2008年8月18日月曜日

8月10日 主人の喜び (イエスのたとえ話 20 )

マタイ25:14~30

 TVをつけると、毎日のように、アイドルとかタレントとか言われる人たちが、頻繁に登場するのを見るでしょう。ちなみに、アイドルは「偶像」、タレントは「能力」という意味です。今どういう人がどんな理由で注目を集めているのかを見ているいと、時代の流行や大衆の価値観がいかなるものなのかわかります。アイドルや流行歌の歴史をひもとけば、世相を見事に反映しているのがわかります。さて、歌手でもなく、芸人でもないという、ルックス中心の際立った能力のないタイプの人たちを「タレント」と呼ぶようですが、私は自分の技や芸を磨くために何の努力もしていない外見の綺麗な人たちも十分評価しています。いいじゃないですか、見かけがすばらしいのは。アイドルだって、体型を維持するために頑張ったり、化粧やファッションには気を使ったりしているでしょうが、それらの努力は、芸を追求する人たちの努力に比べれば、努力のうちには入らないでしょう。それも努力だと認めたとしても、全く質の違う努力です。その人が美しいのは、基本的には、その人自身ががんばったからではないということが、はっきりわかっています。人工的な整形ではなく、天然のものだからこそ高い価値があるわけです。だから、自分をデザインしてくれた神さまを賛美すればいいんですが、そういう人はあまりいません。ひとたびアイドルとしてが偶像化されると、本人も「自分が一般の人より何だかワンランク上の存在」だと思いこんでしまうことになるので具合が悪いのです。だから、その虚栄の中で拡大していくイメージと実像の落差にアイドルたちはみな悩みます。だから、普通の女の子はアイドルに憧れるのですが、アイドルは普通の女の子に戻りたがるわけです。TVはこの世や時代を学ぶ上でけっこう大切なツールだと思いますが、クリスチャンがTV的価値の中にどっぷりはまりこむのはいただけません。TVから得られる情報をみことばによってクールに分析していただきたいです。「蛇のようにさとく」なってください。甲子園やオリンピックでTVに釘付けになってしまう人も多いようですが、この夏、全国大会が行われているのは、野球だけではありません。高校にはハンドボール部もあれば、軟式テニス部だってあります。オリンピックの影ではグルジアで2千人死んでいるのです。そういうこともキチンと相対化する知能を養いつつ、楽しんでいただけるといいなと思います。「TVは有害」といって遮断するのではなく、柔軟にそこからこの世の抜け目のなさを学んでください。
 今日は「タラントのたとえ」を中心にマタイ25章を見ていくのですが、実は、英語のタレントの語源になったのが、当時の通過の単位であったタラントです。それは元来、主人が分け与えてくれた財産でした。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」(マタイ25:14)と書かれています。つまり、このたとえにおいても、財産を預けて旅に出て行く主人がお話の中心です。5タラントもらった人でも、2タラントもらった人でも、1タラントもらった人でもありません。 聖書は徹頭徹尾「神の書」です。人が創作したものではありません。それは、このようなたとえの基本的な設定や些細な言い回しの中にも現れています。人間の創作では、主人が主人公というような設定はまずありません。NHKの朝ドラでも、宮崎駿のアニメでも、女の子や幼子、弱者の視点で描かれるから、より多くの人が感情移入できるわけです。みことばは、安直な感情移入を拒否し、医者の宣告のように、ドライに私たちの現状を映し出します。人は基本的にこの世でうまくやることしか求めてはいません。誰も神や本当の正義など求めてはいないのです。人が救われたいと思っても、それは神が与えようとする救いとは全く異なるものを求めているにすぎません。だからこそ、本物の救い主が来ても、イエスが救い主には見えないのです。忘れないでください。人が救いを求めたのではなく、神が救いを計画されたのです。考えてみてください。私たちのうちの誰一人として自分から「存在したい」と願った覚えさえありません。神が一方的にこの生を与えたのです。自分で生きているのではなく、生かされているのです。宗教は、自分の現状や願望を中心にした「生き甲斐」や「救済」を設定しますが、神にある人生やキリストによる贖いは、そういうものとは全く違います。最初にきちんとそのことを確認しておけば、「タラントのたとえ」の読み方もおのずと決まってきます。
ここには、5タラントと2タラントと1タラントという3段階の財産を預かったひ人たちが登場します。これは上流、中流、下流というような、いわゆる「階級」や「格差」を表現しているのでしょうか。そうではありません。実際に私たちが受けているタラントは、さらに「小刻み」で「多様」に分けられているでしょう。ここで押さえておかなければならない重要なことは、「私たちがいかなるタラントをどれほど持っていたとしても、それは主人から預かったものであり、預かったもの以外は持っていない」ということです。ここがポイントです。画一的で全く同じものが与えれていたら、それを配給した出先が明確になります。ところが、それがあまりに小刻みで多様に配剤されたものであるからこそ、あたかもそれが自分自身のものであるかのような大きな錯覚に陥っているだけなのです。5タラント預かった者はさらに5タラント、2タラント預かったものはさらに2タラントもうけて、主人にそのことを報告し、それぞれに賞賛されています。このことから、「私たちのいただいているタラントの中には、少なくともそれを2倍に増やす力が備えられている」と考えても間違いではないでしょう。さらに言えば、それ以上には増やせないのかという「野心」もおこりますし、その基準に及ばないこともあるのではという「不安」もあるでしょう。私たちは自分の能力に関してそういう「野心」や「不安」と常に戦っています。実質を追求することよりも、外からの「格付け」をしてもらって「安心」を買いたいのです。しかし、主人の評価の仕方は、しもべの格付け願望を吹き飛ばすような痛快なものです。主人の評価の基準は、どれだけもうけたかではなく、「忠実であるかどうか」ということです。忠実な良い行いは、主人の喜びであることが書かれています。「よくやった,良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから,私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21・23)よく見てください。5タラント預かった人と、2タラント預かった人は、全く同じことばで評価されています。これが、主人の評価であり、神の基準です。大事なのは、5タラントもうけた自分の喜びではありません。「たくさんもうけた」とか、「人よりもうけた」とかではないのです。主人の喜びをともに喜ぶことです。主人の喜びをともに喜べる霊的な感性というか一体感が重要なのです。自分の喜びを追求している限り、主人の喜びには思いが至らないのです。
いよいよオリンピックですが、オリンピックに出場するようなアスリートたちは、みな5タラントの体力や運動能力を与えられた人たちです。そういうレベルの人たちが、わずかな力の差をハイレベルで競い合うわけです。それをどのようにとらえるかは大切なことですが、与えられ、磨き抜いた力を競い合うこと自体は、別に良いことでも悪いことでもありません。私たちが見て感動するのは、与えられているタラントを最大限まで使いきる姿は美しいものだからです。しかし、それをどう評価するかは問題です。勝者には「栄光」がついてきます。その栄光は誰のものでしょう。また、そもそも競い合う「動機」はどこにあるのでしょうか。オリンピックに限らず、私たちは常に能力を問われ続け、それが人間の価値を左右するかのようなレッテルを貼られて成長します。先程言った「外からの格付け」を望まなかったとしても、勝手に偏差値をつけたり、「負け組」だの、「ハケン」だの、「パートさん」だの、いろんな呼び方で、それがあたかも人間そのものの価値であるかのように評価するわけです。誰もが、そうした評価に違和感を持ちながらも、「周囲を出し抜き、少しでも上に!」と考えるのが一般的な傾向です。例えば、受験の結果が出たとします。1流校と3流校に合格した人たちは、同じ評価を受けることはありません。そういうわけで、1タラントの人は卑屈になりました。ほかの2タラントと、5タラントの人と自分を比較したからです。2タラントや5タラントはたくさんで、自分の預かった物はわずかだと考えました。「どうせ私なんて」という寂しい発想です。だいたいいじけてひねくれる人は、恨みや妬みが強く、自尊感情が低い。しかし、1タラントというのは、実際は決して少ない金額ではありません。1タラントは6000デナリ、ベタニヤのマリヤが注いだあの高価な香油が300デナリですから、その5倍もあるわけで、立派に事業を興せます。今風言えば、ベンチャー企業の資本金ぐらいにはなるわけです。神の与えたタラントというのを、人はあまりにも過小評価していると思います。「私なんて」と卑屈にならなければならないほど少なくしか与えられていない人なんて本当は一人もいないと、私は信じています。これは何千人の子どもたちを見てきた実感です。人は勝手に自分の可能性をどんどん捨てているのです。
主人は、しもべとは違ったものを比較しています。主人は、3人に預けた物を各々比べてはいません。地上のものと天のものを比較して、「わずかな物」とか「たくさんの物」と語っています。地上で預けた1タラントや2タラントや5タラントは、神にとってはいずれもともにわずかなものです。本当に任せたいものは天にあります。天でたくさんのものを預けてよいかどうかを、試されただけなのです。このテストの意味を悟らず、地上でのクリスチャン生活の意味がわかっていないと天に居場所はないでしょう。しもべの中には、役に立つしもべと役に立たないしもべがいます。「役に立たないしもべは、暗闇で泣いてはぎしりをする」と書かれていますが、これは御国に入れず、拒まれる人たちに特有の描写です。「能力がない」あるいは「低い」から役立たずなのではなく、主人の心を理解しないことが役立たずなのです。自分のタラントを地の中に隠した愚かなしもべは何と言っていたか思い出してください。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。」(マタイ25:24~25)このしもべは、とても主人に対して、非常に歪んだイメージを持っていました。タレントの高い他者をアイドル化して自分を卑下する人たちは、真の神と人格的に触れ合うことが出来ず、歪んだ神さま像を勝手に作り上げて、その自分で作り上げた神のイメージの前で自分を閉ざしていきます。こうして宗教としてのキリスト教をやっている人たちは、みなさんビョーキになられるのです。私たちが地上でお互いのタラントを比べ、測り合うのは愚かなことです。もし自分が人より何か優れているとしたら、それは共に分かちあうためであり、弱い人を支えるためであり、足りないところを補うためなのです。誰かの優位に立ち、支配し、利得を得るためではありません。イエスの生き方を見ればそれは一目瞭然ではないですか。「賜物セミナー」とか、「按手や預言を受けて有能な働き人に」とか・・・全く愚かさの極みです。 このたとえの中心は、「主人の喜びをともに喜ぶこと」です。主人の喜びはどこにあるのでしょう。5タラント与えられた人が、きちんと5タラントもうけたから主人は喜んだのでしょうか。2タラントの与えられた人が1タラントしか稼げなかったら、彼は不忠実だと責められるでしょうか。主人の喜びは、私たちのもうけの額には関係ありません。
タラントのたとえの続きには、羊と山羊とが分けられる話が出てきます。正しい人は褒められていますが、ある人たちは非難されています。正しい人たちも愚かな人たちも、自分のした良いことや悪いことに気づいていません。なぜなら、それは日常のとても些細なことだからです。もっとも小さな者に対して行った、それこそ忘れてしまうような小さな親切だったからです。それはごく平凡な交わりであって、病人を癒すとか、悪霊を追い出すとかいう特別大きなことではありませんでした。
「タラントのたとえ」を人間的に読むと、「自分はいったいどんなタラントが、どれくらい与えられているんだろう」「あの人ほど与えられてはいないけど、この人より勝っているのでは」などと考えてしまうかも知れません。しかし、1タラントのもので、他の誰かのためにその1タラントを用いることで十分なのです。自分の賜物がどれだけのものであろうと、その賜物で他の兄弟姉妹に仕え、世の人に仕えることに価値があるのです。そのささやかな奉仕を主は覚えてくださっています。私たちは何かをもらうのではなく、ただキリストのいのちにはいるのです。