2007年9月20日木曜日

9月16日 パウロの自由

今日のテキストは使徒22章ですが、22章はいきなりパウロの証の内容から始まっているので、パウロが話し始めるに至る経緯をふりかえりながら、前章からの流れの中で見ていきましょう。
さて、エルサレムに入ったパウロは、イエスさまを受け入れたユダヤ人の兄弟たちのつまずきを回避するために、長老たちの勧めを受け入れ、あえて律法を守る姿を示そうとしました。ところが、異邦人を宮に連れ込んだと誤解したユダヤ人たちは、パウロを殺そうとして殺到しました。
この記事のポイントは、パウロの持っていたキリストにある自由と、宗教で凝り固まっていたユダヤ人たちの不自由です。パウロは主にあって、律法から解放されて、キリストにある真の自由を獲得していましたが、ユダヤ人たちは、自分たちの立場と主張を守るために予断と偏見に心を支配されていました。そのような凝り固まった人間に宿るのは、敵意と憎しみです。信仰の問題で立場の対立する人たちの言い分を聞く必要はあまりありません。激しい敵意や憎しみを持っている人たちが主の側にいないことだけは確かです。
証の中で語っているように、パウロもかつては、律法による義を追い求めていまいしたが、イエスさまとの出会いによって、それを守ることによっては、神の望まれる義には到底達し得ないことを教えるためのものであると理解するに至りました。(Ⅰテモテ1:8~10)律法は、人の罪と契約違反を明らかにし、福音の必要を教えるためのものなのです。
「割礼を受けているかいないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」(ガラテヤ6:15~16)いうことばに見られるように、新しい創造の基準に従って進むことだけが、パウロの指針でした。もはや、パウロにとっては、生まれながらのユダヤ人が神のイスラエルなのではなく、ユダヤ人も異邦人も関係なく、新しく創造された民こそが神のイスラエルだったのです。

パウロは興奮したユダヤ人の群衆に殺されそうになったところをローマ兵によって助けられます。階段付近では、パウロの命の危険を感じたローマ兵たちが彼をかつぎあげることによって救い出したのです。(使徒21:30~36)
もしローマ兵たちの機転がなければ、パウロは群衆の勢いで圧死していたかも知れません。これはとても不思議なことです。最も厳格に律法を守り続けてきたパウロが、律法を軽んじるという理由で、本来同胞であるユダヤ人たちから殺されそうになり、逆にローマ兵がパウロのいのちを救いだすことに手を貸し、さらに千人隊長は階段上から証の機会を与えてくれたのです。(使徒21:39~40)
主は、ユダヤ人の主であるだけでなく、ローマ人にとっても主なのです。ローマ人が主を知らなくても、主はローマ人を知り、彼らを用いパウロを救い出されるのです。全世界を創造された神は、神を信じてもいないし意識もしていない人々や環境をどのようにでもお用いになります。
例えば、エジプトの奴隷とされることも、解放されることも、アッシリアやバビロンに捕集されたことも、この時代のローマとの関係も、近年ではナチスに迫害されたことも、全てはユダヤ人たちの信仰とリンクしています。異邦人世界の指導者は、自分の思いのままにやりたいことをしているだけですが、その政策や判断は、主の許しと計画の中で動いているわけです。

少し話題がそれますが、BBSでmeekさんが、ホームスクールの是非について一石を投じてくださっています。これは興味深い重要なトピックなので、関連して少しだけ触れておきたいと思います。
教会関係者の中には、「クリスチャンの子弟は、普通の学校に通わせてはよからぬ影響を受けて堕落するので、ホームスクールで教育するべきだ」と考える人たちが少なからずいます。私はモーセやヨセフを例にあげて、「彼らは世で学んだではないか」と当然のように書きました。すると、同じモーセやヨセフを例にあげて、「彼らは世に送られる前に、幼少期にユダヤ人である母や父のもとで信仰の訓練を受けたではないか。だからこそホームスクールが大切だ」と主張する人たちがいることを教えてくださいました。
モーセやヨセフの親たちが信仰を伝えたことは言うまでもないことであり、それこそが、彼らのアイデンティティーになるわけです。しかし、それは世が与える影響とのバランスの問題であって、彼らが幼少期を親とともに過ごしたことが、即ホームスクールにつながるという発想は、極めて短絡であり、「はじめに自分の主張ありき」の間違った解釈です。

 考えてみてください。自分たちが隔離しなければならないほど軽蔑しているフィールドで育った人たちを、心から尊敬して何か意味のあることを伝えられるでしょうか。イエスさまは、その人としての人生のほとんどをナザレで過ごされました。ラビとしての専門教育を全く受けられませんでした。イエスさまが進んで受けられたのは、専門教育ではなく、荒野での誘惑やヨハネのバプテスマでした。しかも、アダムのようにいきなり成人としてこの世に来られたのではありません。わざわざ赤ん坊から、普通の人々に埋もれて、全く普通に過ごされたのはなぜでしょうか。
 それはイエスさまが罪人の普通の生活を知るためです。その汗と涙を苦労と悲しみと体験するためです。主が私たちと同じであることを必要とされたのなら、主のみこころを歩もうとする者が、どうして特別な道を準備しようとするのでしょうか。イエスさまが人となられたことの意味に対して目が開かれているなら、クリスチャン子弟を、世の悪影響などという軽薄な理由で隔離してしまうことがどれほど愚かなことであるかわかるはずです。
  さらに、モーセやヨセフの時代も、イエスさまの時代も、学校教育制度なんてないわけです。つまり、家庭や地域がすべてだったわけですね。ホームスクールなどというのは、不適応者のアンチテーゼじゃないですか。全くお話にもならないと私は思います。このような選択は、子どもの教育だけの問題ではありません。子どもに望むことの中には、親の隠された本音があります。

 そういう価値観がパウロのような真の自由人に向かって、怒り狂って叫ばせるのでしょう。自分の立場や習慣を絶対とし、相手を見下して上からモノを言い、文化侵略を行って来たのです。そのような力づくの宣教を行い、宗教としてのキリスト教を拡大してきたわけです。その結果、どれほど大きな教会が建ち、大勢の人がライフスタイルを変えたとしても、それは何の意味もないこの世の流行のひとつにすぎません。
 
パウロは、今自分を殺そうとした人々に向かって話し始めます。パウロは激しく自分を憎み、襲いかかってきた彼らに対して、「兄弟たち、父たち」(使徒22:3)と語りかけます。そして、自分が体験したことをありのまま、子どものような素朴さで証するのです。そこには、何の装飾もなく、解説もありません。ユダヤ人たちは、しばらく黙ってパウロの話を聞いていましたが、異邦人の救いに話が及ぶと、殺気だってパウロのことばを遮りました。パウロの真実な証も彼らの心には全く届きませんでした。パウロはユダヤ人に敵意はありません。敵意を持っているのはユダヤ人たちのほうです。
千人隊長は、なぜユダヤ人の群衆がパウロをこれほどに憎むのか理解できず、兵営の中に引き入れてむち打って調べるために、パウロを縛りました。
そのときパウロは、「ローマ市民である者を裁判もかけずにむち打ってよいのですか。」(使徒22:25)とパウロのそばに立っている百人隊長に言いました。百人隊長は驚いて千人隊長に報告しましたが、さらに驚いたのは千人隊長でした。なぜなら、この千人隊長は大金を出して、この市民権を得たのですが、パウロは生まれながらにローマの市民権を持っていたからです。
ローマの市民権は、ローマの長い歴史の中で、それぞれの時代にさまざまな意味合いを持ちます。市民権は、はじめはローマの居住者に限られていました。それが領土の拡大にともなってローマ居住者以外でも、有力者には市民権が与えられるようになり、やがては奴隷ではない自由人すべてに与えられるようになります。パウロが生きた時代は、市民権が最も特権であった時代で、千人隊長のことばにあるように、お金で売り買いするほどの価値があったわけです。

パウロは、ここで自分がローマの市民権を持っていることを主張し、結果として難を逃れます。しかし、パウロはもちろんそのことにプライドを持っていたわけでもなく、単に苦しみを回避するために、そのカードを使ったわけではないと思います。おそらくパウロはさらに大きな証の機会を狙っていたのでしょう。パウロはここでも自分に与えられた賜物や立場を自由に用いているわけです。決してそれにより頼んでいるわけではないけれど、冷静に自分に与えられているものを利用するという態度には教えられます。
パウロは自分が生まれながらのローマ市民であることなど、別に誇りだとも特権だとも思っていません。でも、その事実を百人隊長に告げれば、どういう展開になるかは計算できるのです。これは、重要な主にある信仰の処世術のひとつです。主は無駄に私たちに与えているものは何もないと思うのです。
しかし、間違えないでください。情けないのは、信仰があっても神の子とされた価値やキリストの花嫁とされた恵みがわからず、「ローマ市民」に代表されるような、この世の特権や満足を得ようとする本末転倒の態度です。
学びたいのは、ユダヤ人にはユダヤ人に対して、ローマ人にはローマ人に対して柔軟に自分を合わせながら、それでも全く信仰のブレを起こさないパウロの姿です。このパウロが持っていたキリストにある自由こそ、信仰に生きるものにとって、最も大切なものです。(Ⅰコリント9:19~23)

心が善悪に縛られると、自分が与えられているものを、与えられていないかのように振る舞ったり、変な遠慮やこだわりが邪魔して、出来ることをあえて控えたりしてしまうことが多くなります。しかし、私たちが持っているものは、はじめから全て主のものであり、与えられたもの以外は何も持っていないわけだから、立場であれ、時間であれ、お金であれ、能力であれ、主のためなら、何でも自由に使うべきなのです。キリストを得て、その価値を知ったなら、私に属するものはすべてちりあくたであるとわかります。神の絶対の前では全てが無です。しかし、パウロの与えられたものは、世において相対化すれば、ものすごい力と影響力です。これを主にあって正しく用いるべきなのです。(ピリピ3:8~15)私たちが歩んで来た道、与えられている能力、培われてきた性質、人間関係、これらをすべて主に委ね、ひたむきに前のものに向かって進みましょう。