2007年9月6日木曜日

9月2日 走るべき行程


今日は「走るべき行程」というタイトルをつけました。世界陸上の影響も少しあるかも知れません。私はスポーツが好きなので、ついつい気になってチェックしていました。同じ走る競技でも、スタートラインに並んだ時点で、その種目ごとに体型まで違います。短距離には短距離の、長距離には長距離の適性やトレーニングの仕方や戦術があります。実力だけでなく、本人の体調や心理状態、天候や会場のコンディションも影響しますし、レースそのもののさまざまな駆け引きが勝敗を分けます。そして、アスリートたちは1秒でも早くゴールするために、日々の厳しい練習に耐え、レースに全神経を集中します。その真剣な姿が、見る者を引きつけるのです。素人がたとえ同じ距離を、おなかをたぷたぷさせて走っても、誰も感動など覚えないでしょう。やはり鍛え抜いた人たちが、与えられた力を極限まで発揮する姿が、人の心を動かすのです。
使徒の働きの9章以降は、パウロに関する記事が大半を占めます。読み手もついついパウロの旅路に同行するような気持ちで読み進んでしまいます。パウロの超人的な働きの背景には、勿論彼の個人的な能力の高さや、特別に与えられた役割があります。しかしながら、何度も繰り返し言っているように、それは主がともにおられたからこそ成し得たことであり、多くの不思議やしるしも主がパウロを通して行われたことでした。そして、私たちが一番心を動かされるのは、パウロの賜物や働きの大きさではありません。私たちがパウロに心ひかれるのは、その真摯な信仰の姿勢や、イエスさまに対する愛に対してではないでしょうか。パウロは自分の与えられたものすべてを使い尽くすように、限界まで努力奮闘しました。それは世界の頂点を競い合うアスリートの姿とも似ているのです。パウロ自身はこのように語っています。「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことは真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。」(Ⅰテモテ4:8~11)パウロが目指したものは、肉体の鍛錬以上のものでした。パウロは体を鍛えることが無益だと言っているのではなく、もっと有益なものを追求せよと勧めているのです。それは生ける神にのみ望みを置き、キリストのために労することです。アスリートたちが、五体満足、意気軒昂に実力を競いあえること自体が、大きな神様の恵みなわけですが、私たちもキリストの苦しみを賜ったことは恵みなのです。彼らは非常に努力しています。同じように、私たちにも努力が必要です。それは、名を上げ、自分の栄光を求める肉の努力ではありません。神の御名があがめられることを求め、神の栄光を求めるあゆみです。
さらにパウロは、「私がキリストを見習っているように見習って欲しい」(Ⅰコリント11:1)と語っていますが、まさに私たちが学ぶべきポイントはそこにあります。呪術師がパウロのわざや権威をまねようとしたように、うわべだけを見ていい格好をしたい人はたくさんいますが、私たちが見習うべきところはそんなことではないのです。パウロがここで語っている「走るべき行程」とは、単に伝道旅行のことではなく、「主に委ねられたことの全体」を指しています。パウロはそれを全うできたかどうかを自問しているわけです。
パウロはダマスコの途上で、よみがえられたイエスさまに出会うまでは、それこそ、レース場を全速力で逆走するような、あるいは、レースそのものを妨害するような生き方をしていました。信仰がなければ、この競技場も見えないし、競技のルールもわかないし、その戦いの意味も、それによってもたらされる栄誉もわかりません。この世の人には、私たちが何を礼拝し、何のために生きているのかわからないのです。
みなさんに聞きます。あなたは何を主に委ねられましたか。あなたのレースはどんなレースですか。また、自分はアスリートであるという自覚があるでしょうか。残念ながら、そんな自覚の乏しい方や備えやトレーニング不足の方も多いのではないかと思います。それでは駄目なんです。勿論、パウロは「特別な人」ですが、同じように、私たちひとりひとりも「特別な人」です。パウロに彼の「走るべき行程」が備えられていたことは疑う余地がありません。そして、パウロがその行程を忠実に歩んで来たことも、「使徒の働き」に見るとおりです。私たちはどうでしょうか。私たちには私たちの「走るべき行程」があるのです。もっと責任を明確にするために、「私たち」と言うのはやめて、「私」には「私」の、「あなた」に「あなた」のと言い換えましょう。あなたの行程はあなただけのものであり、そこには責任があります。それは非常に重い責任です。真理は私たちを自由にしました。そうです。自由です。この自由ということほど尊い価値は他にありません。私たちは罪の奴隷でした。しかし、今は自由なのです。この空中の権威者の下にいました。しかし、今はキリストの自由を得たのです。自由には責任が伴います。パウロにこう言っています。「私は、すべての人が受けるさばきについて責任がありません」(使徒20:26)です。パウロは「すべての人に対して負債を負っている」と言うふうに考えていました。(ローマ1:14)「福音を伝えることはどうしてもしなければならないことで、それをしなければ災いに会う」とさえ言っています。(Ⅰコリント9:1~18)このⅠコリントの9章では、パウロは、神の恵みのもとでの人の努力について、さらに、自由について、権利について、誇りについて語っています。私たちは、それをどう読めばいいのでしょうか。あなたは、その信仰の道のりのどのあたりにいて、さしあたって次に何をすべきなのですか。このⅠコリント9章の後半では、パウロは、いみじくも、陸上競技を信仰に喩えて書いています。
同じ陸上競技の中でも、マラソンは2時間以上走らないと結果が出ませんが、100メートル走なら息をとめて10秒と少しで結果が出ます。あなたの参加種目は何ですか。自分が何を主から委ねられ、どのように自分を鍛え、どのような心構えで、日々過ごすべきなのかという自覚がないのは困ったことです。 救われた以上、主から「何も委ねられない」ということはありません。いのちが与えられ、家族に加えられたなら、お互いがその中で役割を果たすべきです。言い換えれば、信仰に観客はいないのです。全員がアスリートであり、競技参加者です。しかも、パウロの表現から伺えるのは、タラタラ楽しく走る市民レースではなく、勝利を目指した真剣勝負です。失格は何としても避けたいものです。
 動機付けは何でしょう。世界陸上であれば、自分のため、家族やチームのため、あるいは国家のために走るでしょう。ある競技では、ケニアが金・銀・銅と独占して、3人で国旗を掲げながら、走っている姿はけっこう胸が熱くなりました。私たちの場合はどうでしょうか。「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)という教会に支払われた価値の大きさを知ることが原動力になるのです。肉の目で「教会」を見ていては、意欲などわかないでしょう。「支払われた代価」を通して教会を見つめるとき、主の愛が私たちを突き抜けて他の兄弟姉妹に及ぶようになるのです。この買い取るというギリシャ語は贖いを意味しています。ただ「買う」のではなく、「獲得する」「自分のものにする」という強い意味があるのです。「買い取られた」は完了形になっています。継続や繰り返しはないのです。それは、ただ一度過去に起こった行為、つまり十字架で流された血潮によって獲得されたのです。(エペソ1:7) さらにこのことばに後に続くのは何でしょうか。「・・・を牧させるために、あなたがたを群れの監督としてお立てになったのです。」(使徒20:28) その価値ある教会を牧するリーダーをお立てになったのは聖霊です。 教会における人事を行われるのは聖霊なのです。すべてを導かれるのは、人ではなく聖霊です。パウロは教会における聖霊の主権を宣言した直後に、起こりうる問題についても語っています。「私が出発した後、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがたの中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」(使徒20:29~30) これは、パウロが聖霊によって知っていた彼らの未来に関する予言でした。パウロはその危険を承知していたので、涙とともにひとりひとりを訓戒してきたのです。そのエッセンスが32節です。「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒20:32)
みことばが、私たちを育成するのです。みことばが御国を継がせるのです。みことばが私たちの唯一の武器です。やり投げの選手がやりを持たずに競技に参加できますか。ハンマー投げの選手がハンマーを持たずに競技に参加できますか。クリスチャンがみことばなしで、どうやって競技で戦うのですか。
みことばに養われていない人は、何年教会に集っても、洗礼を受けても、失格者であり、公式記録なしです。
今日のメッセージを、決して人間的にとらえないでください。もう一度ご自分でみことばを読み、主から直接教えられてください。それぞれに必要な語りかけをお聞きになると思います。