2008年10月3日金曜日

9月14日 憐れみのないしもべのたとえ (イエスのたとえ話 23 )

マタイ18:21~35

人にとって最も難しいことは、「人を赦し、受け入れる」ということではないでしょうか。「赦せない」という感情が生じるときには多様な背景があります。まず考えられるのは、「当然守るべきルールが守られていない場合」に、そのルールを守っている人たちの間に生じるケースです。しかし、そのルール違反が自分にどれだけの損害をもたらすかによって、「赦せない」程度は変化します。それは、人は自分勝手で他人の痛みに関しては恐ろしく鈍感だからです。例えば、大分の教員採用に関わる不正がありましたが、「ひどい話だ」と思いながらも、「あんなことは大分に限らずどこの県でもあることだ」軽く受け流してしまうかもしれません。「不正合格者の採用が取り消しになった」というニュースにも、「何もそこまでしなくても」と考える人たちも大勢います。ここでちょっと立ち止まって考えてみてください。自分が合格点に達していたにも関わらず、権力者の不正な口利きのために不合格になった当事者だったとしたらどうでしょう。「不正な口利きはどこにでもあること」と見逃せる話ではないでしょう。それこそ断じて「赦せない」のではないでしょうか。「不正合格者は採用を取り消されて当然」と思うはずです。そのルールが一般的にきちんと守られていないような場合は、反応はいっそう鈍感になります。例えば、交通ルールについて考えてみてください。自動車を運転する人で制限速度を破ったことは一度もないし、道路交通法は完全に守っているという人はおそらくいないでしょうから、違反に関しても、警察の交通安全課の人以外はかなり寛容です。ところが、もし自分の家族が、ルール違反の車にはねられていのちを奪われたとしたら、見方は全く異なってくるはずです。違反したドライバーのみならず、スピード違反や標識無視の車を見かけたら、怒りがわいてくるはずです。「赦し、受け入れる」ことに関して、わかりやすい単純な不正や罪に関しても、傍観者と当事者にはこれだけの感覚の違いがあるのです。
姦淫の現場で捕らえられた女が、当時の宗教指導者たちのはかりごとによって衆目に晒されました。律法によれば確かにそのような女は赦すべきではない。しかし、彼女を取り囲んだ群衆の和の中に彼女の家族がいたらどう思うでしょう。「確かに罪だが、その罪を覆ってやりたい」という一般的には想像もつかないような感情が湧きあがってくるはずです。そんな家族の思いを単純なことばでまとめることはできませんが、あえて表現するなら、「彼女がかわいそう」ということだと思います。それは家族には彼女に対する愛があるからです。赦しにおける問題を考えるとき、まず正義の問題について、そして、愛の問題について考える必要があります。しかし、個人の損害の程度とは関係なく、ルール違反に一定のぺナルティがあるべきで、それは個人の感情で左右されるべきではないでしょう。正しい人が間違っている人を赦せないのは当たり前です。ルール違反がペナルティを払わないまま、赦され、受け入れられるとしたら、集団の秩序は崩壊します。「正義を保つためには、罪を適切に処理せずに、罪を犯した人を赦し受け入れることは不可能」なのです。「赦さないこと」「受け入れないこと」が正解なのです。姦淫の現場でとらえられた女に対して「私もあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)と言われたイエスは、そのことばの裏に「自分がその罪を処理するから大丈夫だ」という覚悟を秘めておられたのです。あのような緊張した場面で、興奮した群衆をたったひとことで解散させることができたのは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に石を投げなさい」と言われたからですが、それは単にレトリックの勝利ではなく、そのイエスの深い愛による覚悟と権威に圧倒されたからだと思います。 間違っている人が正しい人をその人の正しさゆえに妬み憎しむケースもあります。聖書に描かれている人類最初の死は、病気や怪我によるものではなく殺人でした。死因は兄弟による撲殺でした。カインに殺意まではなかったでしょうから、現代の法律で言えば、それは傷害致死です。逆にそうだからこそ、「心の中の悪い動機が、人を殺す結果につながるのだ」という意味の戒めがあるのです。イエスが十字架に架けられた直接の原因は、パリサイ人や律法学者たちのねたみです。人の妬み、虚栄心や、偶像礼拝は神を殺すことにつながるのです。さらに、自分のことを棚上げして他人を赦せないというケースがあります。そういう場合は、誰が見てもルールを犯している社会規範の逸脱者を軽蔑することによって自分の中立や無罪あるいは善良さを確認したいという心理が働いています。このようなケースは、「自分の目の中の梁に気づかないまま兄弟の目の中のちりをとってやろうという」おせっかいにまで発展します。こうなると、相手のルール違反と気づかずにいる自分のルール違反が五十歩百歩だったりすることが多いのです。それとは逆に、誰も責めてはいないのに、自分で自分が赦せないで精神を病んだり自ら命を絶ったりするケースさえあります。兎にも角にも、誰かを赦し受け入れるということは、人にとってそれほど難しいテーマだということです。
 さて、今日ともに考えるのは、「憐れみのないしもべのたとえ」です。このたとえの中には、人が人を赦すことの難しさと、その唯一の解決の道がわかりやすく示されています。このたとえは、「兄弟が罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。」というペテロの問いに対する答えとして語られています。内容に入る前に私が問題にしたいのは、ペテロはなぜこんな質問をしたのかということです。イエスと寝食をともにして日々を過ごすうち、弟子たちをはじめ取り巻く者が増えてきました。12弟子の中にもさまざまな人物がいます。いろんな意見の衝突や確執があったのでしょう。ペテロは、良くも悪くも「誰よりもイエスの良き弟子でありたい」と願っていました。いつもイエスの言われることに直ちに反応し、口を開き、行動しました。この質問をする少し前に、弟子たちは「天の御国で誰が一番偉いのか。」(マタイ18:1)という質問をしています。おそらくこの中にはペテロも含まれており、イエスに聞きに来る前に聖書に書かれていない弟子たちだけの議論があったのかも知れません。つまり、12弟子の中にも、イエスと自分という垂直関係の他に、他の弟子たちと自分という水平関係が重要な問題として存在していました。例えば、ヤコブとヨハネが「天においてイエスの右と左に座らせて欲しい」と願い出たとき、「このことを聞いたほかの10人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた(マタイ20:24)と書かれています。ゼベダイの子たちとか、ヤコブとヨハネと書かないで、「ふたりの兄弟」と記しています。これは、「兄弟に対して腹を立てる」ということを思い起こさせるためだと思います。これらのことから考えても、ペテロが、「何度まで赦すべきか」を主に問う背景には、赦せない兄弟や出来事が心にあったはずです。ペテロは「何度まで赦すべきでしょうか」で質問を切らず、「7度まででしょうか」と自分なりの寛容さを示し、「7度まで赦せば、それでよい」というある種の承認を求めているようにも思えます。これにもわけがあります。当時のユダヤのラビたちは3度まで赦すことを教えていたのです。さらに、イエスご自身が7度まで赦すことを語られたことがあるからです。「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して1日に7度罪を犯しても、『悔い改めます。』と亥って7度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ11:3~4)これは全く想像ですが、兄弟がペテロに対して罪を犯し、ペテロは悔い改めた兄弟を何度か赦したのでしょう。その回数は3度を越えて、4度か5度赦したのかもしれません。しかし回数が重なると「また、おまえか」と、赦したはずなのに、その兄弟と穏やかに接することが出来なくなっていたのかも知れません。それで、7回までは我慢してやるが、7回辛抱すれば反撃に転じることができるという許可を求めていたのかも知れません。聖書は私たちの罪を借金にたとえますが、今日出てくるしもべの負債額は1万タラントです。さて、この借金はどれだけの金額になるでしょう。1タラントは6000デナリです。1万タラントといえば60,000,000デナリです。1デナリを1万円と計算しても、6000億円です。到底払えない数字です。これが、実は私たちが神さまに対して負っている負債です。
最初は妻子も持ち物全部売り払って返済するように命じた王様ですが、ひれ伏して懇願するしもべの姿を見てかわいそうに思い、借金を免除してやりました。かわいそうに思っただけで、全額を赦してやるとはかなり現実離れしていますが、この債権者は高利貸しではなく、王さまです。天の御国はこの憐れみ深い王さまのようだとイエスはおっしゃいました。「1時間しか働かなかった労務者に1日分の日当支払う気前のいいぶどう園の主人」といい、天の御国はこのような心の大きな桁外れの度量をもった憐れみ深い人物にたとえられています。ここで、たとえは終わりません。その赦されたしもべは、自分が借金を免除してもらった直後に、同じ仲間に貸した金を取り立てます。これは、人間が共通してもっている性質です。借りた金は返すべきです。それは守るべき当然のルールです。別に強盗しようとしているわけではないのです。不思議ですね。自分が強い立場になるとき、自分が被害を受けるとき、私たちは、厳しいルールを相手に強いるのです。そのことをもって私たちの心に神様が定めた変わることのないルールが記されていることを証言します。ところが、自分が弱い立場になったとき、自分が誰かに迷惑をかけたり、容赦してもらわなければならないときに、そのルールをないものにしようという意識が働き、ごまかし、言い訳、取り繕いが始まります。私たちがこの世の中で正当なルールにのっとってやっていると思われていることの中には、このようなごまかし、言い訳、取り繕いなしでは成り立たない仕事がたくさんあります。 私たちが神から離れたとき、私たち自分が裸であることを知り、いちじくの葉っぱで腰のまわりを覆いました。これが、ごまかし、言い訳、取り繕いのはじまりです。とって食べてはならない実を食べたことを追求されると、アダムは「エバのせいだ」と言いました。エバは「蛇のせいだ」と言いました。こうしてエデンの東で、人間は延々と、ごまかし、言い訳、取り繕いを繰り返してきました。各自が主人に対して1万タラントの借金があるという認識を持たず、いや、故意に忘れ、お互いが小銭を取りたてあっています。なかまのしもべどうしの借金の金額は100デナリです。100日分の給料です。決して簡単に免除してやれる金額ではありませんが、1万タラントに比べれば、微々たるものです。60万分の1です。1万タラント赦されたしもべは、自分が免除してもらった事実がなかったかのように、冷たく対処します。懇願する友だちを牢に投げ入れたのです。この憐れむことを知らないしもべは、私たちの姿です。私たちは、まずお互いが向き合う前に、ひとりひとりが主にどれだけのことをしていただいたのかを心にとめる必要があります。どれだけ赦され、どれだけ愛されているのか。これはお金には換算できないほど大きなものです。主との関係の健全さが、そのまま人間関係に反映されます。主の前にごまかし、言い訳をし、取り繕う人は、人の前にもごまかし、言い訳をし、取り繕うでしょう。主に自分の借金を免除されていることを聞いても、そこに愛を感じない人がいます。単に、借金を払わなくていいと思う人がいます。確かに十字架の上には、私たちの債務証書が貼り付けられています。しかし、無効になった債務証書は見えても十字架の苦しみや愛が見えない人がいます。(コロサイ2:14)巨万の富を持つ王が、憐れなしもべをかわいそうに思って借金を免除してやることは、このたとえの中では簡単に書かれています。しかし、神様は反面銀行のように、厳密な計算をされる御方です。イエスがきっちりと十字架の苦しみによって私たちの借金を支払ってくださったのです。それはイエスの十字架上のことばのとおり、完了しています。その計算の正確さ、手続きの正当性によって、はじめて1万タラントもの借金が帳消しになったことを覚えなければなりません。
最後に「心から赦す」(マタイ18:35)ということばは、サタンが悪用したみことばでかなり上位に入るものだと思います。このみことばには、「すっきり何のわだかまりもなくなるような感情をともなってこそはじめて人を赦せたのだ」という印象があるからです。しかし、これは違います。人は「赦そう」「赦そう」と思えば思うほどそのしこりは大きくなって赦せない自分をより強く認識するだけです。この点についても、十字架にしか解決はありません。あの罪もこの罪もすべて十字架で贖いが完了していることを宣言することが勝利への唯一の道です。人を赦すのは私ではなく、主です。私が友だちから受け取るべき100デナリは、免除された1万タラントの中に含まれているということです。100デナリを切り離して見つめていては、いつまでもたっても、心から赦すことなどできません。それが人間なのです。10デナリだって、1デナリだって人が人を心から赦すことは不可能です。十字架の事実の中にあらゆる赦しの完了があります。自分が赦されることの中に他者に対する赦しが含まれています。誰かに貸しがある私はすでに死んでいるのです。心から赦すとは、その事実を心の目で見ることなのです。