2007年9月28日金曜日

9月23日 その夜 主がパウロのそばに立って

使徒23章は、ユダヤの議会に対するパウロのメッセージから始まります。
しかし、パウロが口を開くや否や妨害が入ります。妨害したのは大祭司です。パウロが準備していたであろうメッセージを伝える前に、議会は混乱してしまいます。図式としては、この世の権威と立場の対立になってしまいます。  
パウロはその構造と混乱の原因を見て取って、自分に向かっていた怒りや攻撃のエネルギーをお互いに向けさせようとしました。剣の達人がさらりと身を翻して同士討ちをさせる感じです。

激しく対立するのは、サドカイ派とパリサイ派という二大派閥です。ここでは、パウロは自分がパリサイ人であることを強調します。(使徒23:6)ふたつの派の対立のポイントは、「復活と御使いと霊があるかないか」といったことです。(使徒23:8)パウロは自分がパリサイ人だと言えば、一時的にパリサイ派が自分の側に立って、サドカイ派の反発を抑えてくれるだろうと計算したのですが、そのとおりになりました。論争はますます激しさを増し、パウロは引き裂かれそうになったので、ローマの千人隊長によって救われました。

パウロが難を逃れたことは喜ばしいことで、作戦が功を奏したことも悪いことではないのですが、パウロは決して晴れ晴れした気持ちではなかったと思います。なぜなら、同胞にきちんと証出来なかったからです。準備していたメッセージが出来ないまま、言いたくもない皮肉を言い、相手の愚かさを利用して安全を確保したからです。
 そんなパウロの心中を一番よくご存じなのは主です。主はこのとき、御使いを通してではなく、ご自身自らがそばに立ってパウロを励ましてくださったことが書かれています。
 「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない』と言われた。」(使徒23:11)
主はご自分の歩まれた道のりをパウロに追体験させながら、その体験の中で彼とともにいて、ご自身の福音の価値を教えていかれるのです。パウロにとって、自分の働きがどれだけの結果をもたらすかではなく、主のみこころの中にあるということが、確かな安息につながったことでしょう。主はパウロをただ伝道の道具としてお使いになったのではなく、主ご自身のおこころの理解者として、必要な経験を与えられたのだと思っています。パウロ自身も自分に与えられた導きをそのような主の愛を感じて受け止めていたことでしょう。
一夜明けると、ユダヤ人たちは徒党を組んで、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないとまで誓い合って憎しみを確かめあっています。もうここではサドカイ派もパリサイ派もなく、「パウロ憎し」で一致して新たな組織を立ち上げたわけです。彼らは普通に論争すればパウロに勝ち目がないことを知っているので、卑怯な手段で待ち伏せして殺そうとしますが、パウロの甥にあたる青年がその情報を伝えたので、パウロはここでもまたローマの護衛に守られてカイザリヤに逃れました。クラウデオ・ルシヤが総統ペリクスに当てた手紙の文面が書かれていますが、非常に常識的です。非常識なのは、みことばを手にしたユダヤ人の指導者たちです。

私たちは、この23章で起こっている出来事の中から、いったい何を学ぶべきでしょうか。ここで起こっていることは、イエスさまが十字架に追いやられていくプロセスと同じです。そして、これは2000年間ずっと世界のあちこちで起こり続け、今日も起こっている出来事と同じ構造を持っているのです。
 パウロが一瞬にして、そこに起こっている問題の本質を見て取ったように、私たちも自分たちの周辺で起こるさまざまな出来事をしっかり見定める目を持つことが期待されます。

現在のキリスト教会においても、カトリック・プロテスタント各派が、それぞれに教団の信条を守りつつ、活動を展開しています。「サドカイ派」「パリサイ派」とあるように、今日も「福音派」「聖霊派」をはじめ、数々の教団教派があります。別にそれら細かく比較して優劣をつけたところで意味がないし、全部それらは嘘っぱちですと言ってももっと意味がない。他者を批判することによって、自らの正当性を主張するのは、愚か者の手法ですから、別のかたちで考えましょう。
どんなグループに属していても、それは地上における一時的な有り様を表現しているに過ぎません。奈良に住んでいても、北海道に住んでいても、沖縄に住んでいても、みなひとつの天国に行き、ひとりの花嫁として迎えられるわけで、乱暴に言ってしまえば、所属教団や所属教会なんてどうでもいい話です。要するに、はっきり悔い改め、生まれかわって、主の御霊によってバプテスマされているかどうかということが、クリスチャンにとってアイデンティティーのすべてです。ところが、所属教団やその信仰のスタイルや教団内での地位に執拗にこだわるというのは、まさに、パウロ憎しの「パリサイ派」「サドカイ派」と同じレベル、同じ発想なのです。
どんな群れにも熱心な人と不熱心な人がいるでしょう。派閥で分けずに、違う分け方をして、本質に迫っていきたいと思います。そして、大事なことは間違いを批判することではなく、自分の立ち位置を確認することです。これがなければ、メッセージそのものが無意味になります。
サンデー・クリスチャンということばがあります。日曜日だけ礼拝に出かけその宗教的儀式や作法に習って一応自分を合わせる。しかし、教会を一歩出れば、そうした制約から解かれ、この世の人と全く同じ生活をする。このような人はこの世に完全に埋没し、クリスチャンとしての発信が出来ていません。仕事でも、近所づきあいでも、余興でも、何でも簡単に礼拝に優先します。「神の国とその義を絶対に第一にしない人たち」です。このタイプの人たちは、教会では教会の演じ方や言葉遣いがあるのでそれなりにこなし、この世でもそれなりにというか、むしろいっそういきいきとやっている場合があります。本人にとっても教会より世が楽しい。それでも教会に来るのは、教会に通うことが世においての何らかのプラスの効果を生んでいると考えるからです。しかしながら、みことばがまっすぐに語られている教会では、このスタイルは長く続けることは困難です。みことばは開かれても、隣人愛や寛容な態度などのこの世の道徳を繰り返し語るような教会であれば、この世とうまくバランスを保ちながら、一生でも二股かけてやっていけます。
同じサンデー・クリスチャンでも、逆の場合もあります。この世ではうまく自己実現出来ず、誰にも相手にしてもらえない。だから、教会に慰めを求めてやってくる。悪いのは自分でじゃなくて、自分を受け入れかったこの世。世は冷たい場所。教会だけがあたたかい私の家族。日曜日が楽しみで後はこの世で固まった状態。実際に、「モラルの社交場」になっている教会や、「病んだ人たちのたまり場」のようになっている教会はたくさんあります。
「そういう態度では、いずれも本当の信仰とは言えないのではないか」ということくらいは、信仰のない人にだってわかります。ローマの百人隊長レベルの普通の常識的な社会人なら、聖書なんか1ページも読まなくても理解できるわけです。要するに、はっきり言ってしまうと、そんな信仰なら教会なんかいかない方がまし、そんな教会なら存在しないほうがましだということです。

そこで、聖書を正しく読まずに、ムリに宗教心をかりたてるとどうなるか。自分の家族や所属する集団に対する責任を放棄しても、その集団の価値観やルールを守ろうとする教条主義になります。こうなると、自分たちの集団以外の価値観が許せなくなり、それら全てを否定しようとします。そして、おせっかいにも、その価値観こそ正義なのだとあちこちへ触れてまわるわけです。こういう人たちの振る舞いは、先に挙げた人たちとは比較にならないほど、迷惑この上ない非常識なものとなるのです。
例えば、ものすごくわかりやすい例を出せば、エホバの証人というグループの人たちが、「私たちは輸血をしません」「武道をさせません」というような選択をする場合です。なぜそんな愚かな判断が出来るのかと言えば、「それはみことばが禁じていているからだ」と言うわけです。こんなことを真面目な顔して主張するところに、まず議論は成立しません。エホバの証人を異端視する集まりでも、やれ「ホームスクールだ」となるわけです。どこのグループであろうが、人間の根本や思考のプロセスは同じです。

アメリカにはアーミッシュというクリスチャン集落があります。現代文明を拒絶して集落を形成しています。日本で言えば、白川郷の合掌造り集落で、年中もんぺはいて、いろりとランプで生活し、買い物に行かずに田畑耕して自給自足する感じです。それが正しい信仰のスタイルだと思い込んでいるわけです。アメリカはもともと国そのものが、巨大なアーミッシュみたいなもので、本国イギリスが気に食わない人たちが、祖国をエジプトに見立ててイクソダスし、先住民族を大量殺戮して建設した国です。ですから、ブッシュ政権が聖書に左手を置いて右手でアラブ人を殺しても、それは「エリコの戦い」で、自分たちはヨシュアなのだとけっこう本気で思っているわけです。
 ですから、たとえ聖書を読んでいても、その意味がわからなければ、それがどれほど小規模であっても、大規模であっても、人は必ず過ちを繰り返します。父なる神の御名を、イエスさまの御名を語って大嘘をつくのです。その挙げ句の果てが神の名を使った「正義の戦争」です。

キリスト教会の中では、この世でうまく自己実現することが出来ず、周囲に評価されなかったと感じるコンプレックスをエネルギーにして、キリスト教会という業界で人生のリベンジを狙って活躍しようとする人たちもいます。そういう人たちは、パウロのように、何の後ろ盾もないのに、自信と確信にあふれて語る人物は、その内容を聞くまでもなくその存在や態度が許せないわけです。
彼らの言い分は傑作です。「あなたは神の大祭司をののしるのか」(使徒23:4)しかも、大祭司本人は無言で、そばに立っていた付き人連中が気をつかって発言している。まるで出来損ないの水戸黄門です。

本来クリスチャンの日常は決して、この世と乖離したものであってはいけません。イエスさまのナザレでの日々を思ってください。別に伝道の大計画を立てる必要もありません。私たちもパウロのように、それぞれのエルサレムやローマで証する場面が必ずあります。そういう場面が与えられないクリスチャンはひとりもいません。いつでも心の中にある希望について弁明できるような日常を生きることが大切です。(Ⅰペテロ3:14~17)