2008年1月7日月曜日

12月16日 救い主の誕生③

かつてイザヤは預言して言いました。「私たちの聞いたことをだれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。」(イザヤ53:1)今日は、このみことばが語るポイントについてしっかり考えてみたいと思います。イエスさまも言われましたね。「耳のある者は聞きなさい」と。これはどんな意味なのでしょう。イエスさまは「聞くこと」について、種まきのたとえの中でイザヤの預言と結びつけて、かなり丁寧に解説されています。(マタイ13:13:~18)聞いて信じ、御腕の現れを体験するのは、みことばを受け入れ、その実を結ぶことなのだとわかります。
メッセージを聞けば「音」は聞こえます。ことばの「意味」もわかります。でも、本当に聞きましたか。信じましたかということです。また、私自身がこうしてお伝えしていることを、どの程度きちんと理解し、信じているのでしょうか。みことばを「悟る」ためには自分自身を明け渡し、日常と結びつけることが大切です。この点も自ら振り返りつつ、みことばを恐れつつお話します。実を結ばない理由は、「根がないこと」(マタイ21:21)と「この世の心づかいと富の惑わし」(マタイ12:22)であることを覚えておきましょう。信仰は聞くことから始まりますが、聞くことと信じることは別です。聞いても信じなければ、主の御腕が現れることはありません。しかし、聞いて信じて自らを明け渡すなら、「悟り」が生まれます。
もう一箇所イザヤのことばです。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りになり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ69:1~2)
さらに、イザヤは別の箇所でこうも言っています。「イスラエルの神、救い主よ。まことにあなたはご自分を隠す神。」(イザヤ45:15)モーセの姿が見えなくなったとき、民は不安になり偶像を作りました。まことの神が姿を隠されると、ちまたには偶像があふれ、宗教が繁栄します。ドラマの主人公のいないクリスマスが広がる構造というのは、人類の歴史そのものなのです。人はクリスマスが大好きです。プレゼントやパーティ―は好きですが、本当のイエスは嫌いです。イエスの絵画や像や、賛美する私や祈る私はお気に入りですが、みことばそのものは聞きたくないのです。クリスマスは誰でも知っていますが、すべての人のために準備された救いが、すべての人のものになっているわけではないのは、ご承知のとおりです。しかも、その確率は驚くほど低く、効率は悪いのです。だから、イザヤは「私たちの聞いたことをだれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。」と語ったのです。いわゆるクリスマス・ストーリーとして語られるいくつかの救い主の誕生に関わる粗筋がありますね。イエスさまが誕生された具体的な方法の背景には、その粗筋とは別に、短い時間では簡単に語り尽くせないさまざまな意味が秘められています。イエスさまは、なぜ「この時代に」「この土地に」「こんなかたちで」お生まれになったのでしょう。それは、しっかり見つめ、聞く心がなければ、わからないのです。クリスマス・ストーリーの粗筋を知らない人はほとんどいません。しかし、その本当の意味や価値を説明できる人もあまりいません。信じ受け入れ悟った人はごく少数なのです。クリスマス・ストーリーの中には、決してその意味を悟ることがないように歪んだイメージが固着されています。言ってみればこの冷凍された粗筋を、私たちの心の中で丁寧に解凍するような作業が必要です。
ひとつの例を取り上げて、ふたつの異なる側面から見てみます。例えば、「ヨセフとマリヤは宿にも泊まれずイエスさまは飼い葉桶でお生まれになった」という事実がありますが、これには、「神がそこまで謙遜に貧しい者として生まれてくださったという面」と、「そのような場所しか人は神のために準備できなかったのだという面」があるわけです。多くの場合、そのストーリーは知っていても、前者の謙遜の意味を正しく受け止める人はいません。さらに、後者の人の罪の側面は完全に忘れさられています。人類が誕生してから、救い主がこの世に現れることは、数千年にもわたってすべての被造物を通して証され、多くの預言者たちを通して語られて来ました。「天地創造」と「旧約聖書」は、言ってみれば長い長い予告編だったわけです。そして、いよいよ待望の救い主の誕生です。クリスマス・ストーリーは本編のドラマの始まりです。「さあ今まさに救い主が生まれるぞ」というその重要なメッセージは誰に告げられたのでしょうか。それは、極めて限られたごく少数の人たちでした。「被造物の中にある摂理」と「みことばが示す真理」を受け止めるのは、種まきのたとえにある土地、すなわち私たちの「心」です。この3つが鍵です。
特別な知らせを受けたのは、ベツレヘムの羊飼いたちです。(ルカ2:8~20)東方の博士たちは星を見ただけですが、このとき羊飼いたちが見た光景は、見る者を圧倒するような迫力満点の素晴らしいものだったでしょう。まず、御使いが現れ、主の栄光が回りを照らしました。それから多くの天の軍勢が現れて、神を賛美したのです。地上の他の出来事にたとえようのない、想像することさえ難しい光景です。ただ単に大規模で派手なものだったというだけでなく、神聖で荘厳が空気に包まれたことでしょう。改めて確認しますが、この極めて特異な歴史的な出来事に立ち会ったのは、地位も教養もないごく普通の庶民です。それは、夜番をしていた羊飼いです。しかもごく少数です。羊飼いの人数は書かれていませんが、賛美していた御使いの数の方が圧倒的に多かったことでしょう。同じ演出をするなら、どうしてエルサレムの宮ではないのでしょうか。人間的に考えれば、御使いはもっと人の集まる場所、さらに人の集まる時間に現れるべきだと思いませんか。神様は先ほどからお話していたように、これまで極めて手の込んださまざまな方法で救い主の誕生を伝えて来られました。今まさにそのことが実現しようとしているのに、どうして、観客は名もない羊飼いなのでしょう。これが、会社の広報や広告代理店の仕事なら大失敗のように思えます。
妙な言い方かも知れませんが、神は不特定多数のより多くの信者を獲得するために救い主を備えられたのではありません。もちろん神は一人の人も滅びることは望んではおられませんし、一人でも多くの方が救いにあずかることは言うまでもなく良いことです。しかし、神が求めておられるのは、「霊とまことによって礼拝する真の礼拝者」です。(ヨハネ4:21~24)救い主による新しい創造とは、まことの礼拝者を産み出すことです。罪人が受ける罰を回避させることが第一の目的ではありません。従って、御利益を求め、そろばんづくで慇懃無礼に近づいてくる的はずれな賛同者など、神は初めからお求めになってはいません。神はメガチャーチや、偉大な器などお喜びになるはずがないのです。珍しい光景を見に来るだけの暇つぶしの野次馬や、神の名を利用して自分の富や名声を求める者などいらないのです。神はこの極めて重要な救い主の誕生に、言葉はよくありませんが、どうでもいいような少数の庶民に立ち会わせます。この話は、もしルカが記していなければ、後の人はおろか、その当時の人さえ誰も知らないような出来事だったわけです。つまり、羊飼いが見た光景の記録は、「神が何を大事にされるかという価値を、その基準をみことばが書き残していること」に意味があるわけです。この話に限らず、イエスの多くのことばとわざは、特定のごく少数の人のために語られ、なされたものばかりです。VIPの人々や、大群衆を招いてのパフォーマンスはありませんでした。多くの教会が企画し目指していることは、イエスや弟子たちがなしてきたことと大きくかけ離れていることがおわかりいただけるでしょうか。人が罪を犯し、神の呼びかけを聞きつつ、身を隠した状態。(創世記3:8~10)これが救い主を待ち望みつつ、正面からみんな揃ってお出迎えできない状況なのです。
キリストの誕生の1000年前にタイムスリップします。イエスさまは、自らを「ダビデの子」と称されました。イスラエルの全盛期の王であり、彼らの心のよりどころであるダビデは救い主について多くのことを語り、自らの人生そのものがキリストのモデルとなった人物です。彼は羊飼いでした。その羊飼いダビデが王として召し出される場面を覚えておられますか。少年ダビデは大して目立たない存在でした。預言者サムエルからも、家族からも、忘れられていた存在でした。誰も彼が王になる器だとは思っていなかったのです。「人はうわべを見るが主は心をご覧になる」とみことばは語っています。(Ⅰサムエル16:7)ダビデの生涯はイエスさまのモデルです。彼の聖霊に導かれた歩みは、生まれながらの人間性のモデルとして描かれるサウル王の場合と対照的です。サウルは裕福で、美しい外見を持っていました。(Ⅰサムエル9:1~2)神にとって、本当に価値あるものは、人がそれほど尊重しないもの、見過ごしてしまうような小さなもの、つまらないもの、ありふれたもの、見栄えのしないものの中に多く隠されているのだということです。そして、神はそれを発見されます。羊飼いは、当時のパレスチナ地方においてありふれた仕事です。キリストは良い牧者であり、神の子羊ですが、それは一番ありふれていて誰にでもわかるから、そのようにたとえられているだけであって、特に羊飼いや羊をえこひいきしているわけではありません。大事なことは、神はささやかな人の営みをあたたかく見守り、しっかり覚え、もれなく慈しまれるということです。夜番をしている羊飼いのことなど、他の人は眠っていて意識してはいません。この良き訪れを、そんな羊飼い数人のために現れて、これほどの大仕掛けに紹介してくださる方は、今日も同じように、私たち庶民の暮らしを覚え、その日常の営みのただ中に、救い主の誕生を知らせてくださるということです。この「日常の営みのただ中に」という点が大事です。それは宮で生け贄を捧げたり、断食をしたり、みことばを朗読したり・・・というような特別な場面に限られた啓示ではありませんでした。この特別な出来事が、在る意味で隠れたところで、密やかに、羊飼いの日常の中に介入したことにこそ、「救い主の誕生」の本当の価値と意味があるわけです。彼らは感動して帰って行きました。彼らがその後どうなったのか書かれていませんが、彼らは多分明日も羊飼いです。(ルカ2:20)
イエスさまは、羊のために命を捨てる良き羊飼いです。救い主こそ、人を漁るまことの漁師です。そして、医者です。裁判官であり、弁護人でもあります。農夫であり、カウンセラーであり、偉大な教師であり、そして文字通り本当に大工でした。あらゆる職業の、その営みの本質の中にご自身を啓示することの出来る方です。百人隊長はユダヤ人たちが嫌悪するローマの組織の中で、神の権威と秩序を学び、イスラエルに見られないような信仰を培っていました。(マタイ8:5~13)少年ダビデは、主に召し出された時、日々の羊飼いの仕事の中で訓練を受けていました。その中で主の臨在と助けを経験していたのです。だからこそ、ゴリアテ率いるペリシテ軍を恐れなかったのです。(Ⅰサムエル17:34~37、45~47)ここに共通点を見出し、神の御腕がどのように現れるかを見出せるなら幸いです。私たちは、特別な経験をしなくても、特別な訓練を受けなくても、神はどこにでもともにおられるのです。神はその栄光の本質を、見栄えのしない外見や、目立たない場所や、貧しく地味な日常と、ささやかな地上での短い生涯の中に秘められました。その無力の中に無限の力を、闇の中に光を、その死にいのちを隠されたのです。サタンに荒野の誘惑をお受けになったとき、もし、イエスさまが石をパンに変え、この世の富と権力を手に入れ、神殿の頂から飛び降りていたら、福音書の記述は全く違ったものに私たちはなっていたでしょう。私たちは、真のキリストを隠してしまったクリスマスを嫌悪し、クリスマスの中に隠れておられる真のキリストを見出すものでありたいのものです。