為に、アダムを罪の中にいざない、ともに善悪を知りました。マリヤとヨセフの場合はどうだったでしょう。マリヤが「おことばのとおりになるように」と神のことばを神のことばとして受け入れた結果、ヨセフを救いの計画の中に導きました。このマリヤとヨセフのみことばに対する従順な態度こそが、救い主イエスの誕生の舞台をつくり、新しい時代を開いたのです。
ヨセフは人間の善悪の基準では「正しい人」でした。しかし、彼の正しさや判断は、まことのいのちを宿したマリヤを去らせようとしたのです。神のいのちは聖霊によって宿るものです。人の知恵は御霊のことを理解できず、むしろそれに敵対しようとします。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることが出来ません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Ⅰコリント2:14) 男は自分の判断や正しさにこだわり、女は自分の感覚に頼る傾向があります。そろってみことばから離れていくいのです。テモテの手紙の中には、今のジェンダーフリーが声高に叫ばれる人権感覚の中では、男尊女卑かと思われるような内容がありますが、パウロがマリヤとヨセフからの、新しいいのちの流れを意識して教会のあり方を示しているものです。(Ⅰテモテ2:8~15)
マリヤの中にあるいのちは罪の影響化にある被造物のいのちではなく、神の御子のいのちです。それは、教会が受け継ぐ永遠のいのちのはじまりを意味しています。人が神のいのちを宿している。この神の永遠の計画が時至ってマリヤというひとりの生身の女性の上に実現したわけです。それは、すべての人がマリヤと同じ霊的経験をするためです。私たちが、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と願うなら、私たちはマリヤと同じなのです。ですから、マリヤを聖母だのといって特別視してあがめることが、いかにとんちんかんで、神のみこころを全く理解していないかがわかっていただけると思います。 (Ⅰヨハネ4:9,13,16 5,12)先週のメッセージの終わりに東方の博士たちのことに少し触れました。彼らの態度は今日の私たちの礼拝の良き模範です。欄外の脚注を見ると、ギリシャ語でマゴスと書かれています。これは、メディア王国で宗教儀礼を司っていたペルシャ系祭司の呼び名だそうです。彼らは占星術を行い、ゾロアスター教に近い信仰を持っていたのではないかと考えられています。キリスト教絵画の中では、彼らはすべての民族の代表ということで、白人、黒人、黄色人種に描き分けられていることが多いようです。7世紀ごろのヨーロッパでは、彼らはアラビアの人たちだとして、メルキオール、バルタザール、カスパールという名前までありました。3人は青年、壮年、老人の姿の賢者として描かれ、それぞれが黄金、乳香、没薬を持っていました。黄金は「王権」の象徴、乳香は「神性」の象徴、没薬は「死」の象徴であると信じられてきたようです。シリアの教会やアルメニアの教会でも、それぞれに別の名前が当てられていましたが、いずれも3人でした。しかし、聖書にはマゴス(複数形はマギ)と書いてあるだけです。人数は書かれていません。捧げものは3種類ですが、1人がひとつずつ持って来たとは書かれていないのです。
彼らは、星に導かれてやってきたと書かれています。星が導くなどということがあるでしょうか。全くおとぎ話や神話のように読んでしまうと、さらっと読み流してしまうかもしれjませんが、これはいったいどういう現象だったのかということを探求する学者も実はたくさんいて、博士が見たのは「惑星会合」という天体現象ではないかと考えられています。「惑星会合」とは、水星、金星、火星、木星、土星の5惑星のうちのいくつかが、重なってまばゆく輝く現象です。博士たちは、これを見たのではないかというのです。現在はパソコンを使って、何年何月という日付を入れると、その年の星の動きを画面上で再現できます。こういうのを古天文学と言います。ケプラーという16世紀の著名な天文学者がいますが、彼はコンピューターがない時代にその説を唱えていたようです。他にも、彗星説、変光星説、新星説、超新星説などいろいろあるようですが、いずれにしても、博士たちが星を見て、その動きや輝きを追いながら旅をしてきたことは事実です。天体の星の動きに精密な規則性をお与えになったのは、神様ですから、その星の動きを利用して、星の規則性を観測する人たちに何らかのメッセージをお与えになったとしても不思議はありません。彼らはエルサレムにやってきました。当然、王なのだから都で生まれるだろう。宮殿のあるエルサレムこそがそれにふさわしい場所だと思って来たのです。彼らの予想ははずれました。エルサレムでは、旧約聖書の専門家が、ミカの預言によって、「キリストはエルサレムではなくベツレヘムで生まれるのだ」と教えます。
しかし、考えて見てください。もし彼らが星を見失わず、まっすぐベツレヘムに来ていれば、ヘロデは幼子を殺すことはなかったでしょう。ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子どもが殺されたのは、博士たちがのこのこエルサレムへ出かけ、星についての証言をしたからです。(マタイ2:7,16)もちろん、博士たちには大きな罪はありません。ヘロデが悪いのです。ヘロデの狂気は、博士たちの喜びと対照的に描かれています。さらに、救い主である王の誕生を喜ばなかったのは、ヘロデだけではありません。エルサレム中の人々はみんなそうだったのです。ユダヤの王の誕生をどうして、別の国の関係のない人たちが拝みにやってきて、その国の人たちはみな恐れるのでしょうか。「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」(マタイ2:3)と書かれています。エルサレムの人々はみな、はっきり言って救い主などいらなかったのです。平壌にもうひとり将軍様はいらないし、平壌の特権階級の人々も同じです。将軍様を人格的に敬えなくても、自分の既得権を失いたくはないでしょう。永田町や霞ヶ関の不正を一掃するような正しい政治家の出現など、そこにいる人たちは誰も望んではいません。私たちは誰もが自分の人生の王でいたいのです。自分が王でいたい人は救い主を拒みます。そして、自分が王であり続けようとする人にはその自由は守られます。人間は自分を作った神を拒み、無条件で救うキリストを拒めるほどに自由な主体として作られているのです。イエスさまは私たちを強引に王座から引きずりおろすことはないのです。私たちが自ら人生の王座を降りることがなければ、救い主は、消されていくのです。マリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と言いましたが、その前にどのようなことばを発しているか覚えておられますか。マリヤは、「ほんとうに、私は主のはしためです。」(ルカ1:38)と言っています。「はしため」というのは、古い日本語なので若い人は何のことかわからないかもしれません。漢字で書くと「端女」、端金の「はした」です。女偏に卑しいという字を当てることもあります。召使いの女、下女という意味です。これは自分を卑下しているのではなく、神を神としているのです。礼拝というのは、「神を神としてあがめること」です。何らかの恩恵や祝福を得ようとすることとは根本的に違います。
幼子イエスは博士たちに何かをもたらしたでしょうか。キリストは全く人間の赤ん坊のように飼い葉桶に寝ているだけでした。博士たちは、神の約束の成就と神が人となったその事実に感動し礼拝したのです。宗教的な御利益を期待したわけではありませんし、彼らは何も得てはいません。彼らはお金を使い、時間をかけて、旅の危険を乗り越えてやってきたのです。彼らは宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬をささげました。(マタイ2:11)先ほど、黄金は「王権」を、乳香は「神性」を、そして没薬は「死」を表していると言われていることを紹介しました。 宝の箱が聖書であると見なせば、礼拝とは、みことばが教える神の栄光とご人格、そして十字架の死について覚え、ともに分かち合い、祈り、歌うことを意味しているように思えます。このように、礼拝とは「神から何かをいただくこと」ではなく、その逆です。「神に捧げること」です。あえて申し上げますが、メッセージが良いとか、賛美が盛り上がること、人が大勢集まるとか言うことは、礼拝の本質とは関係がありません。もちろん、良いメッセージをすること、賛美が盛り上がること、人が大勢集まることを願いもしますし、そのための努力はします。しかし、それはどうでもいいのです。大事なことは、救い主を拝することです。自分の良きものを捧げることです。礼拝が何だかわかっていないと、恵まれるだの、恵まれないだの、自分は仕事や負担が多いだの、少ないだの、わけのわからないことを言い出すわけです。救い主にひれ伏さず、何も捧げない礼拝は礼拝とは言えません。
 イエスさまが、ご自分の肉と血を御父にお捧げになったのは、信仰者としての礼拝の姿です。私たちも自分のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として捧げることが勧められています。(ローマ12:1)それは、御父から見れば、御子を私たちに賜った愛の表現でもあるわけです。ベタニヤのマリヤは三百デナリの香油をイエスさま注ぎました。それは彼女が十字架にかかる前のイエスさまに捧げた礼拝でした。しかし、弟子たちはなんて無駄なことをするのかとつぶやき、マリヤの行為を理解しませんでした。マリヤは香油のつぼを割ってしまったので、壺の中には何も残りませんでした。すべてを注いだからです。 御父は御子イエスを私たちに与えてくださいました。御子は御父にとってすべてのすべてです。主はすべてを私たちにすべてを与えてくださったので、新たに与えるべきものなどもう何も残ってはいません。私たちはすでに与えられた御方の価値をかみしめ、感謝し、この驚くべき計画を成就してくださった御方を礼拝する。それだけです。御子を与えた御父の手元にはもう与えるべきものはないのです。だから、毎回の礼拝で、恵んでください、祝福してくださいというのはおかしい。もう何もかも十分なはずです。 マリヤは、自分が注ぐ香油などとは比較にもならない価値あるものを注いでくださることを信仰によって見ていました。だから、自分が捧げるものには、ほとんど気もとめないのです。それが、この世の他の価値と比べて高価かどうかなんてどうだっていいのです。それほどにイエスさまの愛が私たちの心をとらえるのでなければ、礼拝など出来ません。この世の何かをイエスさまとてんびんにかけていること自体が、すでに礼拝ではありません。  私たちはしばしば、礼拝というものを取り違えて考えているようです。礼拝とはアブラハムがイサクを捧げることなのです。イサクとはアブラハムにとって彼のいのち、祝福のすべてです。みことばに従ってそれを捧げるのが礼拝です。「それでアブラハムは若い者たちに、『あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る』と言った」(創世記22:5)
救い主の誕生とは何でしょうか。父であるアブラハムが、ひとり子イサクを捧げたとき、御使いがその手を止めました。(創世記22:12)イサクは全焼のいけにえにされずに、親子で幸せに暮らしました。しかし、天の父は、ひとり子イエスを十字架に架けて殺すために、この世に赤ん坊の姿で生まれさせたのです。
この世の馬鹿騒ぎから離れ、主を覚え、主をあがめましょう。