2008年1月7日月曜日

2007年4月29日 御名の中に保たれる

ペテロとヨハネは、キリストの十字架と復活を力強く語りました。ふたりのメッセージは、大きなしるしをともなって、大勢の群衆の心をとらえました。そんな様子を察知して、祭司たち、宮の守衛長、そしてサドカイ派が次々にやってきました。宮の守衛長は治安上の問題に不安を感じたでしょうし、祭司やサドカイ派にとっては、その内容が聞き捨てならぬものだったでしょう。ルカは、「イエスを例にあげて死者の復活を宣べ伝えていた」(使徒4:2)と記しています。つまり、イエスがよみがえられたという特別な事実だけにとどまらず、「イエスにつながる死者もまたよみがえるのだ」と、復活について一般化して語ったことが、大きな問題だったわけです。サドカイ派とは、貴族や祭司の家柄につながる支配階層で議会では主流派をしめ、ローマ帝国とも現実的妥協路線を貫いていました。「長男の嫁をめとるという律法を守って、死んだ兄弟の後をとって複数の兄弟が次々にひとりの嫁をめとったような場合、よみがえったときその妻は誰の者か?」という問いをもって、イエスさまに論争をしかけた人たちです。彼らは復活を否定する立場をとっていました。そんなわけで、弟子たちの主張が民衆に受け入れられた場合のダメージを考えると、放置しておくことはできず、その権力を行使してとらえたのです。しかし、そのときには、すでに男だけで5000人にのぼる人たちが信仰を持っていました。
翌日には、民の指導者たち、長老、学者たちがエルサレムに集まりました。これはサンヘドリンと呼ばれるユダヤ人の最高会議です。イエスさまもローマ総督ピラトの裁きを受けられる前に、審問されていましたね。(マタイ26:57~68)イエスさまは、この議会における審問ではっきりとご自分が神の子キリストであることを宣言され、それを聞いた大祭司が衣を引き裂いて「彼は死刑に当たる」と決定したのです。それはまさに、「家を建てる者たちがイエスという石を捨てた」瞬間でした。大祭司カヤパは、神の深い計画を知ることなくこう言っていました。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうがあなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」(ヨハネ10:47~53)これらの事実は、十字架のみわざが人の罪と愚かさのゆえであると同時に、遙かに深い神の知恵によることを示しています。
神は、この偉大なみわざをただ一人で成就されたナザレのイエスの御名によってのみ、世界を救おうと定めておられるのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
権力者たちは「何の権威によって、だれの名によってこんなことをしたのか。」と問います。彼らが弟子たちをとらえたのも、彼らの身分を保障するのも、この世の権威、この世の組織、この世の肩書きです。それは人間同士の約束事や利害関係の中で保障された力に過ぎません。一方、弟子たちは聖霊に満たされていました。この世の権威、この世の組織、この世の肩書きと、聖霊の満たしは相反するものです。
最近掲示板にある聖会のお誘いがありました。書き込みにしてはけっこう長文でしたが、お読みになりましたか。その中には何とか先生の名前や教会の名前は出てきましたが、イエスの御名は一回も出てきませんでした。大事なのは主イエスの御名の栄光です。イエスさまの御人格とみわざを通して父があがめられることです。ペテロとヨハネが生まれつき足のきかない人を癒したとき、何と言いましたか?「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」(使徒3:6)です。その名の権威は幾千万の金銀に勝るものであり、何も持っていない彼らが持っていると誇りうるものだったのです。さらに、この奇跡について説明した箇所ではこう言っていました。「このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており、知っているこの人を強くしたのです。」(使徒3:16)
このイエスの御名はどれほどすぐれたものでしょうか。それは、「すべての名にまさる名」です。(ピリピ2:9)その名の偉大さは、本来持っておられたものではなく、神でありながら神のあり方を全く捨てて、十字架に至る道を歩まれたがゆえに獲得された偉大さなのだとパウロは語っています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、実に十字架の死にまで従われたのです。それゆえ、神はキリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:6~9)ヘブル書には、「御子は御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続された」(ヘブル1:4)という表現もあります。その御名は世襲した権威ではなく、人として神の本質を表現し罪のきよめを成し遂げたその父のみこころに服従することによって獲得された権威なのです。イエスさまは、十字架にかかられる前に、その偉大な御名の中に信じる者を保ってくださるようにと祈っておられます。「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。」(ヨハネ17:6)「あなたがわたしにくださっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らがひとつとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうち誰も滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは聖書が成就するためです。」(ヨハネ17:11~12)「そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:26)ヨハネ17章は、やさしいことばではありますが、とてつもなく深い内容が語られています。特に今ピックアップした箇所は、「御名の中に保たれる」ことについて書かれています。主が明らかにしてくださった御名の中に、信仰によって保たれ、そこに信じる者の「ひとつ」が保障され、その「ひとつ」の群れにキリストの愛が注がれるのです。その「ひとつ」とは、父と子の神が「ひとつ」であるように、聖霊を与えられた者も「ひとつ」だと言うのです。聖霊によって、信じる者には父が宿り、子が宿るからです。この御方を共有する感覚が、「御名の中に保たれる」ということです。
名は栄光と関係があります。人は自分自身の栄光を求め、「自分の名を上げよう」「自分の名を残そう」とします。バベルの塔を建設した人々の動機はどこにありましたか?「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名を上げよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(創世記11:4)そして、その結果どうなりましたか。分裂と離散です。ことばも混乱しました。教会の中でも、外でも、バベル的な動機でつくられるものは、遅かれ早かれ同じ結末に至ります。
「わたしはわたしの名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名においてくれば、あなたがたはその人を受け入れるのです。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」(ヨハネ5:43~44)キリスト教という限られた狭い世界でいんぎんにお互いを先生と呼び合ったり、教会や教団の何周年記念のイベントをやってみたり、イエスさま以外の名前を冠にした大聖会だの、キャンペーンだの、いったいそれは何のために、何を求めてやっているのでしょうか。互いの栄誉ではなく、神からの栄誉を求める行為には恐れはないのです。無知無学な彼らが、最高の教育を受けてきた指導者たちを黙らせ圧倒したのは、怖い者知らずの度胸ではなく、イエスさまに対するまっすぐな信仰です。時の権力によって捕らえられ脅されても、自分たちの運命を左右する力を持った人々に対して媚びることなく堂々と証しています。これが信仰の力です。聖霊が働かれ、彼らの能力を最大限に引き出して、必要なことばを語らせてくださるのです。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うより、あなた方に聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分のみたこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4:19)
不思議なことは、イエスさまの死かからそれほど経っていないこの時期に、このありえない復活の証言を、理性的に論証し、証拠をもって否定出来なかったということです。彼らは復活の証言はまずいことをあらかじめ予測して警戒していたにもかかわらず、このような事態を引き起こしたのです。復活前の警戒も、復活後のごまかしも何の役にも立ってはいません。(マタイ27:62~66)(マタイ28:11~15)信仰以外の何かでイエスさまの復活を裏付けることは出来ないし、そのような試みには大して意味はありませんが、復活はなかったとする信仰に反対する証言が無力であったということは確認できます。
イエスさまの名前が出てくれば大丈夫というわけでもありません。どういう意識、どういう信仰がそこにあるかが問われます。(マタイ8:20~21、マタイ24:5)私たちは、イエスさまの御名前によって祈ります。この御名の力によって、私たちの祈りは、聖なる香として御前に届くわけです。聖書の言葉を要所に引用して流暢によどみなく祈るから、その優秀さで天に届くのではありません。やさしい思いやりのあふれることばで涙ながらにとりなすから、その優しさで天に届くのではありません。あきらめずにねばり強く長時間祈り続けるその熱心さのゆえに天に届くのではありません。ただ、御子の名のゆえに、祈りは天に届くのです。このような信仰に立っている人たちの中にひとつが保障されます。その中では、誰も自分の力や働きを誇ることはなく、持ち物や財産の所有権を主張する人もいませんでした。そしてこの3章4章の場面をここまで劇的に盛り上げたきかっけはやはり、足のきかなかった男がいやされたことです。この人物に望みがなかったことは誰の目にも明らかでした。だからこそ、彼が癒されたことは神の栄光だったのです。医者であるルカは彼の年齢を記しました。40歳余り(使徒4:22)それは苦しみの年月であり、社会的には絶望的な年齢です。文脈的にはやや唐突に男の年齢を書き入れたことの意味を考えてみましょう。それは神に不可能はないということ。完全な絶望から本当の希望が始まるということです。