2008年1月17日木曜日

1月13日 地の塩 (イエスのたとえ話 ②)

 
「あなたがたがは地の塩です。もし、塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

今回もたとえ話というよりは比喩表現なのですが、「地の塩」ということばを取り上げ学んでいきます。私はSaltと名乗らせてもらっているので、とりわけこの言い回しには強いこだわりがあります。
マタイの福音書の中では、「地の塩」は明らかに「世の光」と対になって表されています。ひとつのたとえだけでは表現しきれないことを、もうひとつのたとえによって別の側面から語るという方法は、イエスさまのたとえにもよく見られます。「世の光」との関連については後にお話しするとして、別の箇所と対応させながら、まず「地の塩」という表現を掘り下げていきます。3つの福音書の記事には共通するところと、微妙に違っているところがあります。そういう部分を丁寧に見ていくことが大切です。

マルコの福音書にはこう書かれています。
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。塩はききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(マルコ9:49~50)

ルカはこう書いています。
「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょう。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」(ルカ14:34~35」

塩は塩けをつけるものです。3つの福音書に共通して「塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけられるのでしょう」と書かれています。甘みの代用品はあっても、塩の代用品はないのです。
塩は世界中のあらゆる料理の味のベースです。肉でも野菜でも、すべての食材の素材自体の旨みを引き出すのが加えられた塩の役割です。それは辛みだけでなく、素材自体の旨みや甘みさえも引き出し、防腐、保存の効果もあります。穀物の捧げものには塩を添えて捧げなければなりませんでした。(レビ2:13)さらに、旧約聖書の中には主の契約の永遠性を語る場面で、「塩の契約」(民数記18:19)(Ⅱ歴代誌13:5)という表現も見られます。

では、塩が塩けをなくすということはどういうことでしょうか。それは、いのちのないクリスチャンを表す表現だと考えられます。全体の流れを見れば、信仰やあかしの姿勢と関係があることがわかります。「無味乾燥」ということばがありますが、知識があってもいのちがなければ、味わいがないおいしくない福音しか伝えられないのです。

マルコの福音書の塩の記事は、38節からの流れの中で読めば、クリスチャンのつまずきについて書かれています。マタイにはなくマルコで語られているのは、塩けは火によってつけられるということと、自分自身に塩気を保つべきことです。
「塩けは火によってつけられる」というのは、試練の中で磨かれるという意味でしょう。「火は試練である」というのはペテロの手紙にも見られる表現です。マルコの福音書はペテロの口述によると考えられているのでぴったりきます。期待される塩味は、主の訓練の中で磨かれます。
さらに、「自分自身に塩気を保つ」というのは、つまずきの原因は厳格に排除しなければならないけれども、その厳格さとしての塩けは「他者に対して辛口に」というよりは、自分自身の中に保つべきで、弟子たちの特権意識を戒め、むしろ人々と和合することを説かれています。もちろんそれは、いい加減なことも受け入れて妥協し、みことばを否定する人々とも取りあえずなかよくしなさいということではありません。ゲヘナの火というのは、神のさばきに耐えられないものは容赦なく焼き尽くしてしまいます。イエスさまは、不具であろうが、片足であろうが、いのちの領域にないものは焼かれるんだとおっしゃっているのです。自分はいのちの領域に安んじていれば、他の人が多少正しかろうが間違っていようが、そんなことにいちいち目くじらたてて怒ったりしません。

ルカの福音書の塩の記事は、14章全体のまとめとして書かれています。14章はイエスさまに従う者の心がまえが中心主題です。
ここでの一連のお話は、ある安息日にパリサイ派の指導者の家で語られたもので、その家に招かれた客たちが上座を選んでいるのに気づかれたイエスさまが3種類のたとえをお話になり、25節からはその3つのたとえを受けるかたちで語られ、その結びが塩の話になっていることがわかります。
パリサイ人の家での安息日の食事が、神の国での食事と重なるたとえとなっています。そこでイエスの食事を味わうというのは、どういうことなのかを語っておられるわけです。
まず、1つ目のたとえでは、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という原則が語れています。2つ目のたとえでは、「お返しを期待して招き合わなければ、その志は報われる」ということが語られています。そして、3つ目のたとえでは「、自分を高くすることしか考えず、この世での見返りばかりを期待している彼らの現状では、だれひとりイエスさまの食卓にはつくことができない」と語られています。この3つの話を受けて、神の国を目指してイエスさまに従いたいと思うのなら、見通しを持ち、しっかり覚悟を決めてでなければ不可能なことだとおっしゃっています。つまり、イエスさまが期待される塩けを保つためには、自分の財産全部を捨てて弟子になる必要があるわけです。

いかがでしょう。いくら聖書を詳しく学んで意味がわかっても、みことばを信じ、約束を握って実際に生活するのでなければ、何の意味もありません。
皆さんはキリストの弟子ですか。皆さんの中には、イエスさまが期待される塩けがあるでしょうか。もし、「はい」と即答できなければ、あなたはまだ弟子ではなく、みことばを聞いている群衆のひとりです。厳しい言い方かも知れませんが、たとえは人を選び、毎回新たな決断を迫ります。たとえをどう受けとめるかは、「あなたが弟子なのか、群衆のひとりにすぎないのか」をふるい分けるのです。塩けのないクリスチャンは、土地にも肥やしにも役に立たず、外に投げ捨てられます。つまりこの世でも教会でも無用のものとなるということです。これは脅しではなく本当のことです。すでに教会に通っていても捨てられたような人々は、あちこちにたくさんいます。
ですから、この章の締めくくりでもイエスさまはこう結んでおられます。「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ14:35)

さて、保留しておいた「世の光」の話に戻ります。(マタイ5:14~16)
クリスチャンは世界の光であると書かれています。それは、あたかも山の上にある町のように、人の目に隠れることができないのです。おかしな意味ではなく、私たちはこの世にあって「目立つ存在」でなければなりません。それは、「私たちがキリストを信じていることが知られている」という意味です。あかりをつければ、それは「升の下」でも、「ベッドの下」でもなく、「燭台の上」に置くべきです。あかりとはみことばのことです。「みことばはわが足のともしび、また光」と書かれています。
みことばがみことばどおり、本来のあるべき場所に掲げられていれば、家すなわち教会は明るいのです。家にいる人々全部を照らすと書かれています。
さらにそのみことばを世の人々の前で輝かせるべきで、みことばの約束を握った生き方、行動が人々の心を天におられる父に向けさせると書かれています。ここの「良い行い」とは、単なる道徳的な善行ではありません。

私たちは夜になれば、太陽が沈んで月が出ることを知っています。太陽は主を表し、月は教会を表しています。この2つの星の動きが人々に暦を教えます。
太陽はそれ自体が輝いており、光と熱を提供しています。月はそれ自体が光を放つことはありませんが、太陽の光を反射して地球の夜を照らしています。月の表面はデコボコのクレーターですが、光を受けて光っている部分が様々な形になって、人の目に映ります。

イエスさまが十字架に架かられたとき、12時から3時まであたりは真っ暗な闇に包まれました。人々は光なる方を憎み闇を愛したことの表現でした。よみがえられたイエスさまは、私たちのうちに聖霊というかたちで内住され、世の光となられました。
私たちの内におられる光が、その本来の明るさで輝くこと、これが証です。それが本当の塩けです。何をどう語るかとか、どういう風に辛口にこの世を批評するかではありません。みことばが私たちの内側に常に豊かにあり、イエスさまの内住に委ねていれば、自ずと証の機会は訪れます。

「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で塩味の聞いたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります」(コロサイ4:6)