2008年1月12日土曜日

1月6日 人間をとる漁師にしてあげよう (イエスのたとえ話①)

新年度の新しいシリーズのテーマをどうしようかと思いめぐらしてきましたが、イエスさまのたとえ話から分かち合うことにしました。全体のサイズとしては何回のシリーズになるかは未定ですが、毎回ひとつのたとえ話を取り上げて、その中からお話をしていく予定です。
私たちは日常の生活の中でも、真理を伝える手段として、より正確に相手に自分のイメージを伝えるために比喩やたとえ話を使います。人類が他の動物とは決定的に違う特徴として、火の使用や直立歩行とともに、言語による複雑なコミュニケーションや宗教心などもあげられます。虫のなかまでもからだから出す特別な臭いや飛び方によって、情報を伝え合っていますし、猿やイルカなどのなかまは、音声でかなり複雑なやりとりをしていることが明らかになっています。同じ猿でも、ニホンザルとリスザルでは声を出すときに違いがあるそうです。リスザルは目の前に仲間がいるときに声を出すのに対し、ニホンザルは目の前に相手がいないときに、意味のない声を出して、離れた場所にいるなかまの存在確認をするそうです。そういう習性を若者が携帯電話のメールで「元気?」とか「今何してる?」とか言う類のほとんど意味のない情報を交換しているのと似ているというわけです。私たちが知らないだけで、まだまだ動物の世界にもさまざまなコミュニケーションの秘密が隠されているでしょうし、そこには、人間との共通点はたくさんあると思います。しかし、動物が比喩やたとえ話を使って情報を伝えたり、それを理解し、共感し、教訓にするなどということは絶対にあり得ないことです。しかし、人類はその文化の発生から、数々の神話や寓話、おとぎ話、民話、童話などの中で、さまざまな比喩やたとえ話を産み出し、伝えてきました。それらは、むき出しの徳目や教訓よりも、はるかに聞く者の心に印象深く残り、具体的な自分の暮らしと結びついたイメージを広げることに役立っています。これらが人類特有のものであるというのは、目に見えない概念、つまり「霊的な事柄」を扱うからです。科学の発達は人間を「猿よりも少しだけ遺伝子の多い生き物」に格下げしてしましましたが、聖書は「人間は神のかたちに造られた特別な被造物」だと教えています。イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われましたが、人間だけが、神のことばを聞く耳、すなわち「たとえを理解する力」がプログラムされているわけです。実はこの点こそが、人間と他の生物との決定的な違いです。
イエスさまの数多くの比喩やたとえ話は、非常に面白く、時に辛辣で、聞く者を試す鋭さがあります。その核心にどれだけ迫ることができるかわかりませんが、みなさんとともに、イエスさまのたとえ話の世界に浸っていきたいと思います。今日は第1回目なので、実際に聖書の箇所を見る前にもう少しだけ前置きとしてのお話をします。まず、最初に「りんごのようなほっぺ」という誰でも知っている非常にありふれた比喩表現から考えてみます。これはたとえ話ではありません。ストーリーも何もない最もシンプルなたとえです。しかし、こんなシンプルなたとえにも、そこで用いられるふたつのものと、共通する目に見えない意味があります。「りんご」と「ほっぺ」は直接関係のないものですが、子どものほっぺの赤くて健康的な様を「りんごのようだ」と言うわけです。この表現を聞けば、聞き手は子どもの顔を見なくても、元気で明るい子どもの表情を容易に想像することができます。「ほっぺは果物ではない」と言う人はいません。そこに共通する普遍的な「健やかさのイメージ」があるからです。イメージする力はとても大切です。断片的な情報や体験から、共通性や関係性を見出し整理する力、蓄積した情報や体験をもとに、必要な場面で必要な情報を取り出せる能力が高い人が、本当に「賢い人」です。幼い子どもたちは「ままごと遊び」に代表される「ごっこ遊び」をしますが、これは、実際の大人社会の一部を子どもの目線で切り取って、模擬的に行う遊びです。泥団子や草の葉をハンバーグやサラダに見立てる想像力を馬鹿にしてはいけません。ごっこ遊びは、大人としての賢さを身につけるための練習なのです。今日ではTVやゲームなどの普及が、子どもたちから決定的な遊び体験を奪っています。イメージする力の乏しさは、実は信仰にも大きく影響すると私は考えています。私たちは目に見えない世界の現実を学ぶために、目に見える世界を生きているわけです。私たちがこのからだにあって生きている期間は、言ってみれば、「御国のごっこ遊び」なのです。「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:17)
りんごつながりで、ちょっと万有引力の話をします。ニュートンはりんごが木から落ちるのを見て引力を発見したと言われています。りんごが木から落ちる場面は、世界中のりんごの農家の人々はもちろん、りんごの木が生えている地域の多くの人は見たことがあるはずです。しかし、そこに引力を発見したのは、ニュートンというひとりの人でした。ニュートンだけがなぜりんごの落下に引力を感じたのでしょうか。ニュートンは「神様がお造りになった世界には何事にも定まったルールがあるはずだ」と考えていたのです。そのような視点で世界を見つめているから、法則をつかむことが出来るのです。 引力は目に見えませんが、りんごが落ちるのは見えます。見えるものを通して見えないものを見る力、これは極めて信仰に近いものだと言えます。たとえ引力を知らなくても、全ての人は引力の影響を受け、その恩恵にあずかっています。法則や真理というのはそういうものです。私たちが目にするささやかな出来事のひとつひとつは、大きな法則の中で起こっていることです。万有引力の法則に限らず、そのような法則を見出すことが出来るなら幸いです。目に見えない世界を目に見える世界から見つめる視点として、「比喩」や「ごっこ遊び」「科学法則の発見」の話をしました。
今日は、たとえ話の前段階として、イエスさまの最初の比喩表現について考えてみます。「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられるとき、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』」(マタイ4:18~19)「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言うイエスさまのことばは、公の生涯に入られてから、特定の個人に向かって語られた最初のことばであり、たとえとしては最初のものです。このことばひとつを取り上げても、その意味が正確に知るには、先ほど私が申し上げたふたつの側面からの体験的理解が必要であることがわかります。「りんご」という果物を見たことも食べたこともない人に、「りんごのようなほっぺ」の比喩が伝える健やかさを伝えることは出来ません。人間をとる漁師という表現も、彼らが漁師だからこそ、このたとえは本来の意味を持つのです。つまり、「ごっこ遊び」としての漁師体験がなければ、イエスさまのことばは宙ぶらりんになってしまうでしょう。しかも、その経験は一度や二度ばかり魚をとったことがあるというような浅い経験では駄目で、一定以上の努力と成果がなければなりません。次のステップは、「人間をとる法則は、魚をとる法則とは異なるものだ」ということを体験することです。すでにお気づきだと思いますが、「人をとる法則」と「魚をとる法則」が異なるのだとしたら、彼らの熟練した漁師としてのスキルは、実はそのままでは何の役にも立たないし、むしろ邪魔になるのだということです。主のしもべは、自分の価値観や行動のベースになってきたものを否定するところに、新しい方法があるのだということを見出します。「荒れ狂う湖の上で、イエスさまだけが眠っておられ、弟子たちがいのちの危険を訴えると、ことばひとつで嵐を鎮められた事件」や、「夜通し働いても何も取れなかったのに、イエスのことばに従えば大漁になったという事件」は、まさに霊的な法則を教えるものです。弟子たちはそれらの経験から、目に見える現実の可能性ではなく、イエスのことばにこそ信頼するべきだと学ぶわけです。クリスチャンは罪から解放されてはいますが、罪は犯してしまいます。永遠のいのちは与えられていますが、やがては死にます。後の目に見える事実ではなく、前提としての目に見えない霊的な立場に足場を置くことが信仰なのです。私たちはすでに、キリストにあって「罪と死の原理」から、「いのちの御霊の原理」に移されています。そのことを信じるのです。イエスの十字架と死を通して、もう一度、この世界を見つめ直すとき、今度は漁師としての数々の経験が、何一つ無駄にならずに、「人をとる」ことに生かされることを経験します。「人を知り、人を生かすこと」また、十字架も復活も、ガリラヤ湖で彼らの平凡な日常に組み込まれ、秘められつつ、示されていたことを知るようになります。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)とペテロは言ったとき、自分の経験や価値観のすべてが主のみことばによって粉砕されたのでした。しかし、これは謙遜な罪の告白ではなく、極めて宗教的な傲慢なことばです。人間は、こういう「いかにもへりくだったようなフリ」が好きなのです。もし、イエスさまが、「よし、わかった。そうしよう。」と彼から離れて行かれたら、ペテロはいったいどうなったでしょうか。「私は罪深い人間です」って、そんなことは初めからわかりきっているわけです。ペテロは「ああ自分は罪深い奴だなあ」と自己嫌悪に陥っていたのかも知れませんが、彼がこのとき認識していた程度は極めて軽いものでした。みなさんもご存じのように、この後ペテロは、「他の弟子たちが裏切ったとしても、自分だけは従い通す」と大見得を切りながら、「イエスさまなんか知らない」と3度も宣言します。福音書に描かれている弟子たちの姿は、聖霊が内住されるまでの過渡期のモデルですから、信仰者の模範として見ることはできません。聖ペテロとか、聖アンデレとか言ってフィルターをかけてしまうと何が何やらわからなくなってしまいます。「主に離れて行かれては、自分はどこへも行けない。罪深い私を底の底まで知りながら、十字架でそれを負い、罪と死の原理から解放してくださった方が、今よみがえって、私のただ中におられる。この方のいのちと御霊の原理が私を導くのだ」というのが、正しい理解です。「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」これが、イエスさまの約束です。私たちに「人間をとる漁師になりなさい」と言っておられるのではないのです。「私たちは、人間をとる漁師にされる」のです。
イエスさまは、ご自分がたとえでお話になることをどのように伝え、人々はそれをどのように聞いていたのでしょう。マタイはこう書いています。「あなたがたは、天の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また悟ることもしないからです。」(マタイ13:11~13)これは、弟子たちがイエスさまに、なぜたとえで話されるのかをたずねたときに答えとして語られたことばです。さらにこう書かれています。「イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話にならなかった。それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。『わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから聞かされていることどもを物語ろう。』」(マタイ13:34~35) 続いてマルコです。「イエスはこのように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。たとえによらないで話されることはなかった。ただご自分の弟子たちだけには、すべてのことを解き明かされた。」(マルコ4:33~34)これらのことばによれば、イエスさまは、普遍的な真理について、聞き手に応じて多様なたとえを準備され、弟子たちだけには、特別にその解説もあったことが書かれています。 では、イエスさまのたとえを聞く側はどうでしょう。 「イエスはこのたとえを彼らにお話になったが、彼らは、イエスの話が何のことかよくわからなかった。」(ヨハネ10:6)「祭司長とパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちを指して話しておられることに気づいた。」(マタイ21:45)弟子たちに語られたのは、「羊と門のたとえ」で、祭司長とパリサイ人たちに語られたのは「ぶどう園のたとえ」です。ふたつのたとえは違うものですから、難易度も異なるでしょうから、単純な比較は出来ません。とは言うものの、祭司長やパリサイ人は解説を待たずに、たとえの意味を理解しましたが、弟子たちにはたとえの意味がわかりませんでした。祭司長とパリサイ人たちは、たとえを理解してかえってイエスさまへの殺意を燃やしました。理解が及ばない弟子たちには、イエスさまの解説がつきました。このように、イエスさまのたとえは、それが語られる段階で人を選び、また、語られた段階で、さらなる選択を迫るものです。理解する脳の働きも勿論大事ですが、「イエスさまが何を語ろうとしておられるのかを知りたいと思う心」こそ、あらゆる条件よりも大切なのだとわかります。足元にひざまずいてみことばを聞き、いつも思いめぐらして過ごせるなら幸いです。