2007年9月20日木曜日

9月9日 主のみこころのままに

今日はかなり繊細で深いテーマに迫ってお話します。注意深くみことばをひもとき、学んでまいりましょう。
「私たちは弟子たちを見つけ出して、そこに7日間滞在した。彼らは御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告した。」(使徒21:4)と書かれています。
「しきりに」と書いてあるので、おそらくパウロたちが滞在していた7日間の間に何度もツロにいた兄弟たちは、「エルサレムには行くべきではない」と勧めたのでしょう。勿論それはパウロの身を案じての心からの忠告です。見送りの場面を見ても、家の玄関先で別れたのではありません。妻や子どもたちも町はずれまで一緒についてきてパウロたちとの別れを惜しんでいます。そして海岸にひざまずいて祈っているのです。(使徒21:5)そんな様子からも、彼らの交わりの親しさと、信仰の豊かさが伺えます。そういう親しい兄弟たちが心から自分のことを心配して、繰り返し忠告してくれていたのです。単に主張がぶつかって、どちらがより正しいかなどという話ではないことがわかります。

 ツロを出たパウロたち一行はトレマイに渡りました。そして、翌日にはカイザリヤに着き、ピリポの家に滞在しています。そこへアガボという預言者がユダヤからやって来たのでした。アガボは、パウロの帯をとって自分のからだまで縛って見せて、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人にこんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される』と聖霊がお告げになっています」と伝えました。(使徒21:11)エルサレムの方角からわざわざこの預言のために下って来た人物の、パフォーマンスつきの具体的な預言です。それを聞いたカイザリヤの兄弟たちも、ルカをはじめパウロの同行者たちも、黙っていられなくなり、ともにパウロがエルサレムに上らないように頼みました。
 ツロでは「忠告」でした。その主体は「彼ら」すなわち現地の兄弟たちです。ところがカイザリヤでの場合は涙ながらの「懇願」です。その主体は「私たち」すなわちパウロと旅をともにしてきた兄弟たちです。
 当然、パウロの気持ちも揺れたはずです。先ほども触れたように、単なる反対意見やおせっかいではありません。パウロの性格や気持ち、そしてその信仰を尊敬している兄弟たちが心から止めてくれているわけです。しかし、パウロは力強く次のように答えました。
「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」(使徒21:13)
 パウロは忠告や懇願の中身を十分に理解し、彼らの優しい気持ちもくみ取ってもなお聞き入れませんでした。兄弟たちはパウロの固い決意を感じてそれ以上のことばもなく、「主のみこころのままに」と言って黙ってしまいました。
では、この場合の「主のみこころ」とは何でしょう。パウロがエルサレムに上ることは主のみこころに反しているのでしょうか。
「エルサレムへは上るべきではない」と主張した兄弟たちは、いずれも一時の感情でそう言ったのではありません。「御霊に示され」(使徒21:4)あるいは、「聖霊のお告げを受けて」(使徒21:11)自分のことばではないことばを語ったのです。言わば、彼らは「主のみこころを代弁した」のではないのでしょうか。
しかし、パウロはそれを受け入れませんでした。ではパウロは主のみこころに逆らったのでしょうか。どうやらそれも違うようです。パウロはパウロで、もっと明確な啓示を既に繰り返しいただいていたからです。
「いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。ただわかっているのは、聖霊がどの町でもはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。」(使徒20:22~23)
この「心を縛られて」という表現は、欄外の脚注をご覧いただくと、別訳として「聖霊に縛られて」となっています。
パウロは、自分に忠告し懇願してくれる兄弟たち以上に、自分の身にふりかかる危険や苦しみを予見していました。聖霊は同じことを何度も繰り返して、町から町へ移動するごとに、パウロに教えたのです。当然、パウロだって好き好んで苦難の道を進んでいくわけではありません。パウロは自分の考えや決意に縛られていたのではありません。聖霊に縛られていたのです。それはふりかかる苦しみを承知の上で引き受けようとするさらに大いなる力です。パウロはおそらく普通の人よりも遙かに意思が強く勇気のある人だったに違いありません。しかしこの決意は、パウロの意思の強さや人間的な勇気がもたらしたものではありません。別の次元の力がパウロを支えているのです。

繰り返して確認しますが、だからと言って、パウロ以外の兄弟たちが示されたもの、感じたこと、彼らの忠告や懇願が間違ったものだったのか、よけいなおせっかいや惑わしだったのかと言えば、そうではありません。それを示したのも、また聖霊なのです。
それぞれの兄弟たちには、それぞれの分や役割があり、理解の程度も違います。しかし、それぞれに主を愛し、主につながる兄弟を愛しています。誰もが主のみこころの中を歩みたいと願っているのです。主はその必要に応じ、さまざまな場面で、それぞれにご自身のみこころを示されます。それを受け止め、与えられた自由によって、判断し行動するのは私たちのひとりひとりの責任によるところです。
私はこの点については、次のように考えています。
例えば、ある出来事に関して意見が分かれた場合、ひとつの意見だけが正しく、他は全部間違いだとか、ひとりの人だけが100パーセント正しく、他の者の判断や行動は全てにおいてその人よりも下位に置かれるなどということはないと思っています。私が知って経験してきた限りにおいては、そう断言できます。
パウロが考えている「走るべき行程」は、十字架の向こうに続く道です。前回お話した「あなた」と「私」の走るべき行程も同じです。その道は、十字架の向こう側にしかないのです。競技場のラインは死の向こう側に引かれています。死を経ていないものはすべて偽物です。よみがえりのいのちによって導かれたのでないなら、それはこの世でいかに成功したかのように見えても、どのような高い評価を受けようとも、それはこの世限りのものです。主が喜んでくださる御霊の実ではありません。

パウロだって何も好きこのんで苦難の道を進みたいわけではありません。パウロは自分の走るべき行程の困難を理解していますが、それを見てはいません。パウロが見ているのは、さらに困難な道を既に克服してくださった御方の姿であり、ゴールで待っていてくださるこの御方の笑顔なのです。これが、単純ですが、人間的な宗教といのちの信仰との決定的な違いです。多くの人は自分の「道」にこだわります。パウロが見ていたのは、道の向こう、ゴールであり「決勝点」です。だから、パウロはこう言ったのです。「私は決勝点がどこかわからないような走り方をしてはいません。」(Ⅰコリント9:26)
迷うとき、悩むとき、落ち込むとき、私たちは決勝点を忘れています。道を見ているのです。自分の道は間違っていないだろうか。本当にこれでよかったのだろうか。祝福されるだろうか。災いに合わないだろうか。多くの困難や度重なる失敗の中で、「なぜ」「何のために」「何を目指して」歩き始めたのかを完全に忘れてしまうのです。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちもいっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、
私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえにはずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:1~2)
 ここでも、競争を走り続ける際に最も大事なことは、イエスから目を離さないことだと教えられています。

 兄弟たちが示されたことも、パウロが示されたことも、共通していました。それはエルサレムに上ればパウロは苦しみに合うというものでした。兄弟たちは、パウロが苦しみに合って欲しくないと思いました。パウロは、たとえ苦しみに合ってもさらに福音を前進させたいと考えたのです。
では、さらに進んで考えてみると、パウロの判断が主にとってさらに喜ばしいものであるとするなら、みこころを示されてもパウロのようには判断できないであろう周辺の兄弟たちに、なぜ、繰り返して、パウロの身に起こる出来事を示されたのでしょうか。エルサレムでのパウロの苦しみを予見できる御方が、そのことを兄弟たちに伝えれば、結果としてパウロの後ろ髪を引くような反応を示すことを予見できないのでしょうか。
私はパウロに「エルサレムへは行ってくれるな」と忠告し懇願した兄弟たちの思いも、主の偽らざるみこころの一部だと感じています。主が、私たちの進む行程において、あえて私たちに苦しみに合わせるとき、それは主にとっても非常につらく悲しいことなのです。それが愛です。
 主はパウロには示すことのできない、もうひとつのみこころを周辺の弟子たちに十分にお伝えになりたかったのではないでしょうか。
 アブラハムにソドムとゴモラの町のさばきをお知らせになったとき、一番その町に正しい人がいることを期待しておられたのは誰ですか。その町全部を救うことができたらと願っておられたのは誰ですか。ニネベの町についてはどうですか。ヨナは偶像を拝む、拝まないといった「信仰の正しさ」でものを見ていましたが、さまざまな経験を経る中で、神さまのみこころの深さと愛を学んでいくのです。それは魚の腹の中での十字架の死を学んだからです。神のみこころの一番深いところを流れているものは愛です。

 罪のないイエスさまが、十字架を選ぶ道行きには、葛藤があり、苦しみがありました。それがゲツセマネです。
 イエスさまの祈りはどんなものだったでしょう。
 「父よ。みこころならば、この杯を取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)
 「わたしの願い」はいつだって御父とひとつでありたいというものです。当然、十字架になど架かりたくはないのです。それは偽らざる御子の思いです。しかし、十字架に架かるためにこそ、お生まれになり、人としての御生涯を生き抜いて下さり、みことばのとおりをここまで歩んで来られたイエスさまです。これから、十字架に架かることこそが、走るべき行程の最終章であることは、百も承知のはずです。そして、御父もこの従順で真実ひとり子に極限の苦しみを負わせて見捨てるということなど出来ることではありません。「これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ」これこそ、御父の御子イエスへの評価の全てです。また、だからこそこの御子を罪を贖い得る唯一の御方として、十字架に架けるために、この世に遣わされたです。

父なる神もまた、御子が忠実で素晴らしいあゆみをされればされるほど、この方を罪ある者として罰するにはしのびないのです。そんなご自分を裁きがたい御父の思いさえ察する御子であるが故に、ただ自分が苦痛を回避したいと願う以上の深い祈り、それが「みこころのとおりに」の意味です。
十字架というのは、そもそも御父にとっても御子にとっても、ともに「選ばなくてもいい選択」なのです。あえてそれを選んでくださったからこそ、十字架は全てのものにまして価値あるものなのです。だからこそ、人が何一つ付け足す必要のない、付け足すことができない完全な救いなのです。主のみこころは、すべてこの十字架を通ります。